episode 173
増幅するこがね
はらり、はらり、と欠片が舞う。人間ではない小狼が消えたあと、その場に残ったのは生々しい血液だけだった。致命傷を負ったらしい飛王は狭間の中へと消えてしまい、腕を振り下ろすだけで命を刈り取る事は難しい。呻き声も水が弾ける音も、岩を割る音も、何も響きはしなかった。ただ響くのはレイノが鼻を啜る音、欠片の者を憂う、あまりに微かな音だ。そんな彼女に寄り添う様にしゃがみ込みながら、ファイは上空からゆっくりと落ちて来た蛍石をそっと受け止める。
「小狼…君……」
「……詫びるくらいなら、なんで、生き残らなかった」
生々しい赤の側には緋炎が落ちている。刀身には小狼と、飛王の血液がこびりついていた。これだけが、小狼の生きていた証となる。あまりにも儚く、しかし鮮明な命はこの手から酷く簡単に零れ落ちてしまったのだ。――輝く事を止めない蛍石を、ファイは両の手の平で包み込む。それをそのまま額へと押し付けると、産まれた時から共にある安堵する力が甦る気がした。それと呼応するように、レイノの桃色の双眸が淡く煌めく。
奪われる前よりも強くなったファイさんの魔力。それはすべて、ファイさんの為のものだった。けれどそんなもの、ファイさんはきっと望んでなかったよ。強い力よりも何よりも、この旅には小狼くんが必要だったんだから。――もう一度瞳を細めると、ファイはレイノの柔い茶髪を幾度か撫でる。思わず見上げたその先に居る彼の双眸は、少しだけ、潤んでいた。しかし、そのお陰で決心がついたのだ。自己欲の為に小狼を創造した飛王を刈り取ること。そしてこの身に眠る、あまりに激しい太陽の光を解き放つ事を。
「この魔法、あの男の空間とこっちの空間を繋げようとしてる」
「――引きずり出せ」
「ああ。…レイノちゃん、いけるよね」
「いつでも」
飛王を欺き続けた小狼が消える瀬戸際、頼みの綱を手渡す様に発動させた魔法がレイノらを守る。飛王の居る空間へと続くそれをより広げるべく、レイノは手の平に、ファイは指先に魔力を集中させた。レイノらの足元には桃色に輝く魔法陣が展開されており、その縁からは風が吹き荒れる。それがピタリと止んだその一瞬、ファイの指は術式を完成させた。その直後、交じり合った桃色と蒼は閉じようとする飛王の空間を勢い良く押し広げ、黒鋼と小狼の身体を押し出したのだ。
その勢いのまま、小狼は炎を纏わせた緋炎を力の限り、飛王へと振り翳す。その一撃を防がれても、小狼は剣を握る手を止めなかった。刀身を隠していた炎を振り払い、飛王の目を潰した直後、小狼の背後から飛び出して来た黒鋼は迷いのない斬撃を飛王に浴びせたのだ。――まるで鏡を切ってしまった様な違和感、それは決して間違ってはいないらしい。次々と生まれる亀裂から姿を現したのは、頭部から足元にかけて二等分にされたカイルだった。
「……この…ため…に……、側に…」
「――置いていたのだが、身代わり程度にも役に立たなかったな」
染み一つ見当たらない床に無残にも垂れ落ちる血液にも眉一つ動かさず、飛王はうすらと笑みを浮かべる。今までも罪悪感を抱く事は無く、こうやって多くの血を流させて来たのだろう。垢だらけの腕で抱かれるさくら、と言う、その光景だけで小狼は吹き上がる様な怒りを感じている。――人の命を軽んじ、己の願いのみを追い求める、その利己主義的な思考。その為ならどれだけの犠牲も厭わない冷徹さ。願いを叶える事に対し、これほど真っ直ぐな男も居ないであろう。
しかし、それは耐えられない事だ。諦めてもらわないといけない願いだ。――ぱちり、ばちり、と異なる太陽の力が衝突し合う。「もう少しだけ我慢して」と言いたげに拳を作り、飛王を睨み付けると、より鋭いその力は仕方ない、と言いたげになりを潜めてくれた。
「…やはり、偽者どもはこの程度か。――真者と違って」
その飛王の言葉が合図となった様に、レイノらの手によって地面に伏せる事となった者たちは次々と溶け、消えてゆく。そんな光景に見向きもせず、飛王は己の無骨な手でさくらの繊細な頬を撫でてみせたのだ。――触れて良いものじゃない――小狼だけじゃない。きっと、ファイや黒鋼、モコナまでもが同じ事を思ったはずだ。しかし、そのか細い身体が覚醒する事は無く、何かに操られる様にその場に浮かび上がった。そして「始まるぞ」と言う喜々とした飛王の一言が引き金となったのか、さくらを中心とした空間は一瞬にして歪んだのである。
その直後、何かが動く気配を、小狼の身体は過敏にも感じ取る。――水が流れ、生命が再生される。しかし、すぐに狩り取られようとするそれは、確かに小狼が長い年月を掛けて追い求めて来たものだった。
「――姫の所へ行け」
「君は今までその為にずっと待ってたんだろう。あの手を掴む為に!」
ずるり、ずるり。幼いさくらの身体を一気に喰らい尽くさんとする黒い沼は、少しずつ、少しずつ、あの日の瞬間を思い出すように自我を取り戻して行く。その光景を背後に、レイノとファイ、黒鋼は小狼を守るようにしっかりと地を踏み締めた。――ここから先は通さない。時間が止まった空間にまで追いかけて来て、このまま理を壊させてたまるか。きゅ、と押し潰す床のコンクリートは、寸前のところでレイノを押し留めてくれている。「行け!」と言う黒鋼の一喝で、その身体もより力む形となった。その体勢のまま、彼女は小狼へと唇を開く。
「……小狼の大切な事は?」
「――さくらを絶対、死なせないこと」
「…それが分かってるなら、ぜったい、大丈夫」
次元の異なる、小さくも同じ存在が口にした魔法のことば。それを耳にした小狼は微かに瞳を瞬かせ、強く、強く頷いた。視界には映らない。しかし、その力強さが分からぬほど鈍くはないし、彼の事を理解できていない訳でもないのだ。――だから、視線は絡まない。ファイと黒鋼も、きっと分かっているのだろう。だから、何も言わない。そして、小狼が駆け出した音が耳に届いた事を確認すれば、レイノは漸く右腕に雷撃の様な魔力を纏わせたのである。しかし、その直後に響いた地鳴りは、この「切り取られた時間」の根底を揺るがす様な、酷く激しいものだったのだ。その瞬間、モコナが反応を示したと共にレイノも睫毛をぴくり、と震わせた。
「――遂に来たか、待ち続けていた時が」
「羽根の気配…?」
「羽根だと…?」
「あの時に羽根は無いだろう……?いや、そもそも『羽根』と言う概念すら、――」
「――あの時には、な」
あまりに純な気配、しかしあまりに強大なその力は決して無視できるものではない。そんなレイノの呟きに、最も最初に気付いたのは黒鋼だった。その後に続くようにファイも口を開くも、喜々とした様子の飛王を止められる者は今、この場には存在していなかったのである。――「切り取られた時間」の中に羽根は無くとも、次元を超える旅の影響は大きい。それにより、世の理は崩れ始めている。旅の中、行く先々で起こした出来事が、過去でさえも変えてしまった様をその目にした事だってある。その筆頭が紗羅ノ国だ。
それと同様、砂に
塗れた国。西洋表記ではない人々、土地の名の響き。生の糧と言っても過言ではない数少ない、貴重な水。そして、二つにそびえる塔の様な建物。――それらは全て、旅の空気も目的も何もかもが変化してしまった、かの国に酷似していた。
「まさか」
「ここは…!」
「――東京!」
「そうだ。ここは、かつて『東京』と呼ばれていたところ。そして、この地下には――」
ほくそ笑みながら言葉を紡ぐ飛王の目には、恐らくさくらは人として映っていなかっただろう。羽根の、強大な力の器としか認識していなかった筈だ。その身体に有り余る力によって翻弄される運命は酷く哀れだった。しかし、そんな
運命だとしても、こうして生きている彼女は酷く綺麗だと思った。――そんなさくらを押し退ける様に、眩い程の光は水中から漏れ出す。先程の様な地鳴りを響かせながら、少しずつ浮かび上がるそれは、確かにこの次元にはないものだった。しかし、それと同時に「羽根がある」と言う飛王の言葉を裏付けるものとなってしまったのである。
『サクラは、東京にいる人達の為にって置いていったんだよ!』
『みんながお水ないと困るから。サクラ、優しいから!』
『小狼が教えてくれた!ここにある水は一生懸命、サクラを守ろうとしたって!』
『きっと知ってたんだ!サクラの羽根が水を守ってくれてたって!』
『なのに!なのに!!』
『――みんなを悲しませる事に使うなんて、絶対だめ!!』
そんなモコナの必死な訴えも虚しく、ガラスから飛び出たサクラの羽根は、まるで器へと戻る様にサクラへと身を寄せる。光の球体に包まれるそれはじわり、じわり、とサクラの躯を抉じ開け、その中へ収まってしまったのである。――目の前に広がる光景に、レイノは思わず舌打ちを響かせた。それと同時に、時間が止まったかのように軋む身体は世界が作り替えられる事を意味していたに違いない。それは周りの風景が混沌にも歪んで行くさまが明確に示していた。
そして、それこそが飛王の夢。長年、気が狂う程の年月の中、ようやく叶う願い。叶わせてはいけなかった悲願。それは「世界の最も強固な理を崩すこと」だった。それが崩壊したと同時に、レイノはその場に蹲り、血を吐き零す。
「レイノちゃん!」
「っ、……な、う゛、な、…で、……?」
「おい、どうした!?」
「あ゛、ぅ、……っ」
喉に、五枚の爪が喰い込んだように、苦しい。呼吸を全て奪われているかのようだ。苦し紛れに吐き出される咳は赤黒い血液と共に外気へと触れる事となり、息が出来ない。血が、呼吸器官の扉を閉めてしまっているからだ。言葉もままならない。自身の名を呼ぶファイの方へ顔を向けると、彼はごくり、と喉仏を上下にゆっくりと動かした。きっと、無意識だろう。驚いた表情も束の間、きゅう、と何かを我慢する様に細められた蒼の双眸は確かに彼女を想っていたのである。
「レイノちゃん、きみ、もしかして…」
「ふぁい、さ、…?」
「――その名の通り、神の愛娘。既存の理の中でしか生きられない弱者だな、レイノよ」
「なに…?」
「聞いていないのか?諏訪の忍」
何処か嘲笑う様な飛王の問い掛けなど聞く価値もない、と言いたげに黒鋼は斜め後ろで固まるレイノと、その小さな身体を支えるファイを見下ろした。大粒の涙で潤み、おそらく霞んでいるのであろう視界には、自身は入っていない。その代わりにこちらを見上げるファイは、形の良い唇に、僅かに歯先を突き立てている。――こいつら、また何か隠してやがる。――黒鋼がそう確信するのに時間は掛からなかった。
レイノは作られた人格であると言うこと。その中には主人格であった神の娘が存在し、あまりに強大な神の力がレイノの魔力を喰い続けていると言うこと。既存の理の中で生まれたため、理が壊れた今、存在を保つ事が出来なくなっているのだ、と。――ふと、息苦しさで朧気になる意識の中、レイノの視界には黒鋼が捉えられる。はくり、はくり、と唇が震える。「たすけて」とかたどったそれは、彼にもどかしさを与えた。そして、その場にはギリ、と歯を食い縛る音が微かに響く。
「――魔術師」
「なに」
「……その馬鹿、任せたぞ。――死なせるな、生かせ」
脅迫としか思えぬ言葉ではあったが、今はそれが何よりも心地好かった。まだ死にたくない、強くそう思った。その本能的な感情に何処か、ソールがほくそ笑んだ気がした。――脇腹辺りで固まっていた刀を握る手に、目頭に力を込める。目に見えぬ空気を斬り裂いた音がすれば、黒鋼はただ真っ直ぐに飛王へと駆け出した。そんな黒鋼に向かって放たれんとする炎熱から庇う様に、ファイはレイノを抱え込んだまま、もう片方の腕で半透明の盾を生み出したのである。しかし、突如として形態が変わった飛王の魔術はファイの盾を突き破り、黒鋼の肌を破って行く。その、飛王の楽しげな笑みにいち早く気付いた彼女は口端から血を垂らしながらも魔法陣を顕現させ、新たな盾を作り出そうとするも、その数瞬の差によりこちらは大打撃を受ける事になったのだ。
その衝撃にレイノの身体には、力が入らない。腕に力を込めても、関節がズレた様に地面に甘える形となってしまうのだ。そんな体勢の中、彼女は汚れた瞳で小狼を見上げる。――はやく、早く。――急く気持ちが心臓に、声音に。そして、それはレイノだけではなかったらしい。
「「「――小狼!!」」」
その一喝によって小狼は再び拳に力を込め、闇に取り込まれんとする幼いさくらに手を伸ばす。――心臓を握り潰されそうになっているのか、と疑う程に呼吸が出来ない。呼吸が浅い。息を吸う、と言う行為が苦しくて、恨めしくて仕方がない。けれど、理を戻さなければわたしは消える。さくらも消える。小狼の願いは叶わない。モコナと、黒鋼と話せない。ファイさんに、だいすき、って。言えない。そんなの、いやだ。
逆流する血液なんて知るか。今この瞬間、ここで飛王を止めなきゃ全てが終わる。魂が宿るフェンリーとサクラの墓も、戻る、と約束したエジリンも、故郷であるミッドガルド国も、何もかもがなくなる。――消させるか、と叫ぶようにレイノは一際大きな魔法陣を背後に、ファイと黒鋼の攻撃を援護するよう、両手に魔力を集中させた。飛王は慣れた手付きで盾を顕現させるも、そんな数枚の薄紙で耐えられるほど、こちらの力は弱くないのだ。その力が飛王に衝突した瞬間、小狼はその小さな身体を漸く掻き抱く事が出来たのである。しかし、飛王は
嘲笑う。
「とったな…、その手を。おまえのその選択で、…最後の鎖が切れた」
小さなその身体、この手に掻き抱いている筈なのにこの騒ぐ心の所以は何なのだ。その不穏にも似たその心は、飛王の言葉によって増幅する事となる。――死の間際にまで追い詰められたさくらを取り戻したかった。ただそれだけなのに、それに巻き込まれる者がいると言う。飛王の手によって捕らえられたさくらの身体が糸の様に解かれ、それが小狼の目の前に浮かぶさくらへと一体化される。すると、みるみるうちに成長するその身体は、確かに現実に存在しているのだ。――あの頃と何も変わらない、確かにいとおしいその造形だった。
『ちっちゃいサクラとおっきいサクラ、一緒になっちゃったの!?』
「どうなってんだ……?」
「分からない!でも…、オレ達が一緒に旅をしたサクラちゃんと、切り取られた時間の中にいたサクラちゃん、どちらも凄い魔力なのにそれがひとつになって…!」
ただ冷静に、今の現状を言葉にするファイの声色を横目に、レイノは背後で感じる存在に人的なものを感じる事が出来なくなっていた。――あまりにも強い魔力、おそろしい力。何より、そんな力を手玉に取ろうとする飛王が何より恐ろしかった。それを
嘲笑って語るこの男がひどく、何よりも恐ろしかった。しかし、身体は動かない。指先さえも、震わせる事が出来ない。
飛王の望むものは分かっていた。何がしたいのか、何が望みなのか。けれど誰を、ひどく憂うのか。それは分からなかったし、知らなかった。だからこそ、明確に言葉にされた人物に、レイノは桃色の双眸をひどく見開かせたのだ。――旅の始め、幾度と繋がった通信、あまりに現実離れした容姿をもっと記憶に残しておけば良かった。そんな侑子に覆い潰されるさくらの光はあまりに儚く、そして、世界に押し潰されそうなほどか細いものであった。
『サクラの光、消えちゃう!!』
モコナの悲痛な激昂に、レイノらは思わずさくらへと手を伸ばした。しかし、その直後に暴発する飛王の魔術は酷く荒く、風による圧は留まる事を知らない。――呼吸の管が、押し潰される。小狼の叫び声を背に、せり上がる何かを吐き出すようにわたしは咳き込んだ。真っ黒い床板に広がる赤黒い液体が、わたしに現実を見せてくれる。その瞬間に、ぎゅう、とわたしを抱き寄せる力に少しだけ、安心してしまった。
その直後、レイノの視界の端には黒と紫を基調とした何かが浮かび上がる。――侑子の魔法陣だ。その中心から、さくらを守るように放たれるものは、あっと言う間に小狼をも飲み込んでしまった。しかしレイノらにとってそれは一瞬の事で、顕現される二つの魔法陣は二人を守る様に重ね合わされる。
微かな呼吸音を響かせながらも、ふと上空を仰ぐとレイノの視界にはサクラが映る。それは隣に立つファイも同様だったようで、何かを察したのか、彼は魔術を展開させた。その威力の底上げを図るため、魔法陣を展開させたレイノは風に煽られそうになるモコナを抱きかかえる。――しかし、現状を把握しきれていないらしい。レイノは己の腕の中で慌てた様子を見せるモコナに、細々と声を掛けた。全てを跳ね返す球体になるべく傷一つ付けぬよう、薄い桃色の膜を上乗せさせながら。
「ここから出るな!」
「く、ろがね…」
「レイノ…」
「……だいじょうぶ、だから」
「…テメェ、何が大丈夫なんだ。顔、真っ青じゃねーか」
死にかけのくせに、とぼやく様な呟きに、レイノはうっそりと表情筋を緩ませた。――立ち上がる事すら出来ない。今だって、魔法陣を維持するだけで精一杯だ。そのはず、なのにレイノは言葉を紡ぐ。何時もと変わらぬ愛らしい声音で、黒鋼に安堵感さえ与えるのだ。それが、冒頭のぼやきに繋がっている。そして、そう思うのはファイも例外ではない。当事者の一人であるからこそ、今の彼女がどれだけ危うい存在であるかは理解しているつもりだった。だから本当は彼女の魔術さえ跳ね除けたいのに、あまりに優しく、あたたかいものだからと出来ずにいる。そんな気持ちなど露知らず、彼女はもう一度だけ唇を開いた。
「…だいじょうぶ。ここにいて、……ね」
そうやって
微笑う、レイノが死なない世界。――それが、これから二人が取り戻す世界でもあった。
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