episode 114
優しく触れられない
星を見上げた。何も知らずに輝いていた。それが酷く憎たらしく、しかし、羨ましかった。何も知らずにいた頃、わたしもあの星達のように輝いていたのだろうか。それはいつの話なのだろう。数年前だろうか。何百年、何千年も前かもしれない。無知と言うものは怖いけれど、それがどれだけ幸せな事か分かった時、わたしは泣きたくて、喚きたくて仕方がなかった。そっと目を瞑ると、肩にはくすんだベージュのコートが掛けられていた。それは隣に居る『小狼』も同じである。二人して思わず後ろを見ると、そこには何時もと同じ、しかめっ面をした黒鋼が居た。
「被ってろ」
「あったかいけど汚いね」
「文句言うな」
「…ありがとう」
肩に掛けられたコートは今までの戦いでの砂埃や引っ掻き傷などで汚れている。しかし黒鋼が今まで持っていてくれたのか、彼の温もりをじんわりと感じ取る事が出来た。茶化す様に言葉を投げ掛ければ、彼は優しく言葉を返してくれたのである。そんな光景に思わず口角を緩ませたが、自身の着ている服の紋様を思い出し、『小狼』はコートでそれをそっと隠した。
「…おまえの意志でそれを着てたわけじゃねぇんだろ」
「けど…見ていたいものじゃない筈だ」
「ずっとその紋様を持つ者に囚われていたと魔女が言ってたが」
「ああ。でも、それがどの世界にあるか、おれには分からない。もし知っていても、次元を超える程の魔力はないから、連れていけない…すまない」
「それもおまえの咎じゃねぇだろ」
『小狼』の行動に気付いた黒鋼は鋭い眼光をそのままに、静かに言葉を紡いだ。『小狼』が隠した紋様は両親が殺されてから黒鋼がずっと探し求めていた物で、それを見る度に両親の死ぬ姿を思い出すのは確かだった。しかし、そこには『小狼』の自我や意志は無いのである。理性で抑えられるものではないのも知っているが、そうする黒鋼はやはり優しく、お人好し、なのだと思う。
「…もう戻らねぇのか、小僧は」
その言葉には「戻って来て欲しい」、そんな願いが含まれていた様に思う。小狼の異変には気付いていた。彼の冷たい瞳もしっかりと感じていた。あれが前兆だった。全部全部分かっていたのに、何も出来なかった。ただ言葉で、叫んで引き留める事しか出来なかった。無力で、そのお陰で本来居る人物が戻って来たとしても何処か違っていて、確かに彼と目の前の少年は違う存在なのだと感じた。それが分かっているからこそ、レイノも黒鋼も『小狼』も小狼を追い、求めたいのである。
「姫が帰ってくるまでに決めなきゃな、これからどうするのか」
「…貴方は決めたのか」
「ああ。変わらねぇ事と、変わった事がある」
「…レイノは?」
「もう決めてる。はっきりとした目的が出来たからね」
『小狼』の問いに、レイノも黒鋼も躊躇わずに答えを紡いだ。それらを聞いて、『小狼』が何を思ったのかは分からない。けれど表情は複雑で、何か言いたげな事だけは明白だった。そんな『小狼』に思わず苦笑を浮かべれば、彼女はきゅっと肩に掛けられているコートを握った。その直後、背後から鋭い殺気を感じたのだ。
「何故、サクラちゃんだけで対価を取りに行かせたんだ」
鋭い殺気の正体はファイだった。投げ掛けられた声色は硬く、彼の表情を見れば怒っている事は一目瞭然だろう。初めて聞いたであろうその声色に思わず身体を震わせたわたしは、きっとまだまだ弱い。それと同時に、酷く喪失感に駆られた。もうあの笑顔を、柔らかい声色を感じる事は出来ないのだ、と。
「姫がそう望んだからだ」
「そのまま止めもしなかったのか」
「ああ」
暫く沈黙が続いた後(のち)、黒鋼はそっと口を開いた。それに間髪入れずに言葉を返した今のファイには何時もの余裕は見られない。その後に響いた肯定を示す黒鋼の言葉にファイは思わず唇を噛み、コートを身に纏い、黒鋼と『小狼』の横を通り過ぎた。それに反応したモコナは「対価は一人で取って来なければいけない」と言う侑子の主張を尊重したのではないだろうか。
『待って、ファイ!』
都庁から離れて行くファイに制止の声を掛けながら飛び付こうとするが、それを止めたのは神妙な顔付きをした『小狼』だった。そんな顔をされれば、逆らえない。そう思ったモコナは『小狼』の表情とファイの様子を交互に見つめ、『小狼』の腕の中に静かに収まったのである。
「姫の所へ行くつもりか」
「だとしたら?」
「ここで待ってろ」
「あの子が無傷で帰って来られないだろう事は君も、君達も分かっている筈だ。だから、治療しないんだろう。その背中と腹。この国に薬は少ない。サクラちゃんが怪我をして帰った時、少しでも薬を残しておけるように」
『レイノ、黒鋼…』
「君達も」と言ったファイにはレイノもサクラを止めなかった事はきっとバレているのだろう。そして、小狼に蹴られた腹部から未だに痛みが引かない事もきっとバレている。それは黒鋼にも言える事だった。白いシャツの背中部分を真っ赤に染めている正体は黒鋼の血で、傷を負ってから何も手を施していないそこは未だにじくじく、と内側から燻る様な痛みが広がっていた。
「あの子が帰りたくても帰れなくなっていたら?怪我ならまだいい。でも、もし命を落としたら…もう、帰れないんだ」
「それも覚悟の上だろう、あの姫は」
「…そこまで分かっていて、何故…」
「だからこそ、待っている者の所へ帰って来ると約束した姫を信じて、俺は、俺達は待つ。待つ事が、一緒に行く事より痛くてもな」
「…オレは待てない」
「信じる事がそんなに恐いか」
黒鋼の言葉を聞いても尚、ファイの気持ちは変わらなかった。信じる事が恐いのは良く分かる。昔、わたしもそうだったから。けれど、怯えるばかりでは何も変えられない事も分かってる。雨に降られ、頬の肉がジュッと爛れて行く音が聞こえた。その雨を見兼ねたファイは再び足を一歩踏み出す。手を伸ばしたかった。けれどそんな権利、わたしには、ない。
「待て」
「…まだ止めるなら、戦う事になるよ」
「貴方を止めるなら戦いますよ、わたしは。怪我をしても…血を、流しても」
ただ一言、そう呟いたファイの瞳は金色に輝いており、瞳孔は開いている状態だった。それを見る事は出来ないが、ひしひしと感じる鋭い殺気がその様子を想像させていた。そんな彼に対し、レイノは黒鋼の身体を押し退けて前に出る。そして、僅かながらに殺気をファイに向けたのだ。その瞬間、彼女の顔を近くを一閃の風が通り抜けた。それは、黒鋼の焦った声と同時だった様に思う。
「『小狼』…」
「…もし、助けに行って貴方が傷付けば、さくら…いや、姫はもっと傷付く」
しかし、その一閃がレイノに触れる事は無かった。その原因を作ったファイの右腕を『小狼』がしっかりと掴んでいたからである。まさか間に入って来るとは思っていなかった彼女は瞳を大きく見開かせた。それはファイも同様である。少しずつ緩む手の力は、ファイが本気で彼女を傷付ける気は無かった事を表していた。
「それはこの場で戦って傷ついても同じ事だ。きっと、自分の体が傷付く何倍も心が傷付く。貴方が、姫を傷付けたくないのと同じように」
その言葉を聞いたファイは大事な事を思い出したかの様にはっと目を見開いた。そして、優しげに微笑む今は居ない小狼を脳裏に映したのである。話し方、雰囲気は違うかも知れない。けれど確かに大元は一緒で、『小狼』の中に確かに小狼は居るのだ。『小狼』の胸元にしまわれているモコナは耳を立て、「あ!」と短く声をあげたのである。
『サクラだ!!』
モコナがそう言った瞬間、レイノらは弾かれた様にそちらに目を向けた。微かに視界に入ったサクラは全身ボロボロで、とても無事、とは言えない姿である。荒い息を吐き出しながら、サクラはそのままドサ、と地面に倒れてしまった。ファイはそれを支え、酸性雨から守る為に今まで着ていたコートを掛けてやる。その直後に聞こえた余りに弱々しい謝罪の言葉は、ファイの目を再び大きくさせるには充分だった。
「ファイさんが辛い時に…何も出来なくて…ごめんなさい。今もきっと…わたしよりずっと…貴方が…辛い」
「…サクラちゃん」
「…それでも…生きていてくれて…よかった……」
帰って来たサクラの頭からは血が多く流れており、右目は見えているのか分からない状況だ。元はと言えば、瀕死状態にあったファイを取り戻す為である。辛いと思う。彼は自分の為に誰かが不幸になる事を極端に嫌うから。だからこそ、傷だらけの彼女に「よかった」と言われるのは悔しかっただろう。歯を食い縛るほど情けないだろう。しかし帰って来た温もりは、それらの気持ちを一気に払拭させたのだ。
「…ごめんなさい……」
ごめんなさい、レイノちゃん。
prev next