どうか解き放て、そのぬくもりを。
平和、晴天、緩やかな経過、それら全てを享受する一般人らの顔には、朗らかな笑みが浮かんでいる。それを疑いもせずに受け入れられぬ程に、少女は超人社会の畏怖を感じてしまっていた。徐々に圧迫感が増す空気、髪を鷲掴む力強さ、振り上げられる拳、それら全てが少女にとっての「個性」だった。逆らう事の出来ぬ「力」だった。それに押し潰されてしまったのに、どうして英雄を崇める事が出来ようか。
学校からの帰り道、久し振りに駅の近くへと出た。幾つものビルが立ち並び、様々な人間がすれちがう。その中には、見た目だけでは人間だと判別が付かない存在も目立っていた。しかし、それらを差別する風潮はとうの昔に過ぎている。それが酷く、羨ましくも妬ましく思えた。ひと際大きいビルには、日々のニュースやCMが流れるモニターが備え付けられている。ふとそちらに視線を向けると、見知った写真が映り込んだ。
『――次のニュースです。かつて『ヒーローディープ』と呼ばれた男が起こした、一家殺人未遂事件。この事件が起きてから、今年で五年が経ちました。ヒーローが守るべき一般市民を亡き者にした、凄惨なこの事件。本件の初公判が、11月18日に決定しました』
「この事件、報道規制かかったんでしょ?グロ過ぎない?」
「DVひどかった、って聞いたけど。あの外ヅラの良さでDVってヤバいよね」
「夜の方も過激だったりして」
「なにそれサイコパスじゃん」
どう足掻いても鼓膜を震わせる容赦のない会話は、酷く不愉快なやり取りだった。しかし、世論とはこう言うものだった、と再認識する。無関係な事柄にこそ、人間は口を出す。それは五年前のあの日、少女が身を以て体験した事だった。――皺一つない顔は、世間一般では「男前」と言われるそれなのだろう。健康的なダークブラウンの髪も、バランス良くついた筋肉も、きっとかつてはヒーロー活動の為だった。目的が変わったのは何時だったのか、それは分からないし知りたくもない。ただ、家の中ではあんな笑顔、見た事がなかった。
異物が込み上がる感覚に、少女は思わず顔を逸らす。気持ち悪い。吐きそうだ。それでも、我慢を強いられる生活にはもう慣れた。もう、なにもする気が起きない。そう一人ごちた少女は踵を返し、自宅へと歩を進めた。亡き者となった母のありもしない会話を受ける背中は、何処か小さく見えた。
「でもさ、警察に届け出を出さなかった母親も同罪じゃない?子どももいたんでしょ?」
「相談する友達くらいいそうだけどね」
「分かんないよ。サイコパス一家かもしれないじゃん」
「いやサイコパス一家ってなに。パワーワード過ぎない?」
これは、すべてを諦めたわたし――深海さつき――が、もう一度きみに手を伸ばす物語だ。
さつきの自宅は、雄英高校とさほど離れていない。あの巨大な、そして目を惹く校舎が見える程には時間に余裕があった。食パン一枚に常にストックがあるシーザーサラダ、市販のヨーグルトにインスタントの紅茶を合わせて合掌する。不味くも美味しくもない、ただの栄養素だ。それら全てを咀嚼し、準備をして外に出る。――平和、晴天、緩やかな経過、何時もと変わらぬ日常だ。初夏までとは行かない陽気が、さつきを生かしてくれる。桜は散ってしまったけれど、そんな四季の移り変わりさえどうでも良かった。
通学路の途中にあるコンビニで昼食を購入し、再びアスファルトを踏み締める。適当に投げ捨てられる「ありがとうございました」が、何故か心地好かった。無駄としか言いようがない正門を潜ると、唐突に肩へと重みが乗り掛かった。思わず振り返った先で目にした存在に、さつきは思わず顔を歪める。
「さつきちゃんおはよ!」
「…………おはよう」
「なにその合間!今日もテンションひッくいね!嫌な事でもあった?」
「強いて言うなら今かな」
「なんでよ」
「成田、声大きい」
雄英高校に入学してから二年、クラスが離れようとも体育の合同授業が分かれようともさつきの隣を譲る事は無かった。少女――成田睦――は何時だって声が大きく、うるさい。不快感を隠そうともせず、しかしさつきは己の隣を許して来た。そこに、二人にだけ許された空気があるのだと思う。耳だけを傾ければ、さつきの存在には気付かない。答えは簡単、睦の声があまりに大きいからである。
「今日のお昼、食堂行かない?」
「……ごめん。コンビニでパン買っちゃった」
「えー!きょ、今日、限定プリン…食べたかった…のに……」
「ご、ごめん。買って来ようか?」
「超人気だよ?どうやって?」
「個性使って……?」
「だめ!」
少しは学習したらしい睦の声量だったが、それでも朝は特別テンションが低いさつきには充分なそれだった。靴箱で上履きに履き替え、普通科の教室へと歩を進める。さすが国立、と言わんばかりのこの校舎は何から何までに金を掛けているらしい。一見普通に見える正門も、有事の際にはシェルターが作動し、雄英高校の土地全体が一つの防空壕となる。ヒーローありきの超人社会で、この対策は当たり前と言うべきなのだろうが。
二人の教室が近付いて来た所で、睦はひと際大きな声を響かせた。周りの視線を一身に受けるこの感覚はまだ慣れない。悪意が孕む視線ならばまだしも、珍妙なそれに慣れている訳ではないのだ。申し訳なさそうに眉を下げるも、睦が気付く様子もない。これが二人にとっての「日常」なのだから、気付く筈もないのかもしれない。
「…良いよ、行こ」
「へ?」
「食堂。……食べたいんでしょ、プリン」
「良いの⁉やったー!」
「……ほんッと声大きい、成田」
――それでも、今のわたしの幸せがあるのは確かに成田のお陰だった。
入学当初、さつきの周りに人は居なかった。全国ニュースで「ヒーローディープ」の個人情報が流されてからと言うものの、合致してしまった苗字のせいでさつきは孤独を経験した。――裏切られた。――そんな思いを抱いたのも最初だけで、すぐに諦めた。あんな血を広げてしまったから悪いんだ。幼少期に「個性」をちゃんと発動できない自分がだめなんだ。そう思わなければやって行けなかった。生きて行けなかった。
周辺の環境に対する疑心、自尊心が欠如したさつきに、身一つで近付いて来たのが睦だった。何時も笑顔で弾ける様な底抜けの明るさ、そんな睦を見る度に羨望と諦念を抱いた。そんなさつきにもお構いなしに、睦は日常の何でもないこと一つ一つをさつきに話して行く。
『さつきちゃーん!駅の方に良さげなカフェ見つけたから行こ!』
『行かない』
『なんで!紅茶もいっぱい種類あったよ!紅茶好きなんだよね?』
『…………なんで知ってるの?』
『先生にプロフィール見せてもらっちゃった!』
『なんでそんなどうでも良いところでコミュ力発揮するわけ?』
『めちゃめちゃ大事じゃん!一世一代の出来事だよ!』
――今思えば、わたしの羨みと諦めにも気づいていたんだろうと思う。馬鹿っぽいけれど、決して無知ではない。きっと、わたしの噂も知っていた。それでもこの二年間、わたしに何も聞かずにいてくれた成田はとても聡明だろうと思う。きっと、周りからも色々と言われたはずなのに。その度にこんなわたしを庇ってくれていただろうに。けれど、そんな一面に気づいてからは少しだけ、わたしも手を伸ばしてみようと思えた。
何時も通りの午前授業を終え、約束通り、さつきと睦は食堂へと歩みを進めた。昼休憩のここは特に人でごった返しており、必要最低限は近寄りたくないのが本音である。しかし、その中に一目散に割り込んで行くのが睦なのだ。その様子を呆れた様に眺めながら、さつきは今朝購入した惣菜パンをもそり、と口に含んだ。とろり、と口内に零れるクリームが僅かに幸せを感じさせるけれども、やはりこれもただの娯楽としかならない。
何度か咀嚼し、喉へと押し込む。義務的な行為を何度か繰り返しているうちに、見事お目当ての代物を手に入れた睦が喜々とした表情を浮かべ、こちらに近寄って来た。お盆の上にはお冷と海老ドリア、その傍らには彼女の執念の塊――とろけるたまごプリン(カラメルソース付)――が乗せられている。
「本当にゲット出来たんだ。すごいね」
「えっへへ。これ美味しいんだよー。さつきちゃんこそ、本当に買わなくて良かったの?」
「うん。いらない」
「本当にそれだけで足りる?少なくない?」
「わたしの『個性』は気力みたいなものだから。成田は体力勝負みたいなところもあるでしょ」
「そうだけどさー…」
さつきの個性とは、所謂「物質変化」である。固体から液体、液体から気体、と言った様に物質を変化させる事が出来る。また、この個性を利用して、彼女は攻撃や防御も行う。明らかにヒーロー向きの個性だが、彼女はきっと一生ヒーローを目指す事は無い。そして、ヒーローを好きになる事もないだろう。それもやはり、あの事件とトラウマが尾を引いているのである。一方、睦の個性は「鍛冶」である。己の体力を対価とし、金属の物質を創造する。金塊はもちろん、金属の代物や刃物、盾なども創造する事が出来る。しかし、造形が複雑になればなる程に創造に掛かる時間も長引くため、戦闘向きではない。
そんな睦は何を思ったのか、一口分の海老ドリアをスプーンに乗せ、それをおもむろにさつきへと突き出した。「あーんして」と、「はーやーくー」と急かす睦は何処からどう見ても駄々を捏ねる子どもである。唐突な行動に瞬きを繰り返すも、諦めを見せたさつきはおず、と口を開き、それを咀嚼した。
「…………おいしい」
「でしょ!あたし、ここの海老ドリア大好きなの。だから、さつきちゃんにも食べて欲しくって!」
「……今度、一緒に頼もっか」
「ほんと⁉やったー!」
「成田、声大きい。ここ、一応共有スペースだよ」
冷凍ではない海老は新鮮であるらしく、身も張っており、噛む度に音が響く。焼きたてを提供してくれたのだろう、チーズはとろりと蕩けて口内が幸せでいっぱいだ。それとチキンライスが混ざれば、また味が変わるのだ。一学校の食堂クオリティではないこれは、文句なしに美味しかった。思わずゆるりと笑みを浮かべれば、睦はまた大袈裟にも声量を弾けさせる。――本当に子どものような女の子、けれど決して馬鹿ではない。そんな成田がわたしは大好きだった。
コンビニでの購入品が底を付き、さつきはそこで漸く飲み物を買い忘れていた事に気付く。睦に断りを入れ、お冷を取って来ようと席を立った。その瞬間、軽い衝突音がその場に響き渡ったのである。
早く家に帰っても冷たい視線で見下ろされて、機嫌が悪ければ殴られるばかりの日々だった。母との二人の時間は穏やかで、唯一の幸せで楽しみだったが、父が居ればそれも一変する。そんなあからさまな変化に耐え切れず、幼いさつきは最終下校の時間までは図書館で本を読み漁り、晩ご飯の時間になるまで近くの公園で暇を潰す日々を過ごしていた。楽しくは無かったが、ただただ平和だった。そんな一瞬一瞬に安堵する時間は、幼いさつきにとって確かに幸福だったのである。――そんな日々にある日、小さな変化が起きた。それが、幼馴染との出逢いだったのである。
『……泣いてるの?』
『…………おねえちゃん、だれ?』
『名前は、さつき。きみは?』
――少し蒸し暑くなって来た初夏、六月頃だったように思う。少しでも涼しさを感じられるように、とわたしはブランコに夢中だった。その日もいつもと同じようにブランコに乗りこもうとして、気づく。いつもならいないはずの人影が、草むらの近くで丸まっていた。思った以上に響くすすり泣きに耐え切れなくなって、わたしは思わず声をかける。予想通り、その人影は大きな瞳いっぱいに涙を溜めて、びくびくしながらわたしを見上げる。
可愛い、けど、女子よりもごつごつした身体つきはきっと男の子だ。そんな彼に向かって、わたしは話を続ける。目線を合わせたお陰でびくびくした感じは無くなった、多分。ごしごし、と涙を拭いて、彼は口を開いた。
それが最初だった。ただ、それだけの事だった。同情、「かわいそう」の仲間意識、今思えば最低だ。でも、手を伸ばさないと身体がむずむずして仕方なかった。そんな自分を隠すように、彼の前では笑顔を絶やさなかった。次第にそれはただしあわせだから、それだけになって、「彼のため」になった。――わたし、きみの為なら何だって出来ると思ってたんだよ。ずっと傍にいたいって、きみの笑顔が見たい、って願ってたんだよ。約束もした、だから待ってた。
でもあなた、今まで何をしてた?約束も忘れて、あなた、何がしたかったの。それなのに、どうしてここにいるの。
「――しょうと、くん」
あの時振り払った手で、どうしてわたしを離さないの。