イメージの相違点
「あ、日比野!」
そう呼ばれたのは、委員会の仕事も終わって帰路に付く途中の時間帯だった様に思う。良く通るその声に思わず顔をそちらに向けると、明るい笑顔を浮かべた山本が、そこには居た。入学式の帰りに偶然会っただけの彼はしっかりと麗の名を覚えていて、そう言うさり気ない所が人を引き寄せる要因になっているのだと思う。馴れ馴れしい訳ではない。明らかな壁を作る訳でもない。踏み込んだ分だけ踏み込んでくれる、この距離感が酷く心地良かった。
「山本君!」
「今帰りか?」
「うん。委員会終わったところ」
「委員会?」
微かに砂の臭いを漂わせている山本はそれさえも気にしておらず、何時もと変わらぬ笑顔を浮かべていた。肩から下げているスポーツバッグは数ヶ月前に購入したにも関わらず、所々の傷が目立っている。部活動に励んでいる証拠だ。そんな彼が首を傾げ口にした問いに、麗は苦笑を浮かべながらスカートに下げている風紀委員会の腕章を見せ付けた。
「あ、あー!そっか!噂には聞いてたけど、マジだったのな!」
「噂になってるの?それ初耳なんだけど」
「あの風紀委員長にビンタした勇者がいるーって」
「いや、あれには深ーい訳があると言うか…て言うか、わたし勇者とか言われてるの?」
「ああ。尊敬の的らしいけど?」
「何それ恐怖じゃん消えたい」
麗の腕章を視界に入れてようやく理解した山本は何回も頷いては、やっと会えた、と言いたげに瞳を細めた。まさか噂になっているとは、しかも一年だけではなく学校中と言うではないか。理由があるにしても恥ずかしすぎて死にそう。そう思ってしまうのは、麗が目立つ事に慣れておらず、今まで平凡に生きて来たからなのである。そんな麗に対して山本は何を思ったのか、唐突に野球ボールを差し出したのだ。
「野球、ボール?」
「学校のやつそのまま持って来ちまったみてーだ」
「う、うん……?」
少し汚れを纏っているその野球ボールは練習で使った時間の長さを物語っており、少しカサついている様に感じる。しかしなぜ今このタイミングで野球ボール。そう思うのはきっと麗だけではない筈だ。形だけの頷きをしながらも彼女の頭上には疑問符が複数浮かんでいる事だろう。そんな彼女を見て思わず吹き出した山本は先ほど彼女に差し出したそれを手に取り、見せ付けたのだ。
「キャッチボール、やろうぜ!」
「わたし、上手く出来ないんだけど…」
「だーいじょーぶだって!軽くな、軽く!」
(軽くって言われてもなあ…)
すぐ近くにあった野球部の部室から拝借して来たグローブを填めて、麗は自信なさげにバックヤードに立っていた。初めてのものと言うのは、誰でも不安になると言うものである。それが経験者により気休めの言葉だとしても、だ。未だに不安を拭いきれない彼女は形だけの構えをしてみせた。それがいけなかった。最初は笑顔でボールを投げようとしていた山本だったが、それを振りかぶったその瞬間、何時もの笑顔は消え失せ、瞬きをする間(ま)に野球ボールは背後のバックヤードに煙を立てて引っ掛かっていた。思わず引き攣った笑顔を消す事が出来ない。ちらり、と横目で見てもどうやらこれは現実の様だ。「悪い、悪い」と笑顔を浮かべながら駆け寄る彼曰く、「野球のフォームに入ると力が入ってしまう」らしい。じゃあ何でキャッチボールに誘ったの。あの笑顔の奥にどれだけの闇を抱えてるのこの子。
「う、そお……」
絞り出す様に出たわたしの声は、酷く情けなかった様に思う。
山本が言っていた事が本当ならば、このまま形だけのキャッチボールを続けたら命が幾つあっても足りない。そう本能的に感じ取った麗は、彼と共に帰路に付く事を提案した。それに笑顔で乗った彼からは、先程の狂気じみた一面など想像出来ないだろう。あれは夢だった、と自身に言い聞かせた彼女は目の前の彼にグローブを返し、学校の正門から足を踏み出した。
「そう言えば、山本君さ」
「ん?」
「この前、飛び降り自殺しようとしてた?」
「っえ、あ…知ってんのか」
「わたしのクラスでもちょっとした騒ぎになってたからねえ」
「…何か、わりーな」
商店街を抜けた辺りだっただろうか。唐突に思い出した様に紡がれた麗の言葉は、山本にとっては黒歴史と呼ばれるものだった。彼女自身にとっては認知している事ではなかったのだが、彼女のクラスに居る山本親衛隊と呼ばれる団体にとっては悲報に類する事件である。それを聞いた彼は申し訳なさそうに眉を下げた。そんな顔させたくて言った訳じゃないんだけどなあ。そう心の中で呟いた麗は呆れた様に笑い、「んーん」と軽く否定した。
「…ツナが、さ。助けてくれたんだよ、オレの事……」
「…下に見てたのに?」
「っ…はは、どこまで知ってんだよ」
「周りの事は、良く見てる方だから。当たってた?」
「…後から考えたら、そうだったのかも、って」
言い澱んでいた言葉をピタリと言い当てた麗は少し、怖かった様に思う。あの時期に関わりは無かった筈なのに。なぜ、と。思わず漏れてしまった自嘲的な笑い声には皮肉的な意味も含まれていた。最初は友達と言うよりかはクラスメイトに類していたツナは悪い意味で有名で、そんな彼を同等に見ていた、と言えば嘘になる。優越感に浸っていた訳ではないが、そんな気持ちがなかった訳ではない。けれど飛び降りる前、あまりに純粋すぎた彼の言葉にオレの中で一気に羞恥心が込み上げて来た。何て事をしてしまったんだと、オレにないものをこいつは持ってるのにオレは何をしてるんだと。あんなに人を思いやれる優しさは、オレには、ない。大事にしたいと思った。こいつは無くしちゃいけないと、野球よりも優先したいと、強くそう思った。そんな気持ちも、目の前の同級生にはバレているのだろうか。
「…沢田君の事、今も下に見てる?」
「っそんな訳ねえ!」
「ふふ、そっか……沢田君の事、好き?」
「……好きだよ。日比野、は?」
麗の問いに反射的に答えてしまった山本の体温は、彼女の漏れた笑い声によって上昇する事となった。疑問として成立していたが、おそらく彼女は全て分かっているのだろう。そんな彼女はスカートをはためかせて、彼の目の前に立った。その時の笑顔は中学生らしくない、何処か大人びたそれだ。他意は無いのだろうが。彼の問いに、彼女はゆるりと口角を緩めて弧を描いた。
「わたしもね、大好き」
その時に聞こえた声はすっげェ優しくて、儚くて、オレはすぐに反応出来なかった。目の前の同級生の気持ちが分からなかった。けど、どきり、と胸が高鳴ったのは記憶に新しい。それも全て気のせいだと思える程には、オレは幼すぎたのだけど。まるでオレに言われた、と錯覚する様なその言葉は柔らかい雰囲気があって、この場にツナがいてくれたら、と叶いもしない思いを望んだんだ。
ああ、きっとオレは一生、君の事を掴む事は出来ないのだろう。