その結末へのプレリュード


 試合当日を迎えた朝――馨は独り、帝国学園の門前に立っていた。
 いつ見ても威圧感を覚えるその尊厳なる建物を前にし、高く聳えたところで翻る誇り高き校章を見つめる。朝のひんやりとした滑らかな空気の中、精神はよりいっそう静かに研ぎ澄まされるようであった。
 けじめ、と言う程のものではない。ただ、何故か自分のこの両足が、試合前に自身をここへ運んできたのだ。まるで、そこに何一つ置き忘れることは無いようにとでも言うように、或いは、そこに今一度誓いを立てろとでも言うように。戦いを目前にして尚凪の如く穏やかな心が、馨をこの場所へと連れてきていた。
 あらゆるものを擲ち、覆し、それでも雷門に移って世宇子と戦う決心をしたきっかけは、ここで時間を共にした者たちの想いに対するある種の酬いであった。何もできないまま、何も始まらないまま、無残な敗戦を喫してしまった帝国イレブン。そんな彼らの悔しさを代わりに背負い、自分だけでなく、今も絶えず応援してくれている彼らの無念も晴らせればと思って、鬼道と共にこの道に足を踏み込んだ。
 自分自身に起こる変化、ターニングポイント――それはいつだって、この帝国学園にあった。
 嬉しいことも悲しいことも苦しいことも楽しいことも、何もかもが一緒になって、この場所は確かに己を形成してきたのだ。今ここに立っている江波馨という人物の、その全てを。

「……行ってきます」

 誰にということもなく告げ、傍らに停めていた自転車に手をかけてサドルに跨ろうとする。
 そのときだった。

「馨ー!」
「待って待って!」

 遠くの方から朝の空気を貫く叫び声が聴こえてきたのだ。馨は思い切り背後を振り返り、すぐに目を瞠った。
 こちらに向かって走ってくるのは、懐かしくも見知った面々――帝国サッカー部メンバーだった。

「え、皆……」
「あー良かった間に合って。そのまま気付かないで行っちまったらどうしようかと思ったぜ」

 辺見と成神を先頭にどやどやと駆け足から小走りになり、やがて馨の目の前で息を整えながら立ち止まるメンバー。
 一方の馨は、久々の邂逅に喜ぶ以前に驚きが勝ってしまい、思わずきょとんとしてしまう。再会に適する気の利いた言葉すら出てこない。朝練の時間にはやや遅いうえ、こうして部員たちが揃いも揃って――源田と佐久間を除いた九人ではあるが――ここに現れた、その理由がいまいち解らなかったのだ。
 瞬きをするばかりな馨の困惑を悟ったのか、一番近いところにいた成神は悪戯っぽくにやりと笑い、また一歩距離を縮めてきた。

「馨のことだし、もしかしたら試合前に帝国に寄るかもしれないって考えてさ。ちょっとでも話せれば良いなって思って皆で走ってきたんだよ」

 結果的に、そんな成神の予想は大当たりしたわけである。当人は「オレって馨のこと何でも解っちゃうからさー」と鼻高々にし、後ろの先輩たちの失笑を買っていた。
 そこで漸く状況に着いていけるようになった馨は、自分の行動を完璧に読まれた気恥ずかしさに小さく苦笑いをした。

「走ってって、今までどこにいたの?」
「あっちの公園で軽くアップしてた」

 寺門が指差す先には、ここからでは見えないが広めの公園がある。馨もよく知っている公園だ。確かに、太陽光を最大限まで浴びられない学園のグラウンドよりも、朝の外気が心地好い公園の方がアップには向いているだろう。
 この様子からして、馨が来ないうちに皆はすっかり元気になれたようだ。こうしてわざわざ会いに来てくれたことも嬉しいが、また以前のようにサッカーに取り組めているのを知れたということもまた、同じくらい喜ばしかった。

「そっか、怪我はもう大丈夫なんだね」
「あぁ、あの二人以外はみーんな揃って仲良く完治」

 心底安堵したように微笑むと、辺見はわざわざ利き足を差し出して見せてきた。前に見たときは痛々しく包帯の巻かれていたそれも、今は馴染みある白いソックスに包まれた健康足そのものだ。

「今じゃ普通にゲームもできるし、練習内容だって前までのやつをこなしてんだぜ」
「次に馨が来たら教える予定だったのに、全然来ないんだもんー」
「なかなか時間が無くてね、ごめん」

 パシパシと太腿辺りに軽いパンチを入れる洞面の頭を、幼子をあやすようにして優しく撫でる。たったそれだけでも満足した洞面が「許した!」と言うと、案の定そんな彼の後ろから成神がオレもオレもと身を寄せてきたので、馨はくすくす笑いながら同様にその頭を撫でてやった。
 決して彼らのことを忘れていたわけではない。ただ、立て続けに試合を迎える雷門についていると、なかなかこちらにまで足を伸ばすことができなかっただけなのだ。
 やや放置気味になってしまったことに対して申し訳ない気持ちはあるが、全てに決着がついて雷門の方が落ち着けば、また馨は帝国のマネージャーに戻ることになる。部員たちもそれはきちんと承知しているのだ。縋りついてくる一年の背後にいる二年生たちは、皆揃って穏やかな表情を浮かべていた。

「雷門はどうだ? あれからも随分調子良さそうだが、決勝前のコンディションはちゃんと整えられてるか?」

 咲山が続けて言うに、鬼道と馨が移籍してからの試合は全てメンバー全員で観戦したとのことだ。千羽山戦も、木戸川清修戦も、皆が皆手に汗握って応援してくれていたらしい。

「雷門ってなんか毎回ぎりぎりまで危なっかしいっていうか、勝つにしても土壇場での逆転ばっかだから見てると心臓に悪いんだよなー」
「あはは」

 万丈の意見は馨とて否定できない。だが、そこがまた雷門の魅力だと思えば悪いものでもないだろう。

「まぁ、本当にいつもその場その場で限界を超えていってるようなものだからね、あの子たちは」
「オレたちとは真逆だなって見てると思うよ、ホント」
「それが“雷門らしさ”なんだよ。見ててはらはらするのは間違いないけど、その分興奮させられるというか」

 そうやって語る口振りが完全に保護者じみていたからか、先程の万丈の意見に同意して笑っていた者たちも自ずと静かになった。
 馨の目から見えている雷門サッカー部というものが、その言葉を通じて帝国サッカー部にも伝わっていく。一度本気でぶつかり合ったことがあるからこそ、彼らも既に知っているのだ。雷門がどういうチームなのか。どうして鬼道や馨が、あのチームに惹きつけられていくのか。知っているから、彼らの瞳には少しだけ、憧憬のような光が宿るのだ。
 そんな柔らかくもどこか真摯な空気の中、「ただ」――馨はふと、あの合宿の夜に鬼道と拳を合わせた右の手のひらを見下ろし、やにわにそっと握り込んだ。そこにある大事なものを、ここで再び確かめるように。

「今回の決勝は一味違う感じがするというか……とにかく、全員調子はしっかり上げてきてるよ。だから大丈夫」

 きりっとした面持ちでそう言い切ってやれば、部員たちは互いに顔を見合わせてから、それぞれ挑戦的に口端を吊り上げた。

「そうこなくっちゃな。負けて鬼道さんに恥かかせんじゃねーぞ」
「世宇子戦、頑張ってな! オレたちもこのあと部室で観戦するから!」
「ありがとう、私もできる限りのことはするつもりだよ」

 腕時計を覗くと、そろそろ雷門サッカー部がバスに乗ってスタジアムに出発する時間だった。大した話ができなかったのは惜しいけれど、馨ももう行かなくては遅刻してしまう。
 名残惜しさを堪えるように改めて全員の顔を見渡すと、どうしてもそこに足りない者たちの姿が思い出される。本当はここに源田と佐久間がいてくれれば何よりだったのだが――それを悔いても仕方がない。時間の関係上、彼らのところへは試合後に顔を出すつもりでいる。しっかり勝って、最高の便りを手土産にあの病室まで赴けるよう、再三気合いを入れ直した。
 馨はくっついたままの洞面と成神をやんわり引き離してから自転車のサドルに跨り、メンバーへ向けてガッツポーズをつくってみせる。帝国学園の校舎ではなく、目の前の彼らに対する勝利の誓いとして。

「じゃあ、行ってくる。試合終わったらまた来るから、胴上げの準備よろしくね」
「あぁ! 何十回でも胴上げてやるから、ぜってー勝って来いよ!」
「オレたちの分まで世宇子の奴らをギタギタにしてくれ!」
「いけるぞ馨、いけるぞ雷門!」
「ファイトー!」

 皆が同時に似たようなことを言うので、誰が何を言っているのかまでははっきりとは聞き取れなかったが、一つだけ解るのは、自分と雷門サッカー部が全身全霊で応援されているということ。あの日味わった屈辱と悔しさは、今、強大な敵に当たっていこうとする好敵手(ライバル)たちへの多大なる声援となって彼らの心を突き動かしている。
 そう思うと、始まる前から胸が熱くなってしまってどうしようもない。

「行ってきます!」

 皆の思いを、この胸が連れて行くのだ――彼らの行き着けなかった、決勝の舞台まで。
 声を張り上げて見送ってくれるイレブンに手を振りながらペダルを踏み込む。名残惜しさになかなか前を向けない視界の端、ずっと口を動かしながら腕を振るってくれる健気な姿が、いつまでも映り続けていた。


* * * * *


 自転車を飛ばして向かった先はいつもと同じフロンティアスタジアム。これまで幾度と激しい戦いが繰り広げられてきたここで、今日の決勝戦も火花を散らすことになる。
 ――はずだったのだが、事態は思わぬ方向へ転がることとなった。

「おはよう、皆……あれ? 何してるの?」
「あ、おはよう姉ちゃん、実はさ――」

 馨が駐輪場から正面の入り口へ回ったとき、先に到着していた円堂たちは締め切られた門の前で立ち往生していた。門にははっきりと『閉鎖』と書かれたプレートがかけられており、中へ入れなくなっていたのだ。
 これから試合だというのに、その舞台であるスタジアムが閉鎖とはどういうわけなのだろう――全く知らされていなかっただけに響木共々困惑していると、突然、夏未の携帯に電話が掛かってきた。怪訝そうに応答しては二度三度不満げな声をあげる夏未。
 その後、訝しい表情のまま通話を切った彼女が教えてくれたその内容とは、大会本部からの“決勝スタジアム変更”の連絡だった。
 それを耳にした途端、馨はあることを思い出した。夏未の父でありサッカー協会会長、そしてこのフットボールフロンティアの大会実行委員長でもある雷門総一郎が“事故”で入院したことにより、その実権は警察から釈放されて協会の副会長に復帰したあの男に移ったのだということを、この無茶な連絡が届いたことでやっと思い出したのだ。
 馨と同じく、響木も大方の察しはついているらしい。憤りよりも呆れが勝って、二人は面倒臭そうに溜め息を吐いた。

「今更、アイツのやることに驚きはしないな」
「でもこんな土壇場になって一体どこに……」

 変更なんでしょうね、と言いかけた口は、しかし中途半端なかたちで硬直する。
 不意に陰った日差しに頭上を仰いだ瞬間、たった今浮かんだばかりの疑問は大きく弾け、消失した。

「……空中、要塞?」

 そんな単語が自然と口に出てしまう。
「何だあれ!?」とメンバーが驚きの声をあげるのを聞きながら、馨は宙に浮かぶ巨大な物体――新たな決勝の舞台である『世宇子スタジアム』に、全身の力が抜けてしまうのを感じた。
 一体どんな原理で浮いているのか、今までどこに隠れていたのか、そんなこと何も解らない。
 ただ、そうして混乱している一同のことなど全く素知らぬ風体でスタジアムはゆっくりと高度を下げ、フロンティアスタジアムに被さるかたちで停止した。間も無くあちこちから階段が出てきたことにより、下で待つ者たちを迎え入れる体勢が整えられた。

「さぁ、行くぞ」

 暫くは呆気に取られて放心していたメンバーも響木の一言で我に返り、ぞろぞろと手前の階段を上っていく。やはり訳は解らないが、ともかく、試合はこの世宇子スタジアムで行われることが公式に決まったのだ。今更複雑なことを考えても何も始まらないし、覚悟を決めて試合に臨むだけだった。
 スタジアムの内装はその殆どが大理石で造られていた。薄暗く、肌をなぞるような冷気の漂っている廊下を突き進み、そのうち見えてきた光の下へ出てみれば、そこは緑の芝生が眩しい広大なフィールド。四方には女神を模したと思しき石像があり、彼女たちは黙ったまま冷たい瞳で戦いの場を見下ろしていた。

「ここが、試合会場……」

 どこもかしこも異質なこの場所に、全員まだ不安や戸惑いを隠せない。
 ぐるりとフィールドや観客席全体を見渡した夏未はきつく眉間に皺を寄せた。

「決勝を前に、世宇子スタジアムに変更……影山の圧力ね。一体どういうつもりかしら」
「いや、きっと大した意味は無いよ」

 間を置かずに否定を入れた馨へと視線が集まる。その一方で、馨は視線こそ真向かいにある石像へ向けていたが意識はある一ヶ所に留まり、ますます鋭さを増していた。
 あの男もまた、このスタジアムと似たような得も言われぬ異質さを纏っている。傍にいれば気付けないはずがないと言えてしまうくらい、いや、傍にいなくとも感じられるのではないかと思えてしまうくらい、馨は彼という人間に敏感になってしまっていた。

「大方、雷門を叩きのめすに相応しい舞台を用意した、ってところかな……ねぇ、影山」

 言いながらゆっくりと振り返り、遠く高い場所でこちらを見ていたその男――影山を射抜く。
 気付かれないようにするつもりなど更々無かったのだろう。意味深ににぃ、と笑う影山に他の者たちも気が付き、空気が不安定に動いたのが判った。
 目前に現れた諸悪の根源。困惑が蔓延る中で、円堂が、鬼道が、豪炎寺が、影山に対し因縁のある者たちが、揃って険しい顔をしている。各々の胸中に湧き上がる感情を押し殺すように、じっと男を見つめている。
 馨も努めて無表情を保って影山を睨んでいたが、傍らにいた豪炎寺の握り拳が震えていることに気が付くと唇を噛んだ。同様に、彼が必死に抑えつけている怒りを悟った円堂にも思うところは多々あるのだろう、どこか歯痒そうに眉を顰めていた。
 そんな二人に複雑なものを感じていたとき、馨は不意に肩へ重みを感じた。顔だけをそちらへ向けると、重みの主である響木がそこに手を乗せたまま、囁くように言ったのだ――「ここが正念場だ」と。

「え……?」

 どういう意味だ、と問い返すより先に、手を退かした響木は馨から視線を外した。
 そして次に。

「円堂、話がある」

 何かを心に決めたような、そんな切り出し方で彼のことを呼んだ。
 呼ばれた円堂だけでなく皆の注目を集めながら、響木は暫し円堂のことを見つめていた。数秒程間を開けた後、やがて冷静に、まるで何かを試すように、淡々とその先を続けた。

「大介さん……オマエのお祖父さんの死には、影山が関わっているかもしれない」

 びりっと肌に一撃の痺れを感じたのは、恐らく円堂の衝撃がそのまま伝わってきたからなのだろう。
 円堂だけではない。この新たな事実に驚いたのは、今ここにいるメンバー全員だった。

「じいちゃんが……影山に?」
「あぁ」

 円堂の目は響木を見ているようで見ていない。拳を握り、唇をきつく噛み締めるその姿は、目の前に叩きつけられた衝撃の真実を受けて、ただただ必死に激情を堪えているだけだった。

「響木監督! 何故こんなときに……!」

 夏未は響木を非難した。馨も一瞬、以前雷雷軒で鬼瓦にそうしたように彼のことを咎めるべきだと思った。大事な決勝の直前、何もそんなタイミングで彼の心を掻き乱すなんて監督失格である、一体何を考えているのか、と。
 だが、今し方囁かれた『ここが正念場』という言葉を思い出せば、自然と咎める言葉も喉の奥に下っていった――響木は賭けているのだ、今この時だからこそ、円堂がそこにあるものを乗り越えていけることに。乗り越えたその先で、また一つ成長を遂げることに。だから馨も、彼を信じて黙するだけだ。
 円堂の呼吸が次第に激しくなっていく。唇を噛み締める歯に力が増し、今にも噛み切りそうになっている。怒り、悲しみ、憎しみ、その全てを抑え込もうとして懸命に戦っている。見ているだけで胸が張り裂けそうになるが、それでも馨はひたすら信じ、待ち続けた。
 そんな円堂の肩へ、ふと、豪炎寺の手が乗せられた。同じく大切な人を影山によって傷付けられた彼が、強い眼差しで円堂に訴えかける。言葉は一切無いのに、それだけでも充分、豪炎寺の気持ちは伝わったらしい。

「……はー」

 ゆっくりと心を落ち着かせて深呼吸する彼は、もういつもの円堂守に戻っていた。
 豪炎寺もそれを感じ取り、こくりと小さく頷いた。

「円堂くん!」

 そこへ夏未が一つ、名前を呼ぶ。彼女に感化され、皆が順々に円堂の名を呼んでいく。
 最後に残った馨もまた、抱く思いを(あまね)く伝えるように、彼へと呼び掛けた。

「円堂くん」

 自分もまた、影山と築いた只ならぬ関係を、忘れたくても忘れられない苦しい過去を持っている。まだ完全に振り切れたわけではなく、それはいつまでもどこまでも足元に絡みついたまま、時折その罪を思い出させるように暗い影を伸ばしている。そのせいで大好きだったはずのサッカーが怖くて堪らなくなり、ずっとずっと、あらゆるものから逃げ続けてきた。六年もの間、ひたすら己のサッカーを呪い続け、空虚なままで生きてきた。
 それでも、こうして今この瞬間、馨は再びサッカーフィールドに立っている。あれだけ忌避してきた場所で、あれだけ呪い続けたサッカーと、もう一度向き合うことができている。
 ――それは偏に、皆が傍にいてくれるからなのだ。
 自分だけでは崩れたまま立ち直れず、あのまま永遠に何も変われずにいただろう。サッカーと向き合うことも、サッカーを愛することもできなかっただろう。皆がいたからこそ変われたのだ。もう一度立ち上がることができたのだ。仲間の存在がどれだけ大切で偉大なものなのか、馨はこの数ヶ月の内で、己の身を以て痛感してきた。
 だから――今、円堂に伝えたい。
 他でもない円堂に、自分を最初に救いあげてくれた円堂にこそ、伝えたい。

「……円堂くん」

 傍にいる、一緒に戦う、だから“大丈夫”なんだと。

「……姉ちゃん」

 円堂は感情を募らせるようにして息を詰め、一旦俯いた。そしてまたすぐに顔を上げる。その顔に宿るのは、影山への怒りや憎悪なんかではない、仲間への感謝と揺るぎ無い決意だった。

「監督、皆……こんなにオレを思ってくれる仲間、皆に会えたのはサッカーのおかげなんだ。影山は憎い、けどその気持ちでプレーしたくない」

 円堂はぐっと両手に拳を握り、力を込めた。

「サッカーは楽しくて、面白くて、わくわくする、一つのボールに皆が熱い気持ちをぶつける最高のスポーツなんだ!」

 ――彼は知っている。サッカーがどんなものか、自分たちが何を貫き通すべきか、必要なことをきちんとその胸に持っている。
 だから皆は彼について行く。共にサッカーをしたいと惹かれていく。どんなときでも変わらない熱さが共鳴を生み出し、途轍もない安心感を齎してくれるのだ。

「だからこの試合も、オレはいつもの、オレたちのサッカーをする。皆と優勝を目指す。サッカーが好きだから!」

 最後はとびきりの笑顔で、円堂ははっきりとそう言い切った。
 影山への憎しみに囚われずサッカーへの愛を貫いた円堂に、メンバーも響木も同調するように大きく頷く。いつしか不穏な空気は消え、試合に対する高揚感だけが皆の心を湧き上がらせていた。

「さぁ、試合の準備だ!」
「はい!」

 響木の号令と共に、全員が走って控え室へ向かっていく。
 やる気に満ち溢れ、意気揚々と暗がりへ消えていく数多の背中を見つめながら、馨は響木と二人でその場に残り、目を細めていた。

「円堂くんは、この先何があっても大丈夫ですね。彼のサッカーを愛する気持ちは本物ですから」
「あぁ……アイツは本当に、すごい奴だ」

 影山がサッカーを用いて雷門を潰そうとするならば、円堂はサッカーを用いて影山のやり方を否定しようとする。
 彼と同い年だった頃、自分は影山を否定できず無様に逃げ出してしまったことを思い出すと、馨は円堂という人間の全てが眩しく感じられてならなかった。


* * * * *


 選手たちが着替えを終え、控え室では決戦に備えて最終調整が行われていた。
 世宇子の試合内容を踏まえれば多少の怪我は覚悟しなければならないということで、いつもより念入りにサポーターを巻いたり医療品の数などを確認する。ベンチメンバーやマネージャーも然ることながら、特にスタメンの顔には抜けきらない緊張が浮かんでいた。
 これまでの試合だと、この時間の馨の仕事は練習内容の振り返りと戦術の確認が主である。相手チームの分析内容を再三復習し、いざ試合が始まったときにスムーズに動けるようにする、まさしくコーチとしての役目を担ってきていた。
 だが、世宇子相手にそんなことをしても無駄だということは既に解りきっている。だから今日の馨がすることといえば、ひたすら皆のモチベーションを上げていく、ただそれだけだ。

「――はい、これでオッケー。試合楽しんでいこうね!」
「ありがとよ、コーチ!」

 サポーターを巻き終えた染岡の背中をついでに叩いて送り出すと、作業が終わるのを待っていた様子の風丸が声を掛けてくる。

「コーチ、DFは浅めのポジショニングでいいんでしたよね?」
「うん、円堂くんの指示が通る範囲で、できるだけ素早く対処できるように守ってあげて。それに、いざとなったら風丸くんのその足があるからね、頼むよ!」
「はい、任せてください!」

 チーム随一の俊足を信じるコーチの言葉。それをプレッシャーではなく期待感として受け取った風丸は、きりっと顔を引き締めて果敢に応え、仲間のもとへと戻っていった。
 こんな調子で、馨は作業をしつつもとにかく全員に話しかけていた。これから大舞台へ臨む皆が、少しでも気持ちを楽にしてサッカーを楽しめるようにと。普段はもう少し静かににらめっこをする相手であるファイルも、今は用無しとばかりに閉じた状態のまま、まるで一つのアクセサリーのような扱いで小脇に抱えていた。
 いつもと違って何も難しいことを言わないコーチがいるからか、選手間でも試合前特有のあの重い空気にはなっていない。とはいえ、何も考えず能天気にしているということでもなく、皆が湛える表情にはこれまで以上、これまでには無かった程の真剣さがあった。
 今日までの練習全てを振り返り、今一度己の糧にするような。一人一人が己の胸に抱く思いと向き合っているような。
 決勝だから、というのも少なからず影響しているのかもしれないが、明らかに今日の雷門イレブンは違う――そこへ秘められているであろう未だ見ぬ可能性に、馨は早くも心臓の震えを覚えた。

「馨姉ちゃん」
「ん?」

 呼ばれて振り向くと、円堂が何かを持って立っていた。よく見てみるとGK用グローブのようだが、円堂自身は既に自前のものを着けているので予備か何かなのかもしれない。
 不思議に思っていると、円堂はそれを馨にもよく見えるようにと差し出してくれた。

「これ、オレのじいちゃんが使ってたグローブなんだ」
「お祖父さんの?」

 言われてみれば、まさしくその通りだろうなと思える。グローブは全体的にとても傷付いており、円堂の着けているものと比べれば年季の入り方も一目瞭然だ。相当使い込まれてきたことが窺える。
 触っても良いかと訊けば嬉しそうに許可してもらえた。馨は丁寧な手つきでその布地に触れ、細かな傷によってざらついている表面をそっと撫でた。そうすると、円堂大介が使った分だけそこへ込めたたくさんの思い、そしてそこへ滲ませた汗と努力と熱量が、指先越しにじんわりと浸透してくるようだ。馨は円堂大介のことを多くは知らないけれど、こうして長い歴史を経ても尚彼のサッカーが生きているのだと思えば、彼がどれだけすごい人物なのかをまざまざと実感させられるような気がした。
 一撫でしてから「ありがとう」と言って手を離す。円堂はそんな馨の手をじっと見つめていたが、ややあってから少しはにかむようにして笑った。

「じいちゃんにも、今日の試合を観てもらうんだ。《マジン・ザ・ハンド》は完成しなかったけど、それでもオレは皆と一緒に試合に勝つ。それを見守ってもらいたくて、持ってきたんだ」
「素敵だなぁ。見ていてくれる人がいると、やる気ももっと湧いてくるもんね」
「うん、カッコ悪いところは見せられないし」

 個人の鞄に入れてベンチまで連れて行くとのことなので、言うなれば馨は円堂大介と共に試合を見守ることになるのだ。そう思うと何だかこそばゆいが、同時に心強くも感じられた。
 馨自身はこれ以上彼の力になることはできないけれど、円堂大介は違う。偉大な祖父の面影は、まだ彼の精神的な支柱、絶対的な尊敬と信頼の向かう存在である。だったら、きっと最後まで彼の助けになってくれるだろう。彼が諦めない限り、必ずやその思いを支えてくれるだろう。
 グローブを胸に抱える円堂に、馨は確固たる自信を持って笑顔をみせた。

「円堂くんがお祖父さんを信頼してるなら、お祖父さんはきっと君の力になってくれるよ。だから最後まで諦めないで、頑張って、一緒に優勝しよう!」
「あぁ! 絶対優勝するから、姉ちゃんもじいちゃんと一緒に見ててくれよな!」
「勿論!」

 強く頷く馨と、グローブを握り締めて気合いを入れる円堂。
 そんな光景を壁際に立っている響木が静かに、それでいて優しく見つめていることに、二人は終ぞ気付かないままだった。


 やがて時間となり、フィールドへ移動する。
 観音開きの扉の向こう、つい先程までがらんとしていたはずの観客席は、いつの間にやらこれでもかという程の超満員となっていた。

『雷門中、四十年振りの出場で遂にこの決勝の舞台まで登りつめた! 果たしてフットボールフロンティアの優勝をもぎ取ることができるのでしょうか!』

 ここまで雷門の激闘を見守ってくれていた分、実況の熱さも一入(ひとしお)だ。
 雷門メンバーが入場すると、元々大きかった歓声がさらにその激しさを増し、割れんばかりの喝采がスタジアム中から降り注ぐ。決勝ということだけあり、観客のボルテージは早くも最大限まで引き上げられていた。

「凄まじいな……」
「気圧された?」
「まさか」

 ますますやる気になったと、豪炎寺の目はそう言っている。皆、入ってすぐは観客の勢いに呑まれているようにも見えたが、そんな歓声すら自らの力に変える余裕は持てているようだ。決勝という舞台での緊張より、試合に向ける気持ちの方が上回っているのだろう。馨は豪炎寺の返事に満足して頷いた。

「いよいよ始まるんだな、決勝が」

 ベンチにて、皆を前にした円堂が心躍らせるように口を開く。

「皆とこの場所に立てて、信じられないくらい嬉しいよ! オレ、このメンバーでサッカーをして来れて本当に良かった。皆がオレの力なんだ!」

 一人一人をしっかりと見つめてそう言った円堂に、メンバーも一様に嬉しそうな笑みを浮かべる。これは円堂だけの気持ちではなくチーム全体の総意なのだという、そんな勇気と喜びに満ち溢れた雰囲気。モチベーションはまさに最高と言える状態だった。
 そうして試合へ向けて心構えをしたところで、各自アップに入る。
 すると突如、会場に突風が吹き荒れた。

「うっ……」

 思わず目を閉じて顔面を腕で覆うも、すぐに風は止んだ。何だったんだと目を開けたとき、真っ先に視界に飛び込んできたのは世宇子イレブンの面々。瞬く間に現れた彼らの姿に、観客も実況も畏怖を抱くと同時に静かなる興奮を抑えきれてはいなかった。

『この大会最も注目を集めている世宇子イレブンだ! 決勝戦まで圧倒的な強さで勝ち続けてきた大本命、この決勝でもその力を見せつけるのだろうか!』
「早く、アップに入るよ!」

 実況に負けぬようにパンパンと大きな音を出して手を叩き、反対側のベンチに気を取られているメンバーの意識を取り戻す馨。はっとしてランニングを始めたり柔軟をし出すその顔つきのどれもが、何とか世宇子を意識しないように努めていると見受けられた。
 せっかく良い調子でここまで来たのだ、これ以上相手のペースにさせるわけにはいかない。そう思った馨は柔軟の手伝いをしながら、緊張気味になった子には一声二声を掛けて気持ちを和らげてあげようとした。二年生はともかく、一年生陣はやはり実際に相手を前にしたことでやや萎縮した様子である。馨は殊更優しく彼らの肩を撫で、同じ言葉を念じるように何度も繰り返した。
 いつも通りやれば良い、楽しめば良い、雷門らしいサッカーをすれば良い――ただ、そう言いつつも馨本人だって少しも緊張しないわけではないし、不安が無いわけでもない。
 そんな本音をぽろりと零したのは、鬼道の背中を押しているときだった。

「いよいよですね、世宇子戦」
「うん。……正直、皆が傷付く姿は見たくないけど」

 均一の力を加えながら背中を倒していき、充分に全身の筋肉を解す。
 もう一度身体を起こしたとき、鬼道は首を捻って背後の馨を見上げた。ここへきて初めて聞いたささやかな弱音を余すことなく受け止めようという、強く精悍な顔をしている。
 相変わらずだな――馨はそんな彼の優しさへの感謝、そして自身の吐いた言葉を打ち消すという両方の意味を込め、くすりと小さな微笑をした。

「でも、皆が逃げない限り私も逃げないって決めた。どんな状況になろうが、私は雷門が負けるだなんて思わない。何があろうと信じてるし、私自身、君たちのために全力を尽くすよ」

 だから、存分に雷門のサッカーを堪能してきてほしい。世宇子の暴力じみた力に屈せず、本当のサッカーというものを、ここにいる全ての人たちに見せてほしい――言葉にはしなかった願いを託すよう、今度は彼の前に回り込んで手を伸ばす馨。
 鬼道はすぐにその手を取ると、そこへありったけの思いを込めるようにして、握る指にぎゅっと力を入れた。

「ただ、無茶はダメですよ」
「善処します。……一つ言わせてもらうと、私が無茶するとしたら君たちのためなんだし、そんな私の気持ちも少しは汲んでもらいたいけどね」

 手を握り返してそう言えば、鬼道は少し面食らってゴーグルの奥で目を丸くしたが、いい加減そういう馨の性格にも慣れてきたらしい。そのうち観念したように口元を綻ばせ、こくりと首肯した。
 そうこうしながらアップを終え、試合もあと数分後に迫った頃。
 ベンチ前では、控えも含めた選手全員が肩を組み合い円を描いている。そこへは加わらずに傍観している響木も、馨も、マネージャーたちも、心の中ではがっちりとその中に混ざっていた。

「良いか、皆! 全力でぶつかれば何とかなる! ……勝とうぜ!」

 一心同体となる円陣の外側では、馨とマネージャーたちも互いに顔を見合わせていた。

「こっちも、精一杯選手を支えてあげようね」
「はいっ!」

 士気を高め、いざ勝負と世宇子のベンチへ目を遣る。
 すると、不気味な程に静かな彼らのもとへ、ちょうど台車で何やら水らしきものが運ばれてくるのが見えた。怪訝に思って様子を窺っていると、世宇子イレブンは一人一つのコップを手にし、一斉にその場で中身を飲み干した。

「……」

 見かけは異様なだけでただの水分補給だとも見て取れるが、どうだろう――まだ確証が得られたわけではないにせよ、それでも一応、この奇妙な引っ掛かりは頭の片隅に置いておくことにした。
 ここへきて解らないことだらけだが、今更待ったはきかない。雷門イレブンも世宇子イレブンも、始まりを迎えるためにグラウンドの中央へと歩き出している。
 遠ざかる皆の背中を見送りながら、馨も膝の上に置いた両の拳を固く握り、あらゆる覚悟を決めた。

「……行ってらっしゃい!」

 ――いよいよ、決戦の時だ。




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