裏切りの果てに見えぬその表情とは
『また泣いてるの?焦凍くん』

 出逢った日から「幼馴染」と言う関係性に昇格するまで、膨大な日数を費やす事は無かった。顔を合わせるのは陽が傾き始めた夕方から、電灯が役目を果たす夜まで。たった数時間の逢瀬でも、日数を重ねて行くと会話も弾んで行く。しかし、何時だって視界に入るのは彼の泣き顔だった。彼との時間の始まりは、何時だって彼の涙を拭う事から始まるのである。――まずは目線を合わせて、涙を拭う。まだ真新しい火傷の痕を撫でると、痒いのか大きな瞳を細めた。その姿が妙に可愛くて仕方ないのである。そして、紅白の色味を帯びた髪を撫で、にこりと柔く笑う。すると、彼は小さな歩幅でこちらに近寄り、甘える様に肌をすり寄せて来るのだ。


『……キズバン、増えてるね。今日も修業だったの?』
『…………うん』
『上手く出来た?』
『……痛いだけ。つらくて、苦しい。止めたい……』
『…そっか』

 頬や指、まだまだ細い腕には大きめの絆創膏が貼られている。それらを手当てと称して撫でると、彼の表情筋は少しだけ、和らいだ気がした。しかし悲しげな、その中に孕む何処か恨めしい感情は消えず仕舞いである。それを問い詰める事は出来なかった。それがどれだけ苦しくて惨めな事か、幼いさつきは身を以て知っているから。――きっと、修業自体は間違っていない。強くなる為に、何かを成し遂げる為に努力する事は必要だと思う。けれど、そんな純粋な目標さえ見失っちゃうくらい、こんな小さな子どもに苦しいだけだと言わせちゃうくらいの「修業」って何なんだろう。
 あの人も、機嫌が良い時はいつも「躾だ」と言ってお母さんとわたしを殴りつける。気絶しない絶妙な力加減で殴りつけて、何の力もないお母さんとわたしは、ただただその痛みに耐えるしかなかった。情けなかった。惨めだった。腕の隙間から見えたあの人の顔はヴィランみたいで、とても恐ろしかった。人って、大きな力を持ったらみんな変わってしまうんだと思った。この時から、わたしは「ヒーロー」と言う存在を嫌うようになった。


『――焦凍くん。今日は何して遊ぼっか』
『……お砂遊び!』
『お砂で何したい?』
『つやつやのお団子、この前さつき姉ちゃんが作ってたの、すごい綺麗だった、から』
『ほんと?じゃあぴっかぴかに磨こうね』

 笑顔を絶やさずにそう言うと、彼は弾ける様な笑顔を浮かべて、力いっぱいに頷いた。小さなコップに水を溜めて、砂場のそれを泥にする。最初はぐちゃぐちゃでも、さらさらの砂を掛けて行くと、次第に綺麗な円形になって行くのだ。――綺麗じゃなくても良かった。ただ、この笑顔が見れるなら。これからも隣で眺める事が出来るなら、砂遊びでも、オールマイトごっこでも何だって良かった。どれだけ見た目を綺麗にしても、ヒビが入ればすぐに崩れ落ちてしまう事を、わたしは誰よりも知っていたはずなのに。





「――さつき、ねえちゃん」

 あの日の様に手首を掴まれる。手の感触も、その表情も何も変わらない。ただ、その力強さに月日の経過を感じた。正面に座っている筈の睦の存在も、過ぎる時間も頭から抜け落ちて行く。囁く様に呼ばれたその呼び名が鼓膜を震わせ、懐かしさに涙腺を緩ませて行く。それを堪える様に歯を食い縛ると、目の前の青年――轟焦凍――はふと視線を逸らした。何時からか、視線さえも合わなくなっていたらしい。そんな意味深な空間に耐え切れなくなったのか、睦はそこで漸く口を開いた。


「さつきちゃんの知り合い?」
「――あ、…………うん」
「へえ。見た事ない顔だね、新入生?」
「……一年、です」
「ヒーロー科?」

 睦の二度目の質問に、轟はもう声を出さなくなった。こくり、と頷き、水が入ったコップを握る力を強める。そんな一瞬の動作を見抜いた彼女は、彼をさつきの隣に座らせた。有無を言わさぬ力が、その双眸には確かにあったのだ。――三人の周りには何時もと変わらず、騒々しい日常の音が響いている。堅苦しい空気が流れる中、轟はおもむろに蕎麦を啜り始めた。唐突に響いたその音に、睦の表情から困惑の色は消えない。


「……相変わらず好きだね、お蕎麦」
「……美味いだろ」
「…三食蕎麦はさすがにむり」
「…………すッごい白々しい会話なんだけどどんな関係性?」
「――幼馴染」

 蕎麦を夢中で啜る轟を視界の端に捉え、しかし向き合う事はせず、さつきは淡々と言葉を紡ぎ始める。僅かな間を作りつつも会話を続けてくれた彼の声音は、彼女の記憶の中のそれよりも少し、低かった。そんな彼との関係性を称するも、嬉しさよりも寧ろ違和感が先行する。――こんなに、苦しい空気だったっけ。こんなに息苦しい関係だったっけ。そんなわたしの気持ちに気づいているのかいないのか、成田は暢気にプリンを食べ始めた。


「……番号、変えたのか」
「…うん」
「家は?親戚のところ、住んでただろ」
「…出た。一人暮らし、してる」
「一人暮らし?どこに…」
「――関係ないじゃん」

 再び凍る様に停止した空気を震わせたのは、轟の声だった。それが問い掛ける内容はさつきにしか分からない事で、答える他に術は無い。しかし、根掘り葉掘り聞き出そうとする彼の姿勢に、彼女は思わず眉を顰めた。そんな彼女の突き放す様な言葉は、この空間に妙に響いたように思う。――ぴく、と轟の肩が揺れる。そろり、と言った様子で横に視線を向けると、そこには恨めしそうな視線を向ける、初めて見るさつきが居た。


「関係ないでしょ。わたしが何をしようが、どこで生きていようが、……轟には関係ないよ」
「っ、…なんで、そんなこと」
「なんで…?良くそんな事が言えるね。勝手に約束を取りつけたくせに。自分勝手に期待させたくせに。――ずっと、傍にいるって言ったくせに」

 先程の縋る様な声音とはちがう、明確に突き放す冷たいそれは、轟の鼓膜に妙に植え付く事となる。「裏切り」を行った当人だとしても、幸せだった頃の記憶まで薄れた訳ではないらしい。彼は戸惑いを覚えるも、追随する様に、さつきは恨みがましく言葉を続ける。もう、買い忘れた飲料なんてどうでも良かった。三年間、必死に我慢して、溜めに溜めた思いを言葉にしなければ、きっと、弱くなってしまう事は明白だった。


「聞きたくもないこと聞かないでよ。なにも考えてないでしょ、エンデヴァーさんを否定する事しか考えてないでしょ。……わたしとの約束なんて、忘れてたじゃん」
「っ、それは、でも、俺は話したくて」
「ほっといてよ……。『犯罪者の娘』なんて、関わらなくて良いの」
「お前、なに言って、っ、さつき」
「――さわらないで!」

 ぱしん、と乾いた音がその場に響く。そして、今まで騒々しい音に包まれていたこの場は、一気に静寂に包まれたのである。正面に座っている睦はさつきが張り上げた声に驚いたのか、びくり、と肩を揺らした。さつきの手首を掴もうとした轟の手は宙を掻き、き場をなくす。はあ、と吐いた息には、確かに怒りが孕んでいた。次第に周りからの視線が集まり始める中、さつきは轟を鋭く睨み上げる。


「さわらないでよ。……わたしは、もう、あんたの声を聞きたくない」
「さつき、ねえちゃ」
「その呼び方、止めてよ。もう、わたしは轟の『お姉ちゃん』じゃない。他人なんだよ。――わたしの大嫌いなヒーローになって、さっさと遠い人になってよ」

 ――「さつき姉ちゃん」と甘える声も、「ずっと傍にいる」って約束した声も、「さつき」と呼ぶ少し低くなった声も、ぜんぶぜんぶ聞きたくなかった。媚びるように呼ばないで。もう、あんたに振り回されるのは懲り懲りなんだよ。そこまで言ったのに、まだ焦凍くんはわたしに手を伸ばそうとする。そのぬくもりにも、もう慣れたくないんだよ。ぱしん、ともう一度乾いた音が響いた。その音に、なんで、なんできみが泣きそうになるの。


「……聞こえなかったの。――嫌い、って言ったの!」

 泣きたいのは、わたしの方なのに。




 周囲の注目も程々に、さつきは振り切る様に食堂を後にした。あとに残るのは呆然とした周囲と轟、そして、漸くプリンを食べ終わった睦である。カシャン、と音を鳴らして、睦はプラスチックのスプーンを容器に放り込んだ。そして暫くの間、轟を見つめる。その双眸は、さつきには決して見せない、一生を以てしても向けないそれだった。それに気付いた轟は一瞬狼狽えた様子を見せるも、その直後には不信感を前面に出した表情を浮かべたのである。そんな轟の様子を眺め、睦は漸く口を開いた。


「…ねえきみ、本当にさつきちゃんの幼馴染なの?」
「…………そのはず、ですけど」
「にしては険悪だねえ。あたし、二年間くらいさつきちゃんの隣でうるさくしてるけど、あれだけ怒鳴られた事ないよ?」
「……知らねえよ」

 何処か煽る様な睦の口調は、轟の神経をじんわりと逆撫でして行く。それに気付かぬほど彼は鈍い訳ではないし、それを我慢できるほど対人関係に慣れている訳でもなかった。それを見抜いた上で言葉を紡いでいるとするならば、彼女はとんだ策士である。そして、彼から汚く歪んだ言葉を誘き出す事が出来れば、それは彼女の勝ちなのだ。――ガタン、とその場から立ち上がり、轟を睨み付ける。その視線には、確かに敵意が宿っていた。


「きみの事情はあたしには関係ないし、どうでも良いけど、あんなさつきちゃん初めて見た。だから、もう関わらないでくれない?」
「あんたに関係あるのか、それ」
「あるよ。――さつきちゃんは、あたしのものだもん」
「…………は?」
「さつきちゃんの隣はあたしなの。だから、――らないでね」

 入学当初からさつきちゃんの事は噂になっていたし、そのせいで悪目立ちしていた。会話もせずに死んだ目をしていて、それでも教室で騒ぐクラスメイトを見て、どこか羨ましそうな目をしていた。そんな矛盾したさつきちゃんが気になってつき纏い始めた。――二年間かけて、さつきちゃんの隣を手に入れたの。その位置を揺らがせる者は許さないし、その可能性がある者は排除する。近づけさせないよ。そこはあたしの席、誰にもあげないんだから。




 殆ど公園でしか会っていなかった幼いさつきと轟は、彼女の小学校卒業を機に、数年振りに彼女の自宅で遊ぶ事になった。二人の家の中心に位置する公園が一番利用しやすかったが、卒業記念のパーティーをすると言えば、彼は控えめながらに「お祝いしたい」と言ってくれたのだ。そう強請られてしまえば、断る手は無かった。夕方の4時から6時までの二時間、少し豪華な食事を楽しもう、と言う事になったのである。しかし、彼は先方の住所を知らない。この話を何処から聞き付けたのか、付添人としてエンデヴァーが付いて来る事になったのである。


『…………なんでついて来るんだ』
『迷うかもしれないだろう!それに、あのヒーローディープの娘に一度会ってみたかった』
『会わなくて良いし目も合わせなくて良い。ねえちゃんが汚れる』
『なにィ⁉』

 この現状が、轟は大変不満らしい。忌むべき父と二人きりと言う状況はもちろん、自分だけのものだったさつきが他人に触れるかもしれない将来に苛立つのである。そんな思いとは露知らず、エンデヴァーは暢気に「会ってみたい」などと口走る。轟は、その悠長さに再び青筋を浮かばせた。上から何度も名を叫ばれるが、それも全て無視である。今の服装が私服で本当に良かった。これで炎でも出されてしまえば目立って仕方がない。
 随分と見慣れた公園の横を通り過ぎ、僅かに入り組んだ住宅街の道を歩いて行く。クリーム色の外壁に敷き詰められたオレンジの瓦、玄関の前に広々とした駐車場が目印だ、とさつきは教えてくれていた。そのため、迷わず目的地に辿り着く事が出来たのである。寧ろ、付添人の方が迷い掛けていたのではないだろうか。――「深海」と彫られた表札の横に備え付けられている呼び鈴を押す。しかし、迎え入れてくれる筈のさつきは現れなかった。しかし、家内からは微かな物音が聞こえて来る。好奇心に負け、ドアノブに手を掛けると鍵が開いている事が分かる。思わず玄関に足を踏み入れると、その瞬間、二人は異臭に襲われる事となったのだ。


『なんだ、この臭いは……』
『この靴、ヒーローディープの…』
『あいつも来るのか?』
『…聞いてねえ。さつき姉ちゃんとらんさんだけだ、って』

 轟のその言葉を聞いて、エンデヴァーは眉間に皺を寄せた。その瞬間、ピリ、と空気が緊張する感覚に陥る。それは、ヒーローの現場を知らない轟にも分かる程だったのである。――なるべく物音を立てずに家の奥へと入って行く。奥に行けば行くほど、異臭は濃くなって行った。思わず顔を歪めるも、今ここで引き返してしまえば、一生後悔する気がした。リビングに続く廊下をずっと歩いていると、視界の端に赤が入り込む。はっとした様に顔を上げると、そこには予想だにしていない光景が広がっていた。
 嵐とさつきが作ってくれたのだろう料理は床の上にぐちゃぐちゃな状態で散乱しており、用意されていた食器もただの破片となっている。床の上に広がる「赤」は紛れもなく嵐の血液で、それに包み込まれる様に倒れる嵐は、ほぼ肉塊状態だった。その近くには、父の手によって絶命させられそうになっているさつきが藻掻き、苦しんでいる。それを視界に入れた瞬間、エンデヴァーは鋭い炎をさつきの父に喰らわせたのである。同じタイミングでさつきの身体を受け止めた轟とは、やはり相性が良いらしい。


『さつき姉ちゃん!』
『貴様…っ、なにをしてる!』
『……あれ、エンデヴァーさん。どうしたんですか、そんな怖い顔しちゃって』
『質問をしているのは俺だ!――この現状は何だと聞いている、深海拳人けんと!』
『あー……力加減、間違えちゃって』

 この惨劇を引き起こした当人であるにも関わらず、さつきの父――深海拳人――には反省の色が全く見られなかった。それどころか、咳き込んださつきに再び標的を定め、手の甲にナックルを生やし、それを彼女に振り翳したのである。エンデヴァーの制止の声さえ嘲笑い、拳人の殺気は消えない。――幼い轟は傷だらけのさつきを強く抱き締め、壁を作る様に床から氷を繰り出した。ここで守らなきゃ、この人は消えてしまう。震える身体を抑える様に、彼は拳人を強く睨み上げた。


『厄介だなあ…轟焦凍。こいつから殺すべきだった?』
『――焦凍!娘を連れて逃げろ!警察に連絡だ、良いな!』

 呆れた様に髪を掻く拳人は、目の前に立ちはだかる氷結を脅威とは思っていないらしい。歪んだ笑みの意図にいち早く気付いたエンデヴァーは、幼い二人を逃がす事に尽力する事になったのだ。鼓膜に残るエンデヴァーの言葉に、幼い轟は強く頷き、さつきを背に抱えて逃げ出した。その背後には鋭利に伸びたナックルが襲い掛かるが、エンデヴァーの炎はそれを錆びさせたのだ。
 さつきの家を飛び出し、轟は目的地も分からず、ただ走った。首筋に掛かる彼女の荒い息遣いだけが、これが現実だと言う事を知らしめてくれる。――泣いちゃ、だめだ。泣きたくなるほど死にたいのは、きっと、俺じゃない。


『――しょう、と、くん』
『っ、さつき姉ちゃん!』
『ごめ、せっかく、来てくれた、…のに』
『な、なんで謝るんだ。なんなんだあれ、おかしいだろ。なんで、なんで』
『…しょうと、くん。来てくれて、ありがと。うれしかった……』
『…………さつき姉ちゃん?』

 何時も優しく、柔らかく呼ばれる「焦凍くん」ではなかった。絞り出す様な、苦しい中に紡がれるそれは耳が痛くなる。それでも、轟の中に「向き合う」以外の選択肢は無かった。さつきよりも泣きそうに顔を歪める彼の様子に、彼女は思わず目を細める。けれど、その双眸からは細くも儚い涙が零れ落ちていた。それを視界に収めた彼は、ぽつり、と彼女を呼ぶ。だらん、と垂れる力ない手は、気を失った事を意味していた。
 それを理解するには、彼は幼すぎたらしい。馬鹿の一つ覚えの様に、「さつき姉ちゃん」と叫ぶ。優しい声が返って来る事は無い、と分かっていた筈なのに。優しい笑顔が、柔らかな声がただ欲しいと、そう願っていた。そんな世界が欲しいと切望した。


『――さつき!』

 この人が泣くような世界なんて、消えてしまえば良いとさえ願った。





「…………くそ」

 確かにそう願っていたけど、あんたにふれる事すら出来ない今は確かに現実だった。