episode 115
覚悟は出来ていた
『玖楼国の遺跡でサクラ姫、貴方の記憶を奪ったのは、飛王・リードという男よ』
サクラが取って来た楕円形の光る球体はモコナの口に吸い込まれ、それは無事、侑子の手に渡った。それを見つめる侑子の表情は憂いを帯びている気がしたが、すぐにその表情は消え、鋭い視線をこちらに向けた。そしてその口から紡がれた名に、レイノは思わず眉を顰めたのである。
『正確には、記憶を奪う事が必要だった訳ではないわ。飛王の真の目的は、貴方の記憶を「飛び散らせる」事』
「何の為に…?」
『『願い』の為に』
飛王の願いを叶える為には必要なものがふたつあると、侑子は言う。ひとつは玖楼国に埋まっている遺跡だ。そして、ふたつはサクラが記憶を探して様々な世界を巡る事である。その際には時間を超え、時には時間さえも超えて、様々な次元を「記憶」する事が求められたのだ。
「記憶…?」
『サクラは旅の最初の頃、ずっと眠ってたんだよ。今は元気だけど、寝てる間に起こった事覚えるの、無理だよ』
『飛王が欲しかったのはサクラ姫の心の記憶ではないわ。躯という名の器の記憶』
各次元や世界を躯に記憶出来る、それがサクラが持つ世界を変えうる力だと言う。初めて聞かされた自身の特殊な力に、彼女はただただ驚く他、術は無かった。彼女のその力を手に入れる為に飛王は彼女の記憶を羽根にし、それぞれの次元に落とした。それは記憶の羽根を拾い集める旅を彼女にさせる為である。それを企てた際に、飛王は既に、自身の企みを知っていた『小狼』を攫い、何も知らないが、羽根を集める事を何よりも優先するもう一人の小狼を創ったのだ。そこまでスラスラ、と言葉を紡いでいたが、侑子はふと、レイノに視線を寄越した。侑子の意図に気付いたレイノは、自嘲する様に口角を歪める事しか出来なかったが。
「…構いませんよ」
『……レイノの父親を人質に取ってレイノが身動きを取れないようにし、黒鋼の母上を殺め、国を滅ぼさせた』
「は……?」
「レイノちゃん、が…?」
再び侑子から紡がれた事実は限りなく真実で、それは表情を歪ませているレイノと侑子からも想像に難くない。その事実に一番驚いたのはやはり黒鋼である。ずっとずっと探して来た両親の仇が今、ここに居るのだ。憎い筈なのに。殺したいくらい憎い筈、なのに。何で、何で。
俺は動く事すら出来ねェんだよ。
「……昔のわたしには、自我がなかった。ただ、人や街、国や世界を壊すしかなかった。そんな殺人鬼みたいなわたしを止めていてくれたのが、父だったんです」
『けれど、父が捕らえられた事によってレイノの『殺人鬼』の一面が見えてしまった。それに目を付けたんでしょうね、飛王は』
「…ミッドガルド国で過ごして、『それ』は消えたと思ってた。旅が始まってからもそうだと思ってた」
「けど」と言葉を繋げたレイノはボロボロになった黒のインナーの袖に手を掛け、乱暴にそれを捲った。そこには何もなかった、ある筈のものがなかったのだ。神威の爪によって付けられた裂き傷がなかったのだ。それに目を見張ったのは黒鋼とモコナである。そんな仲間に気付いた彼女は思わず眉を下げ、苦笑を浮かべた。
「馬鹿みたいに強い治癒能力があるって気付いたから、神威さんに『深く切って』って言ったんですよ。まあ、そのせいで彼には気づかれてしまったみたいですけど」
「…いつからだ」
「え?」
「いつから、気付いてた」
「……レコルト国、かな」
「…まさか、あの骨折が治ったのって…」
唸る様に声を絞り出す黒鋼の問いに何でもない様に答えるレイノに、酷く殴りたくなった。殴れないとは思うが。周りにバレない様に溜め息を吐けば、目を見張ったファイが膝にサクラを寝かせたままこちらに顔を向けた。その言葉に答える声は、無い。けれど、痛々しく微笑むレイノの表情を見れば、何かを察してしまうと言うものだ。
「…謝って済む問題じゃないって分かってる。けど、今まで黙ってたのには、わたしに非が、ある。何をしても構わない。殴っても、めいっぱい罵ってくれても構わない」
「レイノ…」
『く、黒鋼…』
黒鋼の顔は影に隠れて見えない。見えない方が、良いのかもしれない。理不尽にもわたしは泣いてしまいそうになるから。今でも思い出すの、血で濡れた柄を掴む感覚を。人間の肉を貫く、あの腹の底から嘔吐してしまいそうな死にたくなる感覚を。前から、横から『小狼』とモコナの心配げな視線が身体に突き刺さる。思わず細めた目は、黒鋼の大きな溜め息を聞いてより酷くなった様に感じた。
「別に何もしねーよ」
その時の声が、表情がどれだけ救いになったかなんて貴方は知らないでしょう。
「な、何も、って…」
「お前が決断してやった事じゃねーんだろうが」
「そ、そうだけど、でも」
「…それを『正義』としてたり自分の運命だって悲観してたら殺してたかもしんねーけどな。ちゃんと自分の非だと認めて前に進もうとしてるんだろう」
「く、黒鋼…」
「まあ、あとで二、三発殴るがな」
最後の黒鋼の言葉を聞いた直後、レイノの瞳はゆらゆらと揺らめき始めていた。それに気付いた『小狼』は笑みを浮かべながら彼女の頭を優しく撫でる。温かくて優しい『小狼』の温もりは懐かしくて、そのせいでまた涙腺が緩んで来てるなんて、気付いてるかな。自分の事でいっぱいっぱいだったからか、古いベッドのスプリング音が鳴っていたなんて、気付いてはいなかったけれど。
「…こいつの事は知世姫も知っていたのか」
『いいえ。知世姫が知っていたのは貴方が諏倭を出て日本国の忍になり、いつか旅立つまでよ。日本国で人を異界へ送れるのは知世姫しかいないから』
「俺が知世に仕えてたのは自分の意志だ」
『ええ、知世姫もそう信じている。だからこそ、飛王の思惑を知っていても貴方を送り出した』
そして、話は再び日本国の事となる。人を異界へ送れる程の魔力を持っている知世にとってもまた、飛王の企ては周知の事実らしい。分かっていたのにも関わらずそれを黒鋼に言わなかったのは、言う事で未来が変わってしまうかも知れない、そんな示唆があったからだろう。それを分かっているからこそ、黒鋼は何も言えなかった。隣で未だに瞳を潤ますレイノも同じだっただろうから。侑子が次に声を掛けたファイの脳裏には、懐かしい、けれど苦しくて苦しくて堪らなかったとある記憶が映り込んでいた。
『死にたい』
そう呟くのは何回目だろうか。何回目から数えるのを止めてしまったのだろうか。それすらも分からなくて、ただしんしん、と降り続ける雪を見つめて、傷のある鉄格子に向かって手を伸ばす。静かに息をすれば白い息が視界に入った。息をした唇は長い間水分を取らなかったせいか、カサカサに荒れている。
外の世界を渇望して、どうにかここから抜け出したくて、けれど幼い子供の弱い力ではどうする事も出来なかった。心だけは強くあろうと、眼の光だけは絶やさなかった。けれどそれは只の虚勢だったのだ。それに気付いた頃にはもう心はガラスが割れた時の様に、ボロボロだったのだ。
『死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。でもその前に、誰かに』
心が割れてしまってから望む事はこの身を消す事、死ぬ事になっていた。けれど、微かに残った望みが、希望がある。死んでも良いと思った。生きていても辛い、生きている意味なんかない。いつも側にいたあの子がいなきゃ意味なんかない。もう会えなくても良い。ただ、ただ、ね。
『誰かに』
光に手を伸ばしてもどうにもならない事は知っていたんだ。
傷付いていないファイの手に、サクラの傷付いた血だらけの手が添えられる。感情を失くした今の表情を見られていたのかもしれない。浅い息を繰り返し顔を歪めている彼女は身体に残る痛みに必死に耐えていた。その痛みを和らげる事は出来ないが、少しでも気持ちが和らぐ様にと彼は笑みを浮かべる。そして、その傷付いた手を優しく包み込んだのだ。
『サクラ姫が様々な次空を超えてより安全にそれを「記憶」出来るように、もう一人の小狼、黒鋼、ファイ、貴方達が集められた。旅の同行者として』
「っ…ちょっと、待って下さい。レイノちゃんは、何なんですか……?」
『……レイノは元々この企みには入っていなかった。言ったでしょう、自我がなかった頃のレイノの殺戮衝動を見て利用する事を決めたって』
「まあ、わたしが裏切る事は想定外だったみたいですけどね」
飛王をあざけ笑う様なそんなレイノちゃんの笑みは見た事がなかった気がする。それを「怖い」と思ってしまった私は、これからも「レイノちゃん」と呼んで良いのか、少し、不安になった。その後に震える声で問い掛けたモコナに、侑子は自身ともう一人の魔術師であるクロウ・リードが創ったものだと言った。その目的は彼の思惑を阻止し、ふたつの未来を実現する為である。そんな話をしている間、『小狼』の視線は侑子の後ろにあるベッドに向いていた。それに続く様に侑子もそちらに目を向けては、再び『小狼』と向かい合う。
『大丈夫。貴方と、この子を失いたくない人達が払った対価と心がこの子を消させない』
「…ありがとう」
モニターに映る青年は全身を包帯で巻かれ、かなりの重症に見えた。けれど、健やかに眠っているその顔と優しげな侑子の声色が『小狼』の心を落ち着かせた。琥珀の瞳を閉じ、肩から無造作に掛かっているコートの裾をぎゅっと握る。その手に僅かな温もりを感じて思わず目を開ければ、そこには柔らかな笑みを浮かべたレイノが居た。
「その遺跡とやらと姫の記憶で叶うそいつの願いは何なんだ」
『次空を超える力、時間と空間を操る力を手に入れる事』
「その力で、何を…?」
『それを教える事は出来ないわ。けれど、飛王が叶えようとしている願いは、誰もが夢見る、でも、誰も叶えられない夢よ』
悲しげに目を伏せ、そう言い切った侑子は「教えられるのはここまで」と話を切った。彼女曰く、「これ以上は干渉値を超える」らしい。世界は、一見無秩序のようで、揺れ幅を許しながらバランスを保つ事で維持されている。そして、バランスを保つ事で維持されているものは、そのバランスを失えば壊れるのみだ。たとえば過去が変わってしまった紗羅ノ国の様に飛王が一行に旅をさせる事で既に崩れ始めているものもあるのだ。けれど、崩れて生まれた新しいものにもまた意味が在ると、彼女は言う。
『すべては必然だから』
侑子からこの旅の全ての事情を聞いたサクラは息も絶え絶えに目を伏せ、未だに残る痛みに眉を顰めた。知らなかった、じゃ済まない事だと分かってる。私のこの力がなければ皆、こんなに傷付かなかったと、思わなかった訳じゃない。けれど、そう自分を犠牲にする考えを浮かべなければやって行けなかった。「創られた」と言う小狼君も、過去に辛い思いをしたのだろうファイさんと黒鋼さんも、何も知らされていなかったモコちゃんも、まだ何か隠しているんだろうレイノちゃんも、私がいなければ、こんな思い、しないで済んだのに。
そんな私の嫌な思考を止めたのは魔女さんの凛とした声だった。確かにこの旅は仕組まれていたものだけれど、その後は私達自身の意志で選んで来た事だと、そう言った。立場は色々あるけれど、結果はやはりその意志に委ねられていた。その意志のせいで無くしたものも確かにあるけれど、生まれたものもまた多い。だからこそ魔女さんは私達に無理強いはしなかった。いや、したくなかった、のかもしれない。
『だから、これからの事も貴方達が選べばいいわ』
そして私には一つ、決めていた事がある。
「…旅を、続けます。小狼君を…探す為に」
『小狼を追いかけて旅を続ければ、飛王の思惑に添う事になるわ』
今までファイさんに預けていた体重をそっと立ち上がらせる。それに気付いたファイさんは自然な流れで私の身体を支えてくれた。前なら、私の隣にいたのは小狼君だったのに。ファイさんに支えられるのは、レイノちゃんの役目だったのに。そう二人に対して罪悪感を持ってしまうのは当然だった。そんな時に掛けられた魔女さんの言葉に、私はもう一度眉を顰めた。少し考える。けれど考えは変わらなかった。
「…それでも、行きます。小狼君の心を取り戻す為に」
「オレ、一緒でもいいかなぁ。今、オレの左目は小狼君の所にある。同じ魔力の源は引かれ合うから。小狼君、探すのに少しは役に立つかも」
「…それはファイさんの、本当の気持ち…ですか?わたしが行くっていったから…本当にやりたい事、本当に、守りたい人…隠してませんか?」
私の思いに同意して来たファイさんの顔にはどこか陰りがある微笑みが浮かんでいて、今まで見て来た、レイノちゃんが隣にいた時のあの幸せそうな微笑みの面影すら見当たらなかった。そして、それを出す事は私には出来ないのだと、少し悲しくなった。その後に私が言った問いは一種の賭けだった。けれど、ファイさんが出して来る答えを、私は無意識に分かっていたのかもしれない。素直じゃない事は分かっていたし、お互い素直ならきっとここまで拗れてはいないから。だからファイさんはレイノちゃんに見向きもせずに、私のボロボロの手を包み込んだんだと思う。
「…本当にしたい事だし、本当に守りたいって思ってるよ。オレは治癒系の魔法は使えない。君の怪我も治せない魔術師だけど、一緒にいさせてくれる?」
「魔法が使えても使えなくても…ファイさんはファイさんです」
少し躊躇ったのちに紡がれたファイさんの声は静かなものだった。本心ではない事は分かっていた。けれど、それを問い詰める権利は、今の私には、ない。だからと言ってレイノちゃんの顔を見上げる事も許されないと思った。同情してる、なんて思われる事が嫌だった。上辺だけの忠誠心が痛いとは知らなかった。ごめんなさい、レイノちゃん。
「『我が唯一の姫君』」
この口付けの先が、貴女だったら良かったのに。
『モコナも一緒に旅したい!黒鋼は?』
「日本国へは帰る。それは変わらねぇ。けれど、変わったものがある。約束は、ひとつじゃなくてもいいだろ」
「…黒鋼さん」
「それに、探してた奴にも会えるしな」
側にいたモコちゃんが思いをぶちまける様に声を張り上げる。この子は本当に優しい子。この子がいなければ、私達はもっとバラバラになっていたと思う。そして、黒鋼さんも不器用だけれどすごく優しい人。きっと、これからは黒鋼さんがレイノちゃんを守ってくれる。そんな予感がしていた。それがレイノちゃんとファイさんの仲を余計に拗らせるとは思ってもみなかったんだけど。
『貴方は?『小狼』』
「取り戻したいものがある。もう、戻らないかもしれない。けれど」
魔女さんはふと、話の対象を黒鋼さんから茶髪の人に変えた。本当にそっくり。きっと強いんだろうその心も、強く前を見据える琥珀の瞳も、芯が通っている強い声色も、少し硬そうな茶髪も、小狼君とそっくりだった。その瞳で見つめられると錯覚しそうになるの。まだ、ここにいるんじゃないかって。「一緒に行きたい」と、そう言った茶髪の人は横にいるレイノちゃんに視線を向け、魔女さんと同じような事を問いかけた。
「…止めなきゃならない、探している人がいる」
『レイノ…』
「それに、守ると決めたから」
そっと呟いたレイノちゃんの声はこの空間に綺麗に響いていた。けれど、少し高めのその声は決して心地好いものではなくて、ただただ硬い、悲しさを含む様な声だった。そうさせたのはファイさんで、そんなファイさんを奪ったのは私だから、私が悲しい顔をする訳にはいかなかった。けど、だけど。
「……姫さんを」
呼んではくれない名前に、私は酷く泣きそうになった。
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