「っ、みょうじ官吏!?」
「こんにちは、絳攸殿。どちらにおいでで?」
「あ、の、府庫へ…」
「奇遇ですねぇ。でしたら、私も今向かっている最中です。共に参りましょう、絳攸殿。そんなに書翰をお持ちではここから府庫まで大変でしょうから、私も手伝います」
その声が此方まで届いてきた事に、またかと景戸部侍郎は苦笑を漏らした。毎度の事ながらよくやるものだ。穏やかな顔をしながら吏部侍郎の面倒を見ているであろうみょうじなまえ吏部官はここの所この朝廷ではちょっとした有名人であった。あの悪鬼巣窟と噂される吏部に在席しながら穏やかな人柄である事もさることながら、最近鬼才であると有名な李絳攸吏部侍郎とよく共にいる事で、より注目を集めているのだ。あんな官吏いただろうかと首を傾げる者が多い中、彼、みょうじなまえは自然に吏部に溶け込んでいた。元から吏部にいた官吏なのだろうと思われたが、今迄認知されていなかった事から察するに、能吏というものではないのだろうと早々に興味を失せる者が多い。だがそれにしてはあの李絳攸があまりにも頼りにしている。ただ人柄に惹かれたのならそれまでだが、やはり、みょうじなまえにはそれなりの能力があるのではないかと囁く者も数名。戸部侍郎である景柚梨も同じ考えだった。あの李絳攸が頼りにする程の人物なのだ、少なからず、能力はあるのだろう。景戸部侍郎はまた笑みを浮かべた。あまり絳攸殿と変わらない歳に見えるのだが、言動は大人らしい。不思議な人だ。
「何を笑っている、柚梨」
「黄尚書。いや、あまりに微笑ましくて」
「さっさと手を動かせ。他に気を取られる暇があるのならな」
「わかってますよ」
未だにくすくす笑いながらも手を動かす景戸部侍郎の姿に黄尚書と呼ばれた男は小さく溜息を吐いた。だがそれは、彼が常時付けている仮面より外に出る事もなく、景戸部侍郎の耳に届く前に消え去ったので、彼には気付かれなかった。戸部尚書である黄奇人。勿論奇人という名は本名ではない。いつも奇妙な仮面を付けて歩く男に周りは変人奇人だと囁き合った。それに堪忍袋の尾が切れた黄尚書は自ら黄奇人という何とも嫌味な名前を名乗り始めたのだ。今では黄奇人の本名を知る者は少ない。
「……あいつも、知っている一人なのだがな」
「何か言いましたか?黄尚書」
「何でもない」
十数年前に催された、忘れたくとも忘れられない国試の事を思い返しながら、黄尚書はまた尋常ではない速さで書翰に筆を走らせ始めたのだった。
今でも有名である、悪夢の国試組。
人はそれを、その年の及第者の総称、はたまたその国試そのものを装飾してそう呼んだ。その年の国試は色々な事件が相次ぎ、泣いて飛び出す者や、とある者の美貌に惚けて落第するものが相次ぎ、及第者自体が少ない異例の年であった。その中でも上位及第した三人はこの朝廷では知らない者はいない。
状元及第、鄭悠舜
傍眼及第、紅黎深
探花及第、黄奇人
何れも能吏であり、何れも大事な位に就いていた。以下上位及第者も大成している者が多い。だが一人、能力はあれど影が薄く、この濃い面子により話題性皆無だった当時18歳で第五位及第したみょうじなまえを抜いては。彼は万年窓際吏部官として淡々と仕事を鬼のように処理し、かつ吏部侍郎の補佐紛いな事をしている事を知っている者は、少ない。
▲▼▲
- 2 -