愛と執着


 荼毘と邂逅した後、合流した一部の生徒をブラドに一任し、さつきと相澤は肝試しのスタート地点へと急ぐ事になった。昼間に行き来した際には思いもしなかったこの道のりは酷く長く、闇へと突き進んでいる感覚さえ抱かせる。そんな道中、彼女と相澤は腕としての機能が残っているのか、些か不明なそれをぶら下げる緑谷と、それに担がれる洸汰と遭遇したのである。あまりに凄惨な状況に顔をしかめる相澤とは対照的に、彼女はその表情を途端に青ざめさせたのだ。


「緑谷くん、それ」
「深海先輩も!良かった……!」
「ッ、良かったじゃないよ!」
「その怪我…またやりやがったな」
「あ…いやっ、でも…」

 肌の色とは明らかに異なるその打ち身は衝撃を吸収しきれず、ところどころの神経さえも損傷しているような状態だった。至るところに見える切り傷は、衝撃波だろうか。恐らくさつきの腹部に残る古傷と同様に、一生を共にするそれになるのだろう。そんな緑谷はこちらの話も聞かず、洸汰を引き取ってくれと言う。もちろんそれも大事だ。しかし、これからも動き続けるのであろう緑谷の重傷を放置できるほど、こちらに理性がない訳でもなかった。
 だが、無駄なのだ。生まれながらに自己犠牲の性質を持ち合わせてしまっている緑谷が止まる事は無い。それを理解している相澤は「彼女にこう伝えろ」と、戦闘許可の旨を緑谷に言い渡したのだ。


「戦闘、きょか、って」
「こんな、わけも分からんままやられてたまるかよ。…深海、お前まで巻き込んだのは俺の責だ。――もったいぶるなよ」
「分かってる」

 ヒーローを崇める以外の考えは悪とされる現行社会を蔑み続けるさつきも、性根自体は緑谷とあまり変わらない。本人に自覚は無いものの、いの一番に洸汰を抱き締めたさつきはやはり守るべき対象をきちんと理解している。しかし、優しい人間でもあるから。その優しさが故に酷く傷付いて来た少女でもあるから、念押しをするように相澤は語尾を強める。その時、決意を固めた瞬間、僅かに力の篭った指先に気付く事が出来たのは洸汰だけである。そんな小さな存在を一度手放して「緑谷くん」と呼び掛けた。


「……その傷、一生残るよ」
「は、はい」
「名誉の負傷、だなんて思わないでね。きみは学生だ。……もちろん、わたしも」
「……でも、僕が動いて何かが変わるなら、僕は動きます。救ける為に。――もちろん、あなたも」

 そう言って、緑谷くんはわたしの手をそっと握って来た。ごつごつしていて、傷だらけで。焦凍くんとはまた違う、男の子の手。英雄を神聖化している、男の子。きっと、こんな風にしか生きられない。きっと、これからも自分を犠牲にし続けて行くんだろう。そう思うと心が苦しくなって、わたしは紫色に腫れてしまった緑谷くんの腕に手の平を這わせた。――とても優しい光だと、思った。すべての苦しみを請け負うような、そんな輝きだった。濁った灰色の目に労りの色が見えて、少しだけ、どきり、とする。きっと見ちゃいけないものだった。轟くんしか、見てはいけないものだ。
 そんな患部から思わず視線を逸らしたところで、さつきは漸く緑谷の腕から手を放す。その色は変わらぬものの、それに力を加えても先程までうっすらと感じていた痛覚は無くなっていた。


「……そう言うと思って、きみの痛みは別の空気の中に移動させた」
「そ、そんな事が出来るんですか!?」
「『個性』の応用だけど、……じゃなくて。そんなこと、今はどうでも良いの。これは一時的なものでしかないから、あまり無茶はしないこと。いい?」

 さつきのそんな言い付けに、僅かにどもりながらも肯定の意を示した緑谷は満身創痍のまま、再び肝試しのスタート地点へと駆け出して行ってしまった。そして、その場に残された人間たちも「無茶はするんだろうな」と半ば呆れ果てた様子で納得してしまったのである。――視界の端で捉えた僅かに赤く腫れた洸汰の目尻に、さつきは指先をそっと差し出した。ひくん、と痙攣したそこは、先程まで涙が流れていたのだろう。当たり前だ、怖かったろう。人体なんて、暴力の前では簡単に圧されてしまうのだから。
 洸汰の目元を柔く撫でて、帽子の汚れを払うように手を動かし、その小さな身体を抱き締める。がんばったね、と。すべてを洗い流す力と、これからを作り上げるであろう存在を慈しむように。――そうして相澤を見上げたさつきは軽く頷き、漸くその場から駆け出したのだ。




「――さつき?」

 施設と目的地の中間地点を通り過ぎたところで唐突に、さつきは足を止めた。輪郭を隠すように伸びた黒髪が視界から消えた事により、洸汰が気付いたらしい。しかし、その呼び掛けに応える事もなく、彼女はただ一点を見つめていた。その先は一寸の闇。なにもない筈なのに、そこから一瞬たりとも視線を外さない。そんな弟子の様子を見兼ねた相澤は洸汰を抱え直してはそれを見下ろし、そっと唇を開いた。


「一つ、聞くぞ」
「――なに?」
「お前は、こちら側、で良いんだよな?」
「当たり前でしょ。あの人と一緒にしないでよ」

 あまりに抽象的な問い掛けではあったが、この二人はそれだけで充分だった。「こちら側」も「あの人」も、相澤は全てを分かってくれているから。だからこんな状況でも笑みを浮かべて、即答が出来るのだと思う。――相澤は自身の腕で洸汰の身体を支え、空いた手でさつきの頭を雑ながらも柔く撫でた。その行為に軽く声をあげるも、その際に視界に入った相澤は少し、微笑わらっているように見えたのだ。


「生きる事が第一だ」
「分かってる」
「『個性』は使え、躊躇うな。お前なら、あの人のような力の使い方はしないだろう」
「はい」
「さつき…」

 わたしがヒーロー科の人間なら、相澤ちゃんもここまで念押しはしなかったと思う。でも、わたしは普通科の生徒で。あくまで相澤ちゃんに巻き込まれた人間で。だから、こんなにも苦しそうな表情かおをする。洸汰くんなんか、また泣き喚きそうだ。それらを抑えようと、わたしは相澤ちゃんに近付いて、洸汰くんの頬をそっと撫でた。何度か擦り寄せるように手を動かしていると、涙は出た。なんでかな。


「わたしも後で行くから、この人相の悪いおじちゃんの言うこと、聞くんだよ」
「おい」
「さつき、……さつきはどこに、行くんだ。またあいつみたいに、ボロボロ、に」
「――ならない」
「でも!」
「ならないよ」

 ――こいつは一日に一回、俺をおちょくらないと気が済まねえのか。――そう言いたげにさつきを見下ろすも、彼女はわざとらしく頑なに目線を合わせようとしない。力強く囁かれた声を洸汰に注ぎ、あまりに真っ直ぐな瞳を彼だけに向けた。それでも食い下がらない少年に、今度は微笑みかけたのである。――とても、消えそうになるかのように微笑んだ。でも、もう洸汰は何も言えなかった。相澤の首に小さな腕を巻き付けて、涙を滲ませたのである。

「…………ごはん、つくって」
「え、――」
「……また、たべたい」
「――うん、一緒に食べよう。メニュー、考えといてね」
「ッ、うん!」

 しかしぽつり、と微かに響いたあまりにいじらしい我が儘はさつきの虚を突いた。だが、僅かに赤く充血した瞳で見つめられてはこちらが折れるしか術は無かったのである。そんな彼女が名残惜しげに洸汰の輪郭をなぞると、泣きじゃくる少年は力強く頷いてくれた。――「相澤ちゃん、お願いね」と自然と出た声はわたしを追い詰めた。でも、もう一度顔を見ないと確信が持てなかった。あの時、寂しそうに呼ばれた「さつきちゃん」。あの真意を、あの表情の理由を本人に聞かないと。

 愛なんてなかったはずなのに、何であんな表情かおをしたの。燈矢くん。




 暫く獣道を進むと、漸く道と言う道が姿を現した。しかし激しい凹凸が出来ているそれは、無理矢理道へと変貌させたものであるらしい。そこを数十メートル進んだところで、ゆらりと揺らぐ人影がさつきの視界に入る。思わず灰色の瞳を見開かせながら息を詰まらせると、そんな微かな息遣いにも気付いた人影がこちらを認識した。――月明かりが欲しい――そんな自然に仇なす様なさつきの願いを叶えるかの様に、雲隠れしていた月が顔を見せた。先程の様な一瞬ではない、確かめる様に視界で捉えた継ぎ接ぎは酷く痛々しい。


「――よォ、さつきちゃん。来ると思ってたぜ」

 戯れる様に手の平で遊ばれている蒼炎は小さく、儚い。先刻、相澤に浴びせた火力は鳴りを潜めており、さつきをいざなう様に朧気な雰囲気を醸し出していた。それと共に向けられる緩やかな笑みは、初めて見るものだ。口角を隠す様に根付くピアスがなければ、微かな安堵感を抱けたのだろうか。ごくり、と喉仏を動かすと、それを見兼ねた荼毘は足を踏み出す。その際にじゃり、と響く音は確かにさつきを追い詰めていた。背後に樹が来る様に位置取ってしまった事も、そう感じる要因になっているのだろう。


「…………燈矢くん、だよね?」
「ご名答。さすがさつきちゃん、分かってくれて嬉しいよ」
「……亡くなった、って聞いたけど」
「でも俺は在る」
「そう言う言葉遊びをしたいんじゃない」
「怒んなよ」

 肩口で微かに響くかさり、と言う乾燥した音が鼓膜を震わせる。鎖骨を隠す様に垂れた黒髪を掬い取り、爛れていない指先で優しく梳かれた。その、あまりに熱い人肌に思わず肩を震わせると、荼毘の笑みが深まった気がする。――少しすれただけの男の子じゃない。こんな指は、知らない。いつも自分の気持ちを押し付けるだけの、あまりに子どもっぽい子どもだったはずなのに。6つも上の男の子、とても不安定な子。だから、こんな男の人の指先は知らない。宥めるような口調も、試すような視線も、何も。でも、恐る恐る見上げた瞳の色だけは変わっていなかった。


「……怒ってない」
「うそ。いつも笑顔でいてくれてただろ?」
「それは、――」
「――俺がかわいそうだった?」

 何処か嘲笑うかの様な問い掛けにさつきの顔は唐突に熱を持ち、瞳を大きく見開かせた。――その時の燈矢くんは、嘲笑わらってた。すごく、怖いな、と思った。「そんな事ない」と叫んだけれど、届いたかどうかは分からない。炎に灼かれてから約10年、見た目も歪みも何もかも変わってしまったから。きっと、わたしの知る友だちではないのだと思う。今だって、わたしに愛なんてない。昔も今も、この人が見るのは一人だけだから。


「…冗談だよ、そんなに怒らなくたって良いだろ?さつきちゃんは昔から真面目なんだから」
「……燈矢くんは変わったね」
「そうか?お前に会えるの、楽しみにしてたからかな」

 そう言って、荼毘はさつきの肩を軽く樹に押し付け、逃げられないようにする。腐敗する人肉の臭いを「懐かしい」と、一瞬でも思ってしまった事に吐き気がした。楽しみだと言う割には彼の視線はこちらに向いておらず、何処か朧気である。そんな様子に思わず眉を顰めてみるも、それに言及する彼の声音は無い。――愛は無い、確信を得た。あの表情かおにも、理由は無いんだろう。けれど、すぐにでも相澤ちゃんと合流しなければ、と気持ちが急けば急くほど、燈矢くんの笑みは深くなった。ぞくり、と背筋が震えたわたしの感覚は間違っていないはずだ。


「…とう、や、くん。離して」
「なんで?」
「ここにいるわけにはいかない」
「――じゃあどこに行くつもりだよ」
「な、――」

 今まで肩を押さえていた、骨張った手の平はするり、と腕の筋を辿り、絡めたさつきの手を樹へと縫い付ける。すると、より近付いた荼毘との距離は誤魔化しが利かないくらいに縮まってしまっていた。微かに漏れる吐息を遮る様に彼の口元を覆うも、その手さえゆっくりと樹へ縫い付けられてしまえば、彼女の身体は途端に恐怖に襲われる。視線も、五感も、己の何もかも全てを目の前の男に奪われてしまうのだ。


「お前は俺の隣にいなきゃだめだろ?――さつきちゃん」

 ――首筋へと近付く契約じみた唇、どうかそれだけは触れさせないで欲しいのに。




 脳内へと響くテレパス曰く、「ヴィランの狙いは生徒の『かっちゃん』」であるらしい。そんな伝令が行われてから数分が経った今、――現状は何も変わってはいなかった。寧ろ「個性」を無駄撃ちさせられている気もするこの状況は、以前よりも悪くなっている気さえ起こさせるのだ。至るところから発生する歯刃は何処から出て来るのか、見当がつかず、ただ反射神経で避けるしか術がない。血が出ては、嬉しそうに奇声を発するムーンフィッシュは酷く気味が悪かった。


「近付けねえ!!クソ、最大火力でブッ飛ばすしか…」
「だめだ!」
「木ィ燃えてもソッコー氷で覆え!!」
「爆発はこっちの視界も塞がれる!仕留め切れなかったらどうなる!?――手数も距離も向こうに分があんだぞ!」

 歯刃から身を守るため、轟が出した氷結はこちら側の盾となると同時に仕掛けられる攻撃を見えにくくもしていた。炎熱を使えばこの盾は一瞬にして姿を消すのだろうが、もしその炎が周囲の木々へ燃え移った際の影響は計り知れない。何より、ムーンフィッシュに対する決定打にはならない。――そんな時、鈍い轟音を響かせながら近付いて来る存在がある。背後で勢い良く薙ぎ倒される木々を避けながらこちらへと駆けて来るのは、満身創痍の状態となった緑谷と、それを抱える障子だった。


「爆豪!轟!どちらか頼む――…」
「――肉」
「光を!!」

 懇願の色さえ孕んだ障子の叫びが響いた直後、突如現れた影は盾となっていた轟の氷もろとも、ムーンフィッシュを踏み潰したのである。その中心にいる常闇は己が生み出した闇から逃れようとしており、こちらの様子などは気付いてもいないだろう。――ここまで巨大化してしまった黒影を鎮める為には、相対する光を浴びせる他に術は無い。それを行うべく緑谷が頼ったのは、やはりと言っても過言ではない、爆豪と言う強烈な光だった。


「障子、緑谷…と、常闇!?」
「早く『光』を!常闇が暴走した!!」

 そう叫ぶ複製腕のすぐ背後には既に理性を捨て去り、巨大化した黒影が周囲の木々を薙ぎ倒している。しかし、特別狙いを定めている訳ではないようで、二本あったうちの一つの複製腕は巻き込まれる様に、黒影に踏み潰されてしまった。――そんな様子を見兼ねた轟は炎を出そうと指に力を入れるも、前方から視線を逸らさない爆豪に制止の声を掛けられる。その視線の先では、再び立ち上がった筈のムーンフィッシュが容赦のない握力で、黒影に握り潰されんとする瞬間だったのである。


「強請ルナ、三下!!」
「――見てえ」

 恐怖心と微かな高揚感が混じり合った冷や汗を垂らしながら、爆豪は強請る。その直後、ムーンフィッシュを掴んだ腕を鞭の様にしならせ、力ある限り樹の幹へと叩き付けたのである。全ての歯を折られ、全身を鞭打ち状態にさせられたムーンフィッシュは、もう二度と「個性」を扱う事は出来ないだろう。しかし、ここら一帯を更地にしただけでは飽き足らず、黒影は再びその腕を地面へと振り下ろそうとしていた。そんな状況を見兼ねた轟と爆豪は、ようやく「個性」を発動させ、黒影を常闇の中へと戻す事に成功したのである。


「てめェと俺の相性が残念だぜ……」
「……? すまん助かった」
「俺らが防戦一方だった相手を、一瞬で…」
「常闇、大丈夫か」
「障子…悪かった…緑谷も……。俺の心が未熟だった」

 普段なら小さく収まってくれている黒影も、所有者である常闇の怒りを直接受け取ってしまえば収まりが効かなくなってしまうのは当然の事ではあった。しかし、それを自らのみのせいにしてしまうのは常闇の弱点ではあるが、障子は決してそれを責めない。そんな障子に背負われる緑谷の言葉がきっかけに、次々と情報の共有を含む会話は進んで行く。そんな周囲に着いて行けない、話の中心で居る筈の爆豪には口を挟む暇もなく、知らず知らずのうちに守られる対象へとなったのだ。


「あの、轟くん」
「なんだ?」
「……深海先輩とね、少しだけ話したよ」
「…いたのか」
「うん。相澤先生と一緒だった」
「あいつ、また…」

 怒りを露わにする爆豪を横目に、緑谷は轟に声を掛けた。何時もの淡々とした表情は一瞬の事で、「深海」と言う名を出した途端、轟のそれは酷く強張ったのである。その後に響いた小さな舌打ちは酷く緑谷の鼓膜を震わせたが、それが心配の裏返しである事はきちんと認識していた。――短時間ではあったけれど、ちゃんと話して分かったあの人の優しさ。幼い轟くんもそれに蕩けてしまったんだろうな、と思う。でも、そう言う人を守りたい気持ちは少し、…いや、とても分かる気がした。


「……怒られちゃった」
「え、――」
「名誉なんて思わないでね、って」
「…怖かったか?」
「怖いと言うか、…初めてだったから。がんばって、頑張って、怒られるって」

 横では未だに控えめな爆豪の怒声が響いているが、幼馴染と言う関係性上慣れてしまっているのか、その声たちをすり抜けさせては困った様に笑みを零す。さすがだと思う反面、こう言うところが彼の癇に障るのだろうと実感した。――ヒーロー関連から一線を引いているさつきだからこそ、言えた言葉である筈だ。それは、緑谷にとって酷く新鮮味の溢れるものであったろうが、表情を見る限り、悲しみのみである訳ではないらしい。


「…でも、嫌じゃなかったんだ。――すごく、優しいひとだなあって。思ったよ」
「…そうか」
「やっぱり、轟くんの初めてのヒーローだね!」

 さつきじゃなければ少し、負の思いもあっただろう。ヒーローを嫌いだと、この現行社会を憎む彼女でなければ、恐らくこんな気持ちにはなっていなかった筈だ。震える手でボロボロの腕に触れ、慈しみの心を我慢して鋭い視線で相手を見上げる。それがどれだけ己を責め立てているかも自覚しながら、それでもその場から動かない姿は確かにヒーローだった。――嬉しそうな緑谷の言葉を耳にして、轟は柔らかく頬を持ち上げる。


「――やらねえぞ」

 昔のような執着ではなく、慈しみと愛しさであたたかい。――お前のおかげでその想いを知れて、本当によかった。




「……ぁにすんだよ」
「こ、こっちのせりふ」

 男と女の攻防は未だ続く。ゆっくりと近付いて来る唇を押し返す様に、荼毘の口元に手の平を押し付ける。それの存在に、僅かにも眉間に皺を寄せた彼はじろり、とさつきを軽く睨み上げた。――昔から、縋り付く様に身体を抱き締めて来る男ではあった。しかし、この距離は違う。明らかに欲を喰らう様な体勢と息遣いに、さつきは微かに羞恥を露わにしながらも、これから来る筈だったであろう行為を拒んだのだ。


「良いだろ、別に。一回くらい付き合ってくれても良いんじゃねェの」
「だ、だめ」
「……お前、まだ男を知らないんだなァ」
「き、急に何なの」
「いンや?男を煽る言葉を知らねえんだな、と思ってよォ」

 ぶつくされた様に不満を零す荼毘に対して、さつきは控えめに拒む言葉を口にする。しかし、大人びた友人が色を帯びる瞬間を目撃してしまえば、彼の中にはぞくり、と言いようのない高揚感が現れる。思わず目の前の首筋――日焼けを避けてやまない白い肌――に頬を軽く擦り寄せると、びくん、と産毛を逆立てる感覚さえ抱かせた。疑問符ばかりを浮かべるさつきを丸め込ませる様に、わざとらしく指先同士を絡め合わせる。羞恥で潤んだ瞳をそのまま舐めたくなった。


「すきな奴はいる?さつきちゃん」
「っ、さっきから何なの!燈矢くんとこんな話をしに来た訳じゃないよ!」
「ふうん、いるんだ」
「だから、〜〜ッ」
「――焦凍?」

 唐突に口から出された名に、さつきは思わず息を詰まらせた。――図星だった。ただ簡潔に、その名を紡がれるとは思ってもみなかった。けど、よくよく考えたら当たり前の事だった。だって、おにいちゃんなんだもんね。燈矢くんもわたしが図星を突かれた事に気付いたのか、楽しげにわたしの手を縛りつける。いたい、痛い。きっと顔は歪んでいるのに、燈矢くんは楽しそうにするだけ。その目に少しだけ怒りの色が見えるけれど、「個性」をどう使えば良いのかすら分からなかった。
 その瞬間、さつきと荼毘の間に氷の壁が湧き上がる。真夏だと言うのに身体の芯から冷えるそれは、僅かな怒りが感じ取れた。


「――しょ、うと、くん」
「さつき、…誰だそいつ」
「え、いや、この人は、――」
「……完全に俺の首を狙ってやがったな、クソガキ」
「さつきから離れろ」
「嫌だっつったら?」
「――燃やす」

 今思えば、泣いてる事はあっても怒りにまみれた姿は見た事がなかったように思う。あんなに頑なに「炎は使わない」と言っていたのに今、目の前の男は怒りに身を任せて炎を露わにしている。緑谷と障子、常闇は僅かながら驚きの感情を見せているし、爆豪に至っては体育祭の事を思い出しているのか、酷く苛立ったそれを溢れさせていた。――そんな外野に意識さえ向けず、轟と荼毘は視線を絡め合わせる。その均衡が破られたのは、双方の蒼い瞳が見開いた瞬間だった。しかし、それらの衝突を庇う様に現れた存在もまた、それら自体を大きく、丸くさせたのだ。


「ッ、深海先輩!」
「そこから動かないで!――死ぬよ」
「それはてめーだアホ!自殺願望者か!?」
「動体視力、実戦の勘、攻撃力、それら全てが劣るきみ達に出来る事はただ一つ。わたしの言う事を聞く、ただそれだけだよ」
「アW!?」
「きみ達を逃がす」
「――誰が逃がすかよ」

 背に降り掛かるお小言を丁寧に受け留めながら視界いっぱいに広がった蒼炎を、さつきは「個性」を使い、上空へと跳ね上げさせた。――炎とは、比較的激しく酸素と反応し合う事で、より激しいものへと変化させる。その「空気」を操る力を持つさつきとは、良くも悪くも褒められた相性だった。それを瞬時に自覚した荼毘の口端からは、乾いた舌打ちが響く。跳ね上げられた蒼炎は昼間、飽きるほど光合成を行った木々へと燃え移り、それの道を作り上げる。上昇しない蒼炎はあれど、先ほど目にした火力と比べれば微々たるものだ。熱いけれど。


「わたしが逃がすの。拒否権は無いよ」
「お前の嫌いなヒーローの卵だぜ?」
「…知ってる」
「こんなクソみたいな社会を受け継ぐガキだ」
「……ぜんぶ、全部分かってる」
「――好い加減目を覚ませよ、さつきちゃん」

 さつきのヒーローの始まりは「ヒーローディープ」だった。人生の初めてっつうのはその人にとってよほど特別なものとなる。…俺も、「ヒーローになるには、オールマイトを越えなければならない」と思っていた。親父の影響だ。それと一緒で、さつきにとってのヒーローとは、「暴力の象徴」だった。そんなさつきだから、今の言葉は全部肯定するしかない。傷付かねえと言えば、うそになるけど。――でも、微かに映ったさつきのは、絶望じゃない。少しだけの希望を継ぎ接ぎの男にぶつけている気がした。


「……ヒーローは嫌い。それを正義とする現行社会も、嫌いで嫌いで仕方ない」
「なら、お前はこちら側のはずだぜ」
「…でも、こんな社会で必死に、真っ当に生きようとしてる英雄の卵が、あの人と一緒とは思えない。そんな子たちを捨ててまで、ヴィランになろうとは思わない。あなたのように、すべては捨てられない」
「俺を捨てんの?さつきちゃん」
「廃棄じゃない、決別だよ。――分かったらそこをどいて、荼毘!」

 さつきが激昂を響かせた瞬間、荼毘はニヒルに口角を上げて再び手の平に蒼炎を翳す。――どくつもりは無いらしい。その事実にさつきは目を細めた。火力の強い荼毘の「個性」にも、隙はある。その隙を縫って彼の懐まで潜り込み、その首筋を絡め取る様に右足を突き上げた。それを避けられてしまえば軽く舌打ちを響かせ、襟元を手前へと引き付けながら継ぎ接ぎの身体を微かに浮かばせる。その、抵抗できない一瞬の隙を突き、彼の頬に右膝をめり込ませたのだ。


「す、すごい……」
「――忘れたの?あんた、わたしに体術で勝てたためしもないくせに」
「……ハッ、それはお前に『個性』がなかったからだろうが」
「……『個性』の使い方しか教えてもらえなかったんだね。――かわいそうに」
「ッ、知ったような口を――!」

 荼毘の左頬を打った右膝がじんじん、と鈍い痛みを響かせる。緑谷が何処か惚けた様子の声を口から吐き出すが、すごいところなんてこれっぽっちもない。やはり、攻撃と言う名の暴力には慣れないのだ。昔、ただひたすらに甘やかしていた顔を隠し、さつきは荼毘の今までを蔑む様に見下ろす。――その目つきに、喰いつくと思ってたよ。――再び視界を覆い尽くした蒼に、無意識にも口端に舌先を軽く這わせる。その直後に生まれた、さつきを含む雄英生を守る様に薄氷の壁が蒼炎を懸命に削るのだ。


「先輩、逃げましょう!火力が尋常じゃない!このままじゃあ、――!」
「このままわたしが引きつける!焦凍くんたちは相澤ちゃんのところへ飛ばす!必ず!」
「無茶です!一度態勢を立て直して…!」
「勝てるかどうかじゃない…やるかどうかだ!わたしが、こんなところで死なせない!死んじゃいけないんだよ。…こんなクソみたいな社会で、ヒーローとして生きると決めたんでしょう」
「お、まえ…」
「必ずわたしが生かす。――しんじて」

 守るように俺を囲いやがる常闇と障子のクソみてえな言葉を遮るように、クソ女は声を張り上げる。多分、ガラじゃねえ事だ。なんでここにいるかは知らん、クソ程も興味ねえ。でも、「しんじて」と微笑わらうこいつは、昔TVで見たヒーローにそっくりだった。絶対に背中を見せない、「救ける」っつう揺るがない気持ち。決して現実逃避をしてるわけじゃねえ、それでもちっせえ希望を持つ目の前の女は今ここで、確かにヒーローだった。――深海、さつき。オールマイトだけだったその枠に入り込んで来やがった年上の女。屈辱的だが、不屈の姿勢に「勝つ姿」を見ちまった俺の敗けだった。
 反論の余地がなくなった瞬間、轟らを包み込んだ空気の球体はわざとらしく、荼毘の真横を遮った。――燈矢くんを倒さなくて良い。焦凍くん達を相澤ちゃんのところに合流させる。それが出来ればわたしの、わたし達の勝ちだ。


「ッ、――さつき!」
「あとで追う!行って!」
「轟!先輩の為にも増援を呼ぶ!前を向け!」

 弱くは、ない。小さい頃に良く見た、俺の、初めてのヒーローになってくれた、強い「さつき姉ちゃん」の姿だった。でも煙で霞む中、微かな月の光に反射されて見えたのは、少しだけ潤む。――行きたくない。でも、ここにいても、きっと何も出来ない。――その事実と障子の声に歯を食い縛り、俺はその場を離れた。途中で解除されたさつきの「個性」に見向きもせず、森を出る事を目標にした。さつきの表情かおは見れなかったが、多分、微笑わらってたんだろう。




「……あんたなら、分かってくれると思ってたよ」

 轟らがこの場を離れてから、たった数分しか経っていないように思う。しかしそのかん、荼毘は一秒たりとも攻撃を繰り出そうとはしなかった。――風が、木々を揺らす。健康的な青葉は一瞬だけさつきの視界を遮った。その直後に響いた荼毘の声は僅かに掠れており、覇気は無い。それに釣られる様に、彼女の声量も自然と小さなものとなってしまった。その事実を掘り下げる事もなく、彼は再び乾ききった唇を動かす。


「俺が何も悪くねェこと、あんたなら分かるだろ?」
「…うん」
「悪いのは生きにくいこの世の中だ。お前も、その被害者だ」
「…そうだね」
「なのに、何でお前はそっちにいンだ。なんで、――」
「――それでも」

 この男は、狂ってしまった。あの日、手に余る炎で自らその身を灼いてしまったあの瞬間から。――いや、もしかしたらエンデヴァーの野望を聞いた瞬間から歪み始めていたのかもしれない。彼の言葉はあまりに少なかった。燈矢も、碌に話なんて聞きやしなかった。考え方も、タイミングも全てが噛み合わなくて、結果的に燈矢は死んだ。荼毘として生まれ変わっても燈矢ではないのだ。だからこそ、さつきはこの言葉を口にする。


「わたしには、……大切な者が出来すぎた」

 それはきっと荼毘には理解できなかったろう。


「……俺は、お前の『大切な者』じゃねえか」
「……あ、――」

 そう言う意味じゃない、とすぐに言えたら良かった。そうしたら、荼毘の瞳がこれ以上濁る事もなかった。しかし、それが出来れば既にさつきは過去を清算している。そしてそれに気付く事が出来るなら、荼毘は「ヴィラン」として生き長らえる事を選んではいないのだ。――再び訪れた沈黙に、荼毘は鼻で嘲笑わらう。その音に肩を跳ねさせるさつきをよそに、彼は何処かしらと通信を通わせているようだった。それを切った瞬間に浮かんだ笑みは、酷く不気味で、しかし明確に吹っ切れている様な清涼なものでもあったのである。


「――タイムオーバー、ゲームセット。時間だ、さつきちゃん」
「え…?」
「当初の目的は達成した。もう、雄英に用はねェ」
「どう言うこと…?」
「もう行かねェと、ってこと」

 そう囁き、荼毘は継ぎ接ぎの手をさつきへと差し伸べる。温もりは無い。当たり前だ。あの日、全てが燃えたのだから。しかし、最後まで名残惜しげに触れる指先は同情だけではない優しさが含まれていたように思う。そして、そう信じたかった。――「またな」と言う一言に、さつきは我に返る。手を伸ばしても、その手が荼毘に届く事は無かった。薄く微笑む彼が、「燈矢」に見えた。その瞬間、彼女は無意識にも声を張り上げていたのだ。


「ッ、待って!」
「また会おうぜ、さつきちゃん」
「待って燈矢くん――!」

 唐突に現れた黒い靄へと駆け出すも、それは荼毘の身体を覆い尽くし、さつきから隠れる様に纏わり付いている。それを当然、と言わんばかりに体勢を崩さない荼毘は、昔と何も変わらない笑みを浮かべ、彼女を出迎えた。まるで必死な姿を見下ろすかのように、荼毘は薄らと微笑わらう。その頬に触れる事も叶わず、荼毘とその黒い靄はその場から姿を消した。痕跡なんて何もない、その事実に彼女は思わず歯を食い縛る。
 それと同時に思い出す。「当初の目的」と言う、さつきの知らない言葉。――わざわざ雄英ヒーロー科一年生の合宿場所、と言う狭い範囲を狙い、奇襲を仕掛けたヴィラン連合。教師と生徒、そのどちらもがバラけているタイミングで仕掛けて来た事には何か意味があるのではないのだろうか。もちろん、夜の方が動きやすい事が前提としてあるが、それでもあからさまではあった。そこまで考えて、理解した。


「焦凍くん――!」

 ――狙いは、生徒だ。