ただ普通を願って泣いた日
「邪魔だ、とは言わんのか」

 そう言って、エンデヴァーは轟の道を塞ぐ。炎にまみれたその顔には、喜々とした笑みが浮かんでいた。それをただ視界に入れるだけの轟は、憑きものが取れた様に何処か安堵を表す。――緑谷を場外へと押しやり、轟は勝利を手に入れた。しかし、それ以上に取り戻したものがある様な気がする。きっとそれは父であるエンデヴァーには一生掛かっても分からないもので、優越感と共に失望もあった。


「炎熱の操作…ベタ踏みでまだまだ危なっかしいもんだが、子どもじみた駄々を捨てて、ようやくお前は、完璧な”俺の上位互換”となった!卒業後は俺の元へ来い‼俺が覇道を歩ませてやる!」
「――捨てられるわけねえだろう」

 酷く嬉しそうな声音を響かせるエンデヴァーを、轟は語尾を強くして遮った。その強い否定の言葉を聞き、僅かに揺らいだエンデヴァーの炎は確かに本能であった筈だ。――「そんな簡単に覆るわけねえよ」と確かに炎が発動した左手を眺め、轟は言う。コントロールの効かない炎を緑谷に向けたあの一瞬、轟はしがらみも何もかも、母の事さえ忘れた。ただ、ヒーローに憧れていた頃だけが脳内を巡った。
 これが過去を清算した、と言う事になるのだろう。轟は何処までも己ばかりだった。しかし、それではだめだと妙に清々しくなった頭で思う。いま何をすべきか、それを見極める、とエンデヴァーに告げ、その横を通り過ぎた。その直後、エンデヴァーは再び轟に声を掛ける。そして響いた名詞は、轟が前に進む為の目的だった。


「高校に入ってからお前、――さつきさんと会ったか?」
「…なんでいま、そんな事を聞くんだよ。関係ねえだろ」
「いま、三年ステージの最終種目に出てるぞ」
「…………は?」

 久し振りに聞くその名に轟は眉を顰め、あからさまに機嫌の悪さを露見させた。しかし、口を出さないで欲しい、と言う願いが孕んだ視線も、その後に続いたエンデヴァーの言葉に消えてなくなる事となったのである。――出るわけがない。去年も一昨年も、全国中継で姿さえ見かけなかった。だから、雄英には進まなかったんだと思った。けど、いた。死ぬほどヒーローを恨み、嫌うあいつがこの雄英にいたんだ。差し出された親父の携帯をぶん捕り、三年ステージの中継画面を開く。


『ッ、焦凍くんも、成田も相澤ちゃんも、みんな先に行っちゃう……!きっと、天喰くんもそうだもん!』
『『焦凍くん』って…』
『独りはやだよ!さみしいよ!怖いに決まってるじゃん!でも甘えるなんて知らない!我慢しか分かんない、わたし、わたし、は、…ッ』

 ――この人は、誰だ?――今まで溜めこんだ暗い気持ちをぜんぶ吐き出すように喚くこの人は、俺が「さつき姉ちゃん」と呼んで、無条件に崇めていた年上の人じゃない。つらい、さみしい、そんな事は一度だって言われた事がなかった。忘れていた。俺はいつだって「俺」が苦しい、不幸だと嘆いてこの人の事は何も見えてなかったじゃねえか。たった二年早く産まれただけで、すべてから守ってくれると勘違いして押しつけて、俺は一体この人に何を強いた?――ただ苦しさと我慢を強いただけじゃねえか!


「さつき…」
『ッ、深海さん!』
『これは…!』
“個性の暴発!――パワーローダー!スナイプ!止めなさい!”
『深海!落ち着け!』
『――ただしあわせになりたかっただけなんだろう!』

 もうあんたの名前を呼んでも、あんたは応えてくれないだろう。振り向いてもくれないんだろう。七年間もチャンスがあったのに、あまりにシンプルな答えに、俺は辿り着けもしなかった。「しあわせになりたかった」なんて平凡な願いを、共に望む事も出来なかった。手を伸ばす事もしなかった。その場所は、確かに俺の場所だったはずなのに。――さつき姉ちゃん。さつき。お前、いつから泣いてた?俺の前でも泣いてたか。弱くて情けなくて馬鹿な俺にも手を、その手を伸ばしてくれた時があったのか。


「――会わねえと」
「焦凍!どこへ行く!」
「ついて来んな!」

 後ろで、俺の名前を叫ぶクソ親父なんてどうでも良かった。いま動かなきゃ、俺はいつまで経っても昔のあんたを忘れられねえ。




 雄英高校体育祭の会場は学年ごとに分かれており、三年ステージは二年のそれを挟んだ隣に位置している。轟は控え室に置いてあった予備の体操服を羽織り、三年の会場へと駆け出した。その際、芦戸とぶつかった気がするが正直記憶にない。かなりのプロヒーローが雄英高校に出向いていたらしく、轟の身体にはじろじろ、と言った様子の視線が突き刺さった。それらには目もくれず、轟は三年ステージの観客席へと駆け上がる。巨大なモニターからは次第に煙が晴れ、主役である二人の姿を漸く捉える事が出来た。それと同時に、会場内には勝敗を知らせるアナウンスが響き渡る。


“――深海さつき、行動不能!勝者、天喰環!”

 煙が晴れた先には、さつきが対戦相手の腕の中にいた。負けたのか、と腑に落ちた。少し、安心した。けど、さつきの小さい身体が強く抱き締められる光景を見て、心がざわつく。あんたを支える力も、身体も手に入れたはずなのに、俺はこの場所から動けずにいて、隔てるようにあの男がいる。――穏やかに気を失っているらしいさつきの周りに、人が集まり始めた。保健室へと運ばれるのだろう。――会って、触れて、話がしたい。――そう思っても時間が待ってくれる筈もなく、轟は準決勝を勝ち抜く為に一年の会場へと踵を返す事になったのだ。




『――さつき!』

 ぱたぱた、と廊下を駆ける音が聞こえる。今よりも随分と鋭い双眸をしているが、「さつき」と声を掛ける時だけは酷く優しげだった。柔らかく、そして嬉しそうに、僅かに表情筋を緩めて近寄って来てくれる幼馴染が可愛くて、大好きだった。クラスでは何時も独りだったが、放課後、たった数分でも轟を独占できるこの瞬間が生き甲斐だった。プリーツスカートを翻し、優しく「なあに」と声を返す。随分と大きくなった彼は、とっくの昔にさつきの身長を追い抜いてしまっていた。


『一緒に帰ろう』
『うん。靴履いておいで』
『すぐ行く』

 声を跳ねさせて、轟は一年の下駄箱へと駆けて行った。少し着崩された学ランはまだまだ真新しく、動きにくそうに見える。足早に駆けて行くその後ろ姿を見送りながら、さつきは一人笑みを零した。――スクールバッグを背負い、正面玄関で轟を待つ。彼は本当にすぐに現れた。未だに見慣れない身長をおそるおそる見上げつつ、さつきはセーラー服の上に羽織っているカーディガンの袖を、きゅ、と伸ばして足を踏み出し始めたのだ。


『学校は慣れた?』
『…まあ』
『友だちとか出来た?』
『……いらねえ。さつきだけで良い』
『だめだよ』
『なんで』
『……わたしも焦凍くんだけで良い、ってなっちゃうから』
『別に良い。少し前までそうだっただろ』

 中学に入ってから二年と少しが経ち、親戚らもさつきの存在に慣れたのか、今では殆ど放任主義を取っている。そのため、金銭的な問題と住処以外は己で何とかしなければいけないのが現状である。今日も夕飯の食材を購入する為にスーパーへ寄る事になった。――声も低くなり、随分と可愛げのなくなった轟の言葉を鼓膜に通す。琴線を震わせる様なその低さが、さつきは好きだった。突き放すわけでもないそれで包み込んで、彼は何時だって彼女のすべてを蕩けさせて行くのだ。
 中学と地元の中間地点にあるスーパーは安い上に品揃えも豊富で、さつきはここを重宝していた。店内に入ると冷気が身体を包み込んでくれる。今日は何にしようか、と問い掛けようとしたところで、轟は何時だって「蕎麦」としか答えない事を思い出し口を閉じた。


『今日はなに食うんだ?』
『焼き魚と、冷奴と、……わかめのお味噌汁かなあ』
『和食だな』
『ほっこりしない?』
『する』

 「春はさわらが美味しいんだよ」と教えてやれば、轟はきらきらとした瞳を商品に向ける。――この顔を炎司さんに見せたら、もっと喜ばれると思うんだけどなあ――なんて事を思うが、これを口に出した時にはこの穏やかな時間には終止符が打たれるだろう。――冷奴をする時には必ず絹ごし豆腐を購入する。わかめは乾燥した袋のもの、味噌は袋詰めにされた小さな物を何時も買うようにしていた。さつきのその習慣を覚えているのか、轟は次々と商品を籠に入れて行く。


『……焦凍くん』
『え、…………あ、間違ってたか?』
『ううん。覚えててくれて嬉しい。助かっちゃった』
『…さつきの事は、俺が一番良く知ってる』

 そう、小さな声で呟いた轟の目元は僅かに赤らんでいた。言っている途中で恥ずかしい言葉だと気付いたのだろう。その幼さは、昔と何も変わっていなかった。ゆるり、と目元を緩めてさつきは笑う。嬉しそうに、幸せそうに、このまま死んでも良いと願うくらい。うそじゃなかった。しかし、彼はその真意に気付かない。――気付いていれば、きっと今の様に拗れてはいない。しかし気付いていれば、ここまでお互いがお互いに強い想いを抱いてはいないのだ。


『――そうだね』




 夕飯の食材を買い込み、さつきと轟は再び帰路につく。沈黙と僅かな言葉の応酬を楽しんでいると、あっと言う間に彼女の家に着いてしまった。何時もならすぐに「また明日」と挨拶を済ませるのに、今日に限って彼は何かを言いたそうに俯いている。頭上に疑問符を浮かべるも、彼女は無理に聞き出そうとはしなかった。――昔からそうだ。不器用な轟をただ、じっと待つ。早さを強要するわけでもないさつきの態度はエンデヴァーとは対極的で、酷く居心地が良かったのだ。


『……さつき』
『ん?』
『…今日、本当は言いたい事があって、誘った』
『うん』
『……俺、雄英に行く。ヒーローを目指す。理由はあるけど、それは落ち着いたらまた話す』
『うん』
『…で、その、……さつきも、雄英に来て欲しい』

 その言葉に、さつきは酷く驚いた。灰色の瞳を丸くさせて、うそでしょ、と視線で訴えて轟を見つめる。しかし、彼の願いは、意思は変わらないらしい。困惑した様に眉を下げると、そんな彼女の気持ちに漸く気付いたのか、彼は我に返った様に彼女の手をそっと握る。ぴく、と僅かに跳ねるそれには、微かな恐怖心が孕んでいた様に思えた。おず、と言った様子で彼を見上げると、当人は再び口を開く。そして紡がれた言葉は酷く我が儘で、傲慢で、しかし何よりも彼女に対する慈しみに溢れているそれだった。


『さつきがヒーローを嫌ってるのは知ってる。当たり前だと思うし、納得もしてる。…ひでえ事を頼んでるのは、分かってる。でも俺、……さつきの隣は、俺が良い』
『焦凍くん…』
『――ずっと、傍にいる。もう二度とお前が、…さつきが泣かねえで済むように』

 そう言って、焦凍くんはわたしの身体を抱き締めた。強く、強く、ぎゅう、と締めつけるように。焦凍くんの肩で頷くと、焦凍くんはすり、と頬を擦りつけて来た。かさかさした火傷の痕が少し擽ったい。とても、いとおしかった。そんな焦凍くんの背中に手を回して、少しだけ引き寄せる。――せっかく買いこんだ夕飯の材料は、冷たいアスファルトの上。どうでも良かった。あなたがいれば何だって良かった。この時、わたしと焦凍くんの道は確かに重なった。一緒になったはずだった。

 そのはず、だったのに。





 懐かしい夢をみた。口約束を簡単に信じてしまった、愚かな少女のそれ。随分と朧気になってしまった記憶にどうにか蓋をしながら、さつきはゆっくりと瞼を震わせる。白い蛍光灯の光が目に優しくない。何度か瞬きをしてはその明るさに慣れさせて、彼女は漸く目を覚ました。清潔なシーツに包まれ、掠り傷程度のそれには絆創膏やガーゼ、などと言った後処理がなされている。そんな彼女の鼓膜を、いの一番に震わせたのは酷く震えた様子の元対戦相手だった。


「――深海さん!」
「っ、あ、まじき、くん…?」
「良かった……。体育祭、もう終わったよ」
「……そっか」

 うっすらと尖った耳を視認しては、途切れ途切れながらも名を呼ぶ。どうやら間違ってはいない様で、さつきは気付かれぬ様に浅く安堵の息を吐いた。そして、ひたすら怯えていた行事は知らぬ間に呆気なく終わっていた事を知る。――リカバリーガールは居ない。気を遣って保健室を出ているようだ。そこではた、とさつきは僅かに目を丸くした。暖かなものに包まれている己の右手は、確かに環によって握られていた。その視線に気付いた彼は、なにかに弾かれた様に手放したのだ。


「ッ、…………ご、ごめ、俺、俺なんかが…うあ……」
「…落ち着いたら?」
「はい……」

 そのやり取りを最後に、室内は静寂に包まれた。視線は合わず、しかし何処か戸惑いがちにこちらを意識している事は分かる。――色々と言ってしまった記憶はある。発破をかけられて、煽られて、きっと要らない事も言ってしまった。困らせただろうに、この人はそれでも手を伸ばしてくれた。馬鹿みたいにお人好しなこの人は、暖かな手で握ってくれた。嬉しいのに、ずっと求めていた事なのに、あの子が良かったと少しでも思ってしまったわたしは最低だ。


「……ごめんね。楽しみにしてくれてたみたいなのに、…冷静に、なれなくて」
「……どうしてきみが人を寄せつけないのか、少しだけ理解した、気がする」
「…うん」
「…………あの人には、愛されてた?」
「――殺されかけるほど、憎まれてた」

 そう言うと、環は猫目のそれを大きく見開かせる。よくよく考えれば、すべての英雄がお人好しで世話焼きで自己犠牲の塊だなんてある筈がなかったのだ。それを前提としても、あの事件の動機はあまりに自分勝手で理不尽なものだったが。――今でも後ろ髪は伸ばせない。首筋に触れられると吐き気がするし、純粋に強い力は恐ろしくて堪らない。愛されたかった、などとのたまうつもりもない。それでも「普通」を焦がれない日は一日たりともなかった。


「平凡に暮らせるなら何でも良かったの。痛くてつらい思いなんかせずに生きたかった。力で捻じ伏せられるくらいなら、ヒーローの親なんて要らなかった」
「深海さ…」
「…ただ、普通の友だちが欲しかった。休憩時間のお喋りも、お昼休憩のご飯も、放課後の寄り道も、昔からずっと憧れてた事だったから」
「……うん」
「笑って殴るんじゃなくて、笑って頭を撫でて欲しかった。抱き締めて欲しかった。普通にご飯を食べて、休日は家族揃ってお出かけして、…そんな、普通の生活が欲しかった。……どんな気持ちになるのかな。天喰くんは分かる?」
「――、ッ」
「……わたしね、ヒーロー科の人が妬ましくて、とても羨ましかったの。ただ純粋に、真っ直ぐにヒーローに憧れて、惜しみない努力をして、応援される環境に囲まれて。――きらきらした笑顔が、とても眩しかった」

 ――わたしには、もうむりなの――絞り出すように吐き出された言葉を聞いて、俺は何も言えなかった。きっと、この環境じゃなければこの子も、俺と同じようにヒーローを目指していただろう。きっと優秀であるはずだ。強く明るく、人に囲まれて、しあわせな道を歩むはずだったんだ。――なのに、きみは泣いている。幼くして、妬み憎しみで心をいっぱいにして、一つの未来を消したんだ。
 我慢ばかりだっただろう。耐えて、耐えて、耐え抜いて。それでも溢れる「救けて」の声に気づく人間はいなかった。――ぎゅう、と深海さんの手を握る。その後に聞こえた深い溜め息は、室内に妙に響いた。


「……一度で良いからあの人に、――名前で呼ばれたかった、なあ」

 そう呟いて嗚咽を漏らす深海さんの願いは、何て事ない普通の、小さなしあわせであるはずだった。


「…………願って良い、よ」
「え…?」
「ッ、…俺が、俺が叶える。きみがずっと我慢して来たこと、ぜんぶ聞く、から」
「天喰く…」
「――だからもう、泣く事を、悪い事だと思わないでよ……」

 寝そべるさつきの身体を抱き締めて、そっと髪を撫でる。柔らかくて、酷く温かい。あの大きな手では触れられなかったその髪を、何度も何度も、環は撫でた。黒く艶やか、汚れを知らないあまりに純粋な女の子。「大丈夫」と何度も呟くと、彼女は漸く彼の背に手を回す。僅かに濡れた感触の肩は、彼女の涙を示していた。思わず顔を覗き込むと、そこは林檎の様に真っ赤である。安心させる様にぽんぽん、と頭を撫でてやれば、涙腺の緩みは止まらなくなった。――そんな時に限って突撃して来るのがあの人物なのである。


「…………ちょっと天喰くん、なに泣かせてんの……?」
「えっ、いや、ちが」
「て言うか何で抱き合ってんの!もーイチャイチャ禁止!」
「ご、ごかい…」
「はァ?」
「ご、ごめんなさい……」

 二つの鞄を持ち、ノックもせずに入室して来たのは睦だった。元気に「さつきちゃーん!」と言いながら入って来たくせに、その「さつき」の様子を見た途端、環に殺気を向け始めている。彼は何とか弁解しようと慣れない言葉を紡ぐも、妙に迫力のある睦を前にしてしまえばもはや意味は無い。――そんな光景にぱちぱち、と瞬きを繰り返す。そしてその直後、さつきは確かにゆるり、と笑ったのだ。それを見逃す睦ではない。


「さつきちゃん笑ってるー!良かった!」
「へ、へん?」
「んーん!嬉しいの!」
「そ、…そっか」

 さつきと環の間に割り込み、睦はさつきの両頬を優しく挟み込む。そして、心底安心した様にくしゃり、とした笑みを浮かべたのだ。控え室に居た時のさつきではなかった。その時よりも、体育祭以前よりも素直に、己の感情に対して正直になったさつきは、仄かに頬を赤らめる。そんなさつきの姿に、彼も表情筋を緩めている。――そんな穏やかな空間の中、再び保健室の扉が開いた。その人物もまた、環が予想していた男だったのである。


「――起きたか」
「相澤ちゃん…」
「イレイザーヘッド、クラスは?」
「終わった。――荷物まとめて出ろ、送る」
「えっマジで?ラッキー」
「お前は歩いて帰れ」
「えっうそでしょ?鬼畜の所業すぎない?」

 保健室へと入って来た相澤は、校内で常に着用している衣服に薄手の上着を羽織っている。そして車のキーを取り出し、帰宅を促した。――きっと、なんだかんだと言ってぶつぶつ、と文句を言う睦も、先程から謙遜しかしない環もまとめて送迎してくれるのだ。相澤はそう言う人間だった。そんな相澤は去り際にさつきの頭を撫で、僅かに口角を上げる。――ああ、こう言うところがずるいんだ。不器用で、優しくて、決して人を見捨てない人。わたしの、唯一の師匠。


「…相澤ちゃん」
「あ?」
「――ありがと」
「……お前は本当、俺の前では良く泣くよな」

 わたしの髪に掠ったその手は、確かにわたしを労わっていた。




 ――ずっと、さつきの事は俺が一番良く知っていると思っていた。けれど、それはただの自惚れだった事に気づく。初めての友人に初めて手を差し伸べた男、師匠だと言うプロヒーロー。ぜんぶ、俺が自分の事ばかりになっていた時にさつきを救けてくれた存在だ。ずっと忘れていた。俺が、どうしてさつきを好きになったか。どうして、本気でヒーローを目指し始めたか。ぜんぶ、さつきだったのに。あんたが泣かずに済む事が、ずっと笑っていられるような社会を目指す事が目標だったのに。
 勝手に約束を取りつけて、期待させて、裏切って。いま、俺はその事に気づいた。――なあ、馬鹿だよな。あんたの唯一をもらっていたはずなのに。あんたの笑顔が好きで、あんたの涙に絶望したはずなのに。俺はいま、見送るしか出来ない。ただ、涙を零す事しか許されていなかった。


「さつき、――」

 きっと俺は、謝っても許されない事をした。