episode 162
託す庇護欲
月光をその一身に受け、黒の着流しに身を包んだ黒鋼は窓際に腰を下ろしていた。夜も深まり、僅かに冷え込んだ外気は彼を冷静にさせてくれる。垂れる前髪が揺れる様(さま)、それが証拠だ。しかし、彼の心臓はどくん、どくん、と鼓動が止まない。きっと、微かに聞こえるあの二人の楽しげな声のせいだ。それを遮るかの様に、部屋の外には見知った気配がわざとらしく現れる。黒鋼は、そこでようやっと紅い双眸を露わにする。見ずとも分かるその気配は、黒鋼が尊んで止まないものだった。
「すぐ分かってしまうのですね。――昔から、そう。私が驚かせようとどこに隠れていても、貴方はすぐに見つけてしまいましたね。黒鋼」
「忍ってのはそういうものだろう。それに、何処にいても分かる…おまえならな」
そう言葉を締め括り、黒鋼はそこで初めて己の視界に知世を映した。――本当に、良い方向に変わったものです。次元の魔女と与し、飛王に立ち向かう事が主な目的であったはずでした。幼い黒鋼を自身の手で守った事は確かだけれど、旅に出してしまえばもうどうなるか分からない。夢見のままなら、黒鋼はきっと閉じるセレス国で死ぬはずだった。私の知る傲慢な黒鋼なら、レイノさんとファイさんと共に死んでいたでしょう。だから貴方を旅に出したこと、不安もあったけれど仲間の大切さ、誰かを慈しむ気持ちとそれが叶わない現実を知れて良かったと思うんです。
「魔女に聞いた。俺も飛王とかいう奴の手駒になるところだったと」
「もしそうだとしても、貴方は、誰の言う事もお聞きにならないでしょう。――この国でもずっと、天帝に叱られ、蘇摩を心配させても、最後はいつも自分の思い通りになさってましたわ」
「確かにな」
一言、そう答えた黒鋼の口元にはひっそりとした笑みが浮かぶ。ふと想像した、飛王の手駒としての自分は今のそれと大差がないのかもしれない。記憶の器であるサクラを守れと言われても、曖昧な立ち位置に居るレイノを殺せと命じられても、きっと彼はそれを行動に移す事はしないのだろう。その理由は単純で、ただ自分がしたい事ではないからだ。常に己を持ち続けた彼に、理不尽な命は無用なのである。そんな彼はふと知世を呼び付けた。
「墓暴きはやっぱり罪になるだろうな」
「そうでしょうね」
「――これからの戦いの為に、刀が要る。しかし、昔、預かった銀竜は置いて来た」
旅に出る対価として、黒鋼が常に腰に携えていた刀は既に侑子の物である。しかし飛王を相手にする以上、本物の刀身が必要になるだろう。――別の業物ではない、黒鋼の父が最期でも離さなかった、諏倭の銀竜が必要だ。そんな黒鋼の言葉に呼応する様に、知世の両手には、その小さな身体には有り余る程の物が抱えられていた。布で包まれるそれを暴けば、そこには確かに求めた物があったのである。
「…銀竜か」
過去、目の前で両親を殺された事により暴走した黒鋼は白鷺城にて保護され、願った。――父の亡骸の代わりに銀竜を母と共に葬ってくれ、と。しかしその願いは果たされず、あの時からずっと知世が預かっていたらしい。事切れる前に知世を諏倭に呼んだ黒鋼の母がそれを望んだ、と知世は言う。――母上は、こうなる事を分かっていたのだろうか。あの時、その身を滅ぼし愛する者と共に消える運命だと知ってもなお、俺の未来の為にそれを望んだのだろうか。そんなささやかな愛情が身に余る。あの人は、あの人たちはどこまでも、ただひたすらに俺を慈しんでいたんだろう。そんな両親に思いを馳せるように、俺は銀竜の刀身に自身を映した。
「…知世」
「はい」
「もう一度、日本国を後にするが、俺は必ず帰ってくる。その為に、もう一度誓う」
竜の頭部を知世に向け、黒鋼は跪く。――我が全ては主君の御為に在り、我が全ては主君の懐所で有る。我それのみを真実とし、此処に誓わん。主君のみぞ識る、我が真名に掛けて。――過去、黒鋼の脳裏に焼き付いて止まない両親の儀式をなぞらえる。神聖な、しかし何処か温かな慈しみに包まれたこの空間は、黒鋼が唯一両親を感じる事が出来る瞬間だった。――なあ、父上。俺は貴方のようになれるだろうか。
「御武運を。――『鷹王』」
貴方のように、強く優しく生を慈しむ事が出来るだろうか。
もう一人、月光を一身に受けて黄昏れる人物が居る。――『小狼』だ。微かな風吹雪に吹かれ、桜の花びらが舞う。それがサクラの運命だ、とは思いたくなかった。月光により明るくなった彼の身体に影が重なる。細長くも骨張った指先はレイノのものでも、黒鋼のものでもなかった。伸びた金髪を一つに纏める黒い紐が風に揺れる。それだけで儚く映るファイの風貌は確かに美しかった。そんなファイの「お邪魔だったかな」と言う言葉に、無言ながらに首を横に振る。瞑想していた訳ではないのだ。
「夜は冷えるから、部屋に戻って休んだほうがいい。まだ怪我も完全に治ったわけじゃないし、侑子さんが言っていた『その時』はまだ数日後だ」
「…ありがとう。さくら…姫の側にいてくれて」
「いる事しか出来なかったけれどね」
「それが一番、支えになる」
「東京」を過ぎ、サクラを守る役は『小狼』ではなくファイになった。言葉が届かない事に対して悲しみはあれど薄暗い想いを抱く事は無く、『小狼』が守るべきさくらは旅で見て来たサクラではないのだろう。それでも風に揺れる薄い茶髪、翡翠色の大きな瞳、すぐに折れてしまいそうな白い手首を見る度に思い出した。小狼にもう一度会うため、と銘打っても取り除かれない儚さ、弱さ、柔らかさは酷く似ていた。思わず顔を歪める『小狼』の肩を、ファイは軽く叩く。
「…サクラちゃんが、待ってる」
「…ああ」
一度だけ目を瞑り、脳裏に巡らせる。――確かに触れた事は数える程だったのかもしれない。言葉を交わした事も、視線が合わさった事もほぼないだろう。それでも、小狼を通じて見ていたレイノらの旅路はとても、とても羨ましかった。戦うのは、すべてはさくらとおれのため。そして、もう一度あの時間を取り戻すため。そう思うだけで心が温もる感じがした。いつもの調子を取り戻したおれは、僅かに笑みを浮かべてようやく魔術師の方へと顔を向ける。
「…あまり無茶はさせないでくれ」
「……えっ」
数瞬経って漸くその言葉の意味に気付いたのか、ぶわわ、とファイの白い顔が赤く熟れる。やはり「東京」からインフィニティに掛けて、が特異だったのだろうか。流れ出る映像と実際の感触とでは、彼の雰囲気はふわふわと変化する。そう言った部分も、レイノが惚れ込む一部分なのだろう。――初めて出会うレイノの恋人、と言う存在と話すのは不思議な感覚だし、正直複雑だった。あれだけ大切に、もっとも信頼しておれの隣を預けたあいつが女の顔を見せる日が来るなんて。けれど、不思議と嫌ではないのはおれがこの魔術師も信頼してるからだ。
「レイノの気持ちは、いつも平等なんだ。すべてを慈しんで突出するものは無い。ある意味、残酷だとは思う」
「…うん。そうだね」
「――でも、貴方はちがった。あれだけ気持ちをぶつけるレイノを見たのは初めてだ。きっと、さくらも知らない」
「レイノちゃんって、君のさくらちゃんとも知り合いなの?」
今はまだ言えない事を聞かれ、言葉を濁す。それに気付く程にはファイは聡明な筈だ。思わず苦笑を漏らし、ゆるりと双眸を細めた。驚いた様にそれを瞬かせ、蒼さがなくなった隻眼が緩められる。――不思議な時間だった。ここに、今は眠るレイノが来ればまた変わった空気になるんだろう。そんなレイノは神の力が弱まり、きっと前よりも弱くなる。その時に守るのは、おれじゃなくこの人だ。それを託せるほど、おれはこの旅の仲間が好きだった。
「どんな姿でも出会うレイノと貴方はきっと運命だ」
「…『小狼』くん」
「でも、レイノは変わらずおれの相棒だ。だからもう、泣かせないでくれ」
「…うん」
「……レイノのこと、最期まで守ってくれ。頼む」
――透明がかった琥珀色の瞳がオレを貫く。『小狼』くんは、セレス国で見たオレの記憶の事を言っているんだろう。神の娘として出会い、おそらくオレの存在がソールちゃんの行く末を変えた。もしかしたら、あの時にはもう既に「レイノちゃん」としての自我が芽生え始めていたのかもしれない。それを「運命」と称した『小狼』くんはもう一度、オレを見上げた。懇願しているようで、きっとオレに拒否権は無い。嫌だ、などとのたまうつもりもないけれど。死ぬまで番え、と。死してもなお逢瀬を、と『小狼』くんは言うらしい。本当に、レイノちゃんと良く似ている。死後の運命さえも定める言葉は、オレにとってとても心地の好いものだった。
「――覚悟の上だよ」
何時もと変わらず、桜は空を舞う。侑子の言っていた「その時」が今日になった。旅路を応援するかの様に空は晴れ渡っている。それだけで気持ちが晴れやかになるのだから不思議だ。そんな青空の下、ファイと黒鋼はセレス国、日本国、と元居た国の衣装で身を包んでいた。レイノはエジリンから送られて来た、ハンター業を営む際に何時も身に着けていた衣装である。激しい動きを制限する長いワンピースではなく、自由に動き回る事が出来る短いパンツだ。惜しげもなく晒された白い脚を薄く隠す様に、シースルー素材で出来た桃色のレースが垂れている。しかし、これも戦って行く内に消えるのだろう。でも、それで良かった。この衣装を使うのも、もうこれっきりにしたい。――コツ、と床板が微かに軋む。ふとそちらに視線を向けると、『小狼』は使い古されたマントを軽く翻した。これも侑子が『小狼』に渡したらしい。
『…モコナ』
『はい』
『玖楼国の止まった時間に行ける機は、一度しかない』
『はい』
『四月一日が記憶を対価にあなた達に渡した飛王の居場所とこの機を逃さないで』
この機を逃せば飛王に辿り着く事は一生叶わないだろうし、サクラを取り戻す事も不可能に近くなる。――そんな事はさせないし、前に進むと決めた。最期を見届けなきゃいけない。まだ、サクラちゃんに「ごめんね」も「ありがとう」も言えてない。わたしはその為に前に進む。そして、あの時の楽しい時間を取り戻す。たくさん痛い思いをするかもしれない。たくさん傷付くのかもしれない。それでもわたしは、この運命(さだめ)を選ぶ事を決めたんだ。
『――では、行きなさい。玖楼国へ』
prev next