episode 38
隠しごと
「これ、どうしよう……」
翌朝、自室に戻って制服に着替えたレイノは鏡の前で悶々と頭を悩ませていた。それの原因は首筋にある鬱血痕である。恐らく昨夜の酔っ払ったファイにやられたのだろう。日が変わっても消える事がないそれは、デコルテが見える彼女の服装では隠す事が出来ないのである。と言って何時出るかも分からない場所で化粧品を買う訳ではないからファンデーションはある訳がない。となると、やはりこれしかないのである。
「レイノちゃん、おはよう!」
『おっはよーレイノ!』
「お、おはよう。元気だね」
「うん!今日はすっごく気持ち良く起きれたの!」
「良かったねえ……あ、顔洗って来るね」
一階に降りると、既に身なりを整えたサクラとモコナがそこには居た。その元気な姿は、昨夜浴びるほどアルコールを摂取した者とは思えない程である。思わずどもってしまった言葉は仕方ないだろう。朝から元気な様子のサクラに断りの言葉を送って洗面所へと歩を進めるレイノだったが、サクラの「あれ?」と言った声に思わず肩を跳ねさせたのだ。
「な、何……?」
「首、どうかしたの?」
「えっ、いや、えと…っ蚊、に刺されちゃって」
「そうなの……痛くない?」
「だ、大丈夫!全然大丈夫だから!か、顔洗って来ます!」
恐る恐る後ろを振り向けば、きょとん、とした表情を浮かべるサクラがそこには居た。そんな何時も通りの彼女を見ると、余計に自身の態度がおかしく見えて来るのだ(実際おかしい)。心配げにレイノを見上げるサクラに、レイノは慌てて言葉を紡いで洗面所へと急いだのである。
「……どうしたんだろう」
『さあ……』
「あ〜、う〜」
「おはようございます。お客様がいらっしゃったんで、お店、開けたんですけど……足大丈夫ですか?」
「おはようございます」
『おはよー、ファイ』
「わ〜」
「だ、大丈夫ですか?」
「なんか、頭の中で鳴ってるー」
『ファイ、宿酔いだー』
「サクラちゃんは平気ー?」
「はい!今日は寝坊せずに起きられました!」
ファイが一階に降りて来た頃には既に客でいっぱいで、そこにはざわめきがあった。既に開店準備は出来ていた様だ。その事にほっとしたファイの頭にモコナが乗った途端、ファイはカウンターテーブルへと寝そべってしまったのだ。そして、歪んだ笑みを浮かべてサクラに問いを投げ掛ける。それに返って来たのは、元気な返事と爽やかな笑顔だった。そんな眩しいサクラの笑顔を見て苦笑を浮かべたレイノは、ファイに水を差し出した。
「ありがとー。そいえばー、『ワンココンビ』はー?」
「刀を買いに行きましたよ」
レイノから貰ったコップを片手に、ファイは姿が見えない二人について問い掛ける。それに答えた彼女は客からの「すいません」と言う声に元気に答えてみせたのだ。そんな姿を瞳に映すファイの表情は酷く憂いを帯びていて、サクラとモコナは頭上に疑問符を浮かべたのである。
昨日の事を全部覚えてるなんて、言えないよね。
『ファイ、平気ー?今日、お客さんいっぱいだったもんねー』
「うんー。随分、ましになったよー。頭も痛くなくなってきたしー」
「今日一日顔死んでましたもんねえ」
「それは秘密だからー」
喫茶店閉店後、レイノらは店内の後片付けをしていた。ファイの宿酔いも随分とマシになって来たらしく、その事に彼女は笑みを溢しながらも楽しげに声を掛ける。それに反応した彼の表情は珍しく焦った様なそれだった。そんな所に鈴の音が鳴り、それに気付いたサクラは玄関に笑顔を向ける。しかし、次の瞬間には悲痛な叫び声が響き渡っていたのだ。そこに現れたのは全身が水浸しの、傷だらけの小狼だった。
『小狼、いっぱい怪我してる!』
「小狼君、大丈夫ですか!?」
「また鬼児に出会したー?」
「いえ。あ、着替えてきますね」
サクラとモコナはすぐさま小狼に駆け寄り、レイノとファイは驚きの表情を浮かべていた。ファイの問い掛けに微笑むだけに終わった小狼によって閉められた扉をサクラは虚しく見つめてるだけだった。そんなサクラの想いに気付いたレイノは、そっとサクラに傷薬を渡したのだ。
「あれは、剣の訓練のせいー?」
「酔ってたんじゃなかったのかよ」
「あの時はまだちょっと意識あったんだー。その後は目が覚めたらベッドの上だったけどー」
「え、意識あったんですか?」
「え…う、うん」
(うっそお……)
「え、レイノちゃん、オレ、何かしちゃった?」
急いで小狼を追い掛けたサクラとモコナを見送ったレイノらはカウンターテーブルに集まっていた。そこで広がる話題は昨夜のとある騒動の事である。その事をファイは誤魔化す様に笑い、そんなファイに対して黒鋼は静かな怒りを浮かべていた。しかし、その隣に居たレイノは酷く驚いている様子である。驚いていると言うかは、焦っている様なそれだが。そんなレイノに不安げに問い掛けたファイを見て、レイノは数瞬後に顔を真っ赤に火照らせたのである。
「え、ちょ、何その反応」
「っ…ね、寝ます!お休みなさい!」
「え、ま、レイノちゃん!?」
初めて見るその反応に、黒鋼までもが目を見開かせている。しばらく、静寂が空間を包み込む。それに耐え切れなくなったのか、レイノは早口で言葉を紡いで颯爽と自室に帰ってしまったのだ。もちろんファイの声は聞こえていない。まるで風の様に居なくなった彼女を、二人はただただ茫然と見送るしか出来なかったのである。
「……え、何今の」
「…お前ヤったのか」
「ヤってないよ!」
「…気持ちは伝えてからの方が良いと思うぞ」
「だから違うんだってば!」
夜の桜都国、現在の時刻は9時半である。大きな時計が取り付けてある路地を、恋人同士であろう男女が仲良く歩いていた。その二人の横には雰囲気がある電灯が設置されている。しかし、それは溶けて行き、全く別のものに変化したのだ。それは、そんな甘い空気を壊す様な鬼児だった。
「鬼児!?」
「大丈夫。鬼児は鬼児狩りしか襲わない…」
本来ならば、男の言い分が正しいのだが、今は違う。鬼児は彼に視線を向け、音を立ててそれを喰らい付いたのだ。鬼児の右手には血だらけの彼が掴まれている。そうして夜の街に響いた女の叫び声と鬼児の雄叫びは現実を突き付ける様な、そう言った意味を孕んでいた。時計の長針に居るフードを被った美しい男は、その様子をじっと見つめていたのである。
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