残酷なよわさに惹かれて、
 ――そろそろ夏服を買わなければ、また成田に溜め息をかれてしまう――さつきがそう思ったのは、本当に唐突な事だった。試しにクローゼットの中を覗いてみたが、碌な物はありはしない。高校入学を機に昔の物を殆ど捨ててしまった事を前提としても、相変わらず己の事には無頓着な人間である。そして、生憎と本日は体育祭の代休であり、雄英高校では休みとなっている日だ。これを逃してしまえば、気分が乗る日は暫くやって来ないのだろう。そう思った彼女は重い腰を上げ、出掛ける準備を始めたのだ。




 当初の目的であった服の購入は果たされた。口座に溜まりに溜まったバイト代で、好きなご飯を食べる事も出来た。――僅かに上がってしまった気分のまま、和菓子が美味しい、と言う日本喫茶の暖簾をくぐる。内装は全て木材で出来ており、自然の香りが店内を包み込んでいた。薄暗い照明とジャズ調の音楽は、訪れた客にひと時の平穏を与えているようだ。そこでさつきは、白玉の冷たいおしること抹茶のカプチーノを注文した。
 すぐに届いたおしるこに木のスプーンをくぐらせ、それを口に運ぶ。特別甘ったるい後味がないそれは、酷くさつきの口に合ったようだ。クリーミーな泡立ちが残った抹茶のカプチーノの上には、真っ白な生クリームがスプーンで掬われた形で、ぼてり、と乗せられている。それを少しずつ溶かし、喉に流し込む。――カラン、と鈴の音が響き渡る。それと同時にカップを置けば、音を鳴らした存在との視線が自然と絡み合ったのだ。


「――轟くんのお姉さん?」

 名前も知らない女の子、残念だけど一文字も合ってないよ。




 見事に何もかもを間違った少女――麗日お茶子――とさつきは、何故か相席をする事になった。それは、彼女がお茶子の息込んだ瞳に根負けしてしまったからである。さつきは、昔から何かを訴え掛ける様なに弱かった。そんな事とは露知らず、お茶子は真剣にメニューを凝視している。――いつもそつなくこなすあの子とは正反対――そんな思考ばかりに絡め取られながら、さつきはカップの取っ手に指先を添えた。その時に注がれる視線を辿れば、そこにはきらきら、としたそれを向けるお茶子の姿があった。


「……どうしたの?」
「エッ、アッいや、美味しそうやと思って!ごめんなさい!めっちゃ見ちゃった!」
「抹茶、好きなの?」
「好きです!でも、おもちが一番好き!」
「…………そう」

 なんでも好きなものを「好き」だと言える彼女がとても羨ましく思えた。緩みそうになった顔を力ませて、わたしは抹茶のカプチーノを喉に流しこむ。ようやく食べ物を決めた麗日さんはおもちのプレートを頼んだらしい。けれど、まだ飲み物に悩んでいる。その様子を見て痺れを切らしたわたしは、店員に同じ物を注文した。照れ隠しに「美味しそうって言ってたから」と言うと、麗日さんは、また嬉しそうにきらきらと目を輝かせる。眩しかった。
 すぐに届いたおもちのプレートと抹茶のカプチーノを、美味しそうに口に頬張る。その瞬間に煌めく瞳は、目の前の大好物に夢中だった。その間は互いの食器音が響き渡るのみ、双方共に口を開こうとはしない。お茶子はちらちら、としきりにさつきの方へ視線を寄越していたが、その当人は頑なにそれで応えようとはしなかった。――それも食事が終われば、自然と静寂を持て余す。その空間を抉じ開けたのは、やはりお茶子だった。


「……あの、体育祭出てました、よね?」
「…………なんで知ってるの?」
「えっと、中継で観てて」
「…ああ、全国中継してたんだっけ。――出てたよ。それがどうしたの」
「個性を使うタイミングとか、身のこなしとか、上手だなあって、思って」

 ――ただ、ありがとう、としか言えなかった。体育祭で披露する事になったアレらは相澤ちゃんの努力の賜物で、わたしはそれをなぞっただけ。わたしのものじゃないよ、と伝えても、きっと彼女は頭にクエスチョンマークを浮かべるんだろう。いま強くなっても仕方がない。守りたい人はいない。守りたいと思っていた人は、呆気なく消えてしまった。ただのささやかな幸せすら守ってくれなかったヒーローを、傲慢にも責め立てるだけ。間違ってる事は分かってるけど、止める事も出来なかった。


「それでね、この前聞いたんですけど、深海先輩と天喰さん?との試合、エンデヴァーが観てたみたいなんです。知ってましたか?」
「え…?」
「お知り合いなのかなあ、って気になっちゃって」

 はく、と空気を食べる様に口を動かす。なにも入らないのは当たり前の事だった。――あの人が、来ていた。中学以来、顔を見る事も叶わなかったあの人が来ていた。中継ではなく、直接会場に来ていたんだろうか。目立つだろうに。あの、情けない程の叫びを聞いていなければ良いけど。何年もの間、溜めこんでいた弱さ、狡さに気づかれたくなかったけれども。傲慢で乱暴な振る舞いの中で少しの優しさがある事を知っているから、あの人はきっとその事にも気づいている。
 その後に続いた「三奈ちゃん」と言う名は聞き覚えのないそれだった。その「三奈ちゃん」曰く、轟が三年ステージに訪れていたらしい。その事実が鼓膜を震わせた途端、カップへと伸ばしていたさつきの手はぴたり、と止まる。


「……来てたんだ」
「お知り合いなんですか?轟くんと」
「…………幼馴染」
「……エッそうなんですか!?轟くん、そんなこと一言も…」
「…嫌なんでしょ」
「え…?」
「――犯罪者の娘と親しかったなんて、普通、知られたくないよ」

 さつきがそう言った途端、ごくり、と生唾を飲む音が、お茶子から聞こえて来た。――知らない訳じゃないだろうに。ヒーロー業界の最大の汚点であり、超人社会における凄惨な事件の一つである事は周知の事実だから。今更隠すつもりは無いし、隠す話術も、その度量もないから聞かれれば答える、と言うのがわたしのスタンスだ。それでも、明らかに同情するような視線は好きじゃない。それがヒーローに関わる者なら尚更だ。
 己を落ち着かせる様に、お茶子は一度喉を潤した。カチャリ、と陶器の音が妙に響いた気がする。そして、先程までの慌てた様子を打ち消し、さつきに真っ直ぐな視線を向けた。――こんな、真っ直ぐなヒーローに出会えたら良かったのに、と心の底から思った。




 体育祭も相澤先生の話も終わって、しばらくは教室に残るクラスメイトもいたけれど、一時間もすればそれも疎らになった。あの時残っていたのは私とデクくん、上鳴くんだけ。轟くんは相澤先生の話が終わってから荷物を置いてどこかに行ってしまってて、一時間経ってもまだ帰って来てなかった。――陽も落ちて来て、そろそろ帰ろうか、ってなった時、教室の入り口から音が鳴った。そこから現れたのは、どこか気が抜けきった轟くんだった。


『轟くんお帰り!遅かったね?』
『…………ああ、緑谷か。まだ帰ってなかったんだな』
『そろそろ帰ろっか、って話してたんだけど、轟くんも良かったら…』

 そこまで普通に喋ってたデクくんが、轟くんの顔を見た途端に黙りこくってしまった。その静かさに耐え切れんくなってそっちを見てみたら、目元を真っ赤にした轟くんが、そこにはいた。正直夢ちゃうか、って何度もその綺麗な顔を見たけど、何回見ても変わらなくて、そこでようやく認める事が出来たんよ。上鳴くんはしばらく信じられなかったみたいで、何度も何度も目を擦ってた。ちょっとアホ残ってたんかな、分かんないけど。


『エッ、ちょッ、どうしたの轟くん!』
『なにがだ?』
『…………いやいやいや何でそんなキョトン顔!?目真っ赤だけど!』
『…ああ、冷やしたんだけどな。まだ引かねえか』
『充分残ってます……』

 確かに戸惑いはあったけど、轟くんがあまりにいつもと変わらんからほんとにびっくりして、私は何て声をかけたら良いのか分からなかった。デクくんと上鳴くんは初めて見る轟くんのその顔に、めっちゃ喰いついてた。涙声ではなかったけど鼻を啜る音はいつもとちがってて、泣いた後だって事はすぐに分かった。――少し、恥ずかしがってるんかもしれん。くしゃくしゃ、って紅白の前髪を乱して、轟くんはちょっとだけを下を向く。声は、いつもより小さかった。


『……わりい。泣いてた』
『……かっちゃんとのこと?』
『…………緑谷ってすげえガツガツ来るよな。ちげえけど』
『そ、そんなにガツガツしてないよ!』
『別に良い。それに俺は救われたから』

 そう言って、轟くんは笑った。すごく柔らかい笑顔を見せた。今までの轟くんとはちょっとちがってて、思わず上鳴くんと目を合わせる。上鳴くんも同じ事を思ってたみたいで、ちょっと嬉しそうやった。――机に置きっぱなしにしてた鞄を持って、轟くんは荷物を雑に入れて行く。その日は体育祭だけやったから、そんなに荷物は無かったけど。その中からタオルを取り出して、轟くんはそれを目に当てた。


『つうか轟、お前今までどこにいたわけ?』
『……保健室、の前』
『え、前?入ってねえの?』
『……入れなかった』
『誰かおったん?』
『――俺の、ずっとすきな人』

 その言葉に、私ら三人は目ン玉が飛び出てしまうくらいびっくりした。まさかこの流れで恋バナに発展すると思わんやろ?私も思わん。でも上鳴くんはすごい楽しそうにしてた。好きそうやもんなあ、こう言う話。けど、「そう言う」系統の話にしては轟くんの顔は暗くて、事情があるんやろうな、って察してしまった。やから、デクくんが異常に照れずに轟くんを見つめてるんだと思う。


『……ひでえ事をしちまったから、会わなきゃなんねえ、って思った。でも、会えなかった』
『…どうして?』
『――泣いてた。…俺、あの人の泣き顔に弱くて、全然慣れなくて、頭真っ白になるんだ』
『…最後まで会えなかったの?』

 デクくんがそう聞くと、轟くんは声を出さず、ただ頷いた。――轟くんの口から、直接その人の事を聞いた訳じゃなかった。どんな人かも知らないし、顔も見た事がない。でも、轟くんの中ではその人だけで、その存在だけが唯一で、一生雁字搦めにされて生きて行くんやろなあ、って思うと、とても寂しかった。入学当初から「クール!賢い!イケメン!」って騒がれてた轟くんをこんなにも骨抜きにしてしまうんだから、よっぽどべた惚れなんだろうなあ、とも思った。


『…………ずっと傍にいる、って勝手に約束して、期待させて、自分ばっかりになって、裏切ってた。…あの人の心の拠り所は俺、だったはず、なのに』
『轟くん…』
『――それ、『人殺し』の噂と関係あんの?』
『ッ、あの人は人殺しなんかじゃねえ!』

 苦しそうに顔を歪める轟くんだったけど、上鳴くんの素朴な質問には鬼のように睨みつけてた。入学したてのガンギマリ轟くんみたいな、そんな顔。でも、上鳴くんは答えが分かってたのか、ただ苦笑いだけを浮かべてちらり、とデクくんを見上げた。――一瞬、体育祭前の轟くんに戻ってた事は確かやけど、ちょっと、泣きそうにも見えた。ちがう、って必死に訴えかけるようなその表情に、私まで泣きそうになった。


『…ひどい事をした、って思うなら、会わなきゃ。会って、謝らなきゃ』
『でも、俺、あの人に…』
『――拒まれても、許してくれなくても、謝らなきゃ。拒まれるのが怖いから、許してくれないだろうから何もしないのは、君のただの我が儘だ』
『ッ、――』
『そこからどうするかは、轟くんのお仕事だと思うよ?』

 ぽつり、ぽつり、と響くデクくんの言葉は、懸命にそれを選んでるみたいだった。帰り道に聞いたけど、デクくんと爆豪くんはその人に会った事があるらしい。「どんな人?」って聞いたら、「純粋すぎる人」って言われた。その時、轟くんは少しだけ笑ってた。嬉しそうに、寂しそうに、けど、何も言わずに笑ってた。――ふと、轟くんがデクくんを呼ぶ。いつだって笑って、全部を受け入れるデクくんはやっぱりどこまでもヒーローだった。


『――ありがとな』

 私が「人殺し」の噂を知ったのは人づてだった。直接「人殺し」って言われてるのを見た訳じゃなくて、と言うか一年はほとんど皆そうやと思うんだけど。かわいそう、って同情する人、意識して言わないようにしてる人、そもそも興味のない人、好奇心旺盛な人、色々おった。私は、ちょっとだけ同情してたのかも、しれん。ヒーローが嫌いなのに何で、って。わざわざ名門の雄英に来なくても良いのに、って。――全部、轟くんの為だった。最後まで、今でも轟くんを信じてるからだった。


『…………あっ、言い過ぎた!?ごめんね!?』
『いや、慣れた』
『それ慣れて良いもの!?』
『まあまあ良いじゃんか!轟も元気になったみたいだし!このまま飯でも行く?』
『ええね!どこ行くどこ行く?』

 ――ただ、それだけやった。





 何時の間にか、さつきの両目からはぼろぼろ、と涙が零れ落ちていた。それを拭うでもなく、耐えるでもなく、涙が零れるさまを眺めている様で。上体を伸ばして、それを指先で掬い取ると、万華鏡を覗いた時の様にきらきら、と瞬く双眸がそこにはあった。薄暗い灰色の中に散りばめられる光は、今まで、ずっとずっと我慢して来たものにちがいない。――それに見惚れ、しかし我に返ったお茶子はふと柔らかな笑みを浮かべてみせた。


「轟くんのこと、本気で嫌いですか?」
「……ち、がう」
「突っぱねる理由、教えてくれませんか?」
「ッ、……い、まさら、すなお、なんか」

 嗚咽混じりにお茶子の問いを否定するさつきには、何時もの余裕は無かった。おそらく、睦にも相澤にも伝えていない事を口にする。――「今更素直になんかなれない」――おそらくそう言いたかったのだろうさつきの唇は、恐怖と羞恥で震えていた。きっと轟さえも見た事のないその表情に、お茶子は思わず笑みを零す。弾かれた様にお茶子を見つめるさつきは何処か幼く、諭したくなる雰囲気さえあった。


「…やっぱ、デクくんの言う通りや」
「でく、くん?」

 ぽつり、とさつきは不安気に呟く。漸く涙を拭い始めた彼女の目元は痛々しく、赤く腫れていた。――デクくんが言ってた「純粋すぎる人」って言うのは、あながち間違いではないと思う。口約束を信じて裏切られたのに、ちゃんと嫌えず、今でも信じているその真っ直ぐさは簡単に持てるものじゃない。轟くんが、この人にとってどれだけ大切なものなのか、どれだけ唯一な存在なのかは分からない。けれど、二人が笑い合える日が早く来れば良い、と願った。


「――深海先輩、めっちゃええ人やもん!」

 その時には、心底嬉しそうに、力いっぱいにあなたを抱き締める轟くんがきっといるはずやから。




 初めて母親の見舞いに行き、入院先の病院を出たのは昼食の時間を優に過ぎた頃だ。食堂の様に重い食事は控えたい。かと言って、イタリアンの様な洒落た場所に好んで入る様な人間でもない。――最終的に、轟は近くにあったファミリーレストランに入る事を決めた。値段もリーズナブル、平日の昼過ぎの客層なんて老人の集まりか、勤務中のサラリーマンかOLくらいだ。そんな中、轟は店内の奥の席を選んだ。クリーム色のすだれが轟の視界を遮るが、それでも漏れる陽の光は僅かながら安堵感さえ与えてくれるだろう。
 しかし、その足取りはふとした事で止まる事となった。よもや、こんな場に居るとは予想すらしていなかった人物だ。ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返すとあちらも同様の気持ちを抱いたのか、同様の反応を示した。――戸惑った様子で「轟」と呼ばれる。それに応えるように、俺も目の前の人の名前を口にした。


「――相澤、先生」

 どくり、と微かな罪悪感を抱いてしまった事は許して欲しい。