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キナが、ガイエン公国領海に浮かぶ離島、ラズリルにある唯一のガイエン海上騎士団への長期研修に立候補したのは、ほとんど気まぐれだった。ガイエン公国の首都からそう遠くない栄えた町で、いくつかの土地と建物を所有する裕福な家庭に生まれ、市議会の書記長を務める父を持ち、ガイエン公国騎士団に入団した年の離れた兄と、まだ幼いが優秀な弟に囲まれ、キナは順調に公国学校を卒業し、1年間の訓練ののち、兄の後を追うようにして騎士団に入団した。誰もが口にしないものの、兄は騎士団でしかるべき成績をおさめ、名誉を得た後は引退し、父の後を継いで公務員となり、弟は公国学校へ入学して紋章学の研究を専攻し、紋章学者である叔父の助手となることは、既に決定された事項のように、誰もが心得ていた。
だから、キナはいつも将来への不安こそ抱かなかったものの、ある種の虚しさを抱いていた。キナの将来について、家族の誰も、期待も不安も抱いていなかったからだ。キナは勉強や修行が好きで、家の中でじっとしていられない、おてんばな娘だという評価を得ていた。だから、娘の気の済むまで好きなようにさせてやって、満足したらきっと家に入り、婚約者と結婚し、嫁に行くだろう、と父が考えていることは、キナにもわかっていた。父の懐の広さと子心への鈍感さには脱帽する。しかし、キナは極めて健全かつ純粋に、家族のことを愛していた。
その立候補の気まぐれは、3日も経つとにわかに後悔へとかわった。キナはこういうことが間々あった。だから、後悔が押し寄せてきた日の夕方も、落ち込みながらも夕食をきれいにたいらげ、2日後に迫った出発に備えて淡々と荷造りをした。
騎士団では、キナは紋章部隊の第4部隊に配属されていた。一般兵とはいえ、キナほどの年齢で既に正式な騎士として認められることは、特別なことだった。権力があり騎士団の上層部とつながりがある父と、騎士団内で優秀だと評価されている兄の存在も大きな影響があっただろうが、キナ自身の実力も申し分ないものだったために叶ったことだった。
各地にある騎士団の支部に、研修生として派遣したり受け入れたりすることは、毎年の恒例として立候補者を募るのだった。正式な騎士とした入団して2年目だったキナは、その知らせを聞いた時、齢の離れた同僚に囲まれ、友人もできず、家に帰っても兄と弟の話題ばかりでむなしく、唯一キナの心情を理解してくれていた病気がちの母が、本格的な療養のために自然豊かな辺境の町にある別宅へ引っ越してしまったことの寂しさもあいまって、いっそどこか遠くへ行ってしまいたいという自暴自棄な思いが込み上げてしまった。3日も経てば、騎士団の中で一番規模の小さい、これといった成果を上げているわけでもない海上騎士団、しかもラズリルはほとんど話にも聞かない小さな田舎町。そういった現実味が不安を纏ってキナの胸中を支配した。行ったところで、自分の身に何か変化が訪れるわけでもないことは、ぼんやりとわかった。
だが、決まってしまったことは仕方がない。キナは、紋章部隊の制服である白とインディゴブルーのローブを3着、皮のケースに綺麗に仕舞った。それから私服やアメニティ、母からもらった指輪も詰めた。出発が決まった翌日、父に呼ばれて久しぶりに父、叔父、兄、そして弟と5人で食事をした日に、無事を祈ってプレゼントされたものたちもすべて荷物に含めた。父からは魔力のこもったネックレス、叔父からは新しいロッド、兄からは愛用していた懐中時計、弟からは特別なメッセージカード。
今日のうちに部隊長と先輩たちに挨拶を済ませて、明日の朝には町を出なければならない。そこから馬で丸1日かけて港町へ行き、騎士団の船でラズリルへと渡るのだ。
キナは今一度荷物を確認し、忘れ物がないことを確かめると、部屋の蝋燭の火を消して部屋を出た。
夜にもなると、廊下は足元に冷たい空気がとどまり、寂しげに静まり返っている。廊下の両側に並ぶ扉の向こう側からは、時々笑い声や雑談をする呟き声が聞こえてくる。夕食を終えて、消灯前のこの時間は、騎士団員にとっての数少ない自由時間だ。
キナは一人で廊下を進んだ。寂しくても、後悔しても、この道に行くべきだと心のどこかで確信めいたものを感じていた。


***


出発の朝、天気は快晴で、風もやわらかく、キナは安堵して厩へ向かった。遠征用の栗毛の馬に荷物を積み、跨って、騎士団の城を出た。学生時代の友人と、同僚と、先輩が数人、見送りに来てくれた。
道中は何事もなく、暗くなる前には港町にたどり着いた。この町の支部に、先に知らせを送っておいたおかげで、キナは騎士団の宿舎に迎えられて一夜を明かし、翌朝港へ案内された。ちょうど、ラズリルへ戻る哨戒船が出るところだとの事だった。
キナはその哨戒船へ案内された。乗り込むと、青い鎧を着た少年や少女たちが甲板の上を行き来し、船は活気にあふれていた。艦長がいるというので船室を訪ねると、大柄な男と、スレンダーな美女がいた。キナは一目でその男が艦長だと思った。

「艦長さまでいらっしゃいますか?」

キナがそう尋ねると、男はやはりうなずいた。

「この船の艦長で、騎士団長のグレンだ。……たしか、本国からの?」
「研修生です。キナと申します。本国では、紋章第4部隊に所属しております。2年間お世話になります、よろしくお願いいたします。」

キナが深く頭を下げると、グレンはまたうなずき、隣にいた美女がキナの前に進み出た。

「研修、ごくろうさまです。知らせは来ています。私は副団長のカタリナよ。わからないことがあったら遠慮なく聞いてちょうだい。」
「はい。ありがとうございます。」

2人とも、風格はあるが優しそうな人だったので、キナは安堵した。

「とりあえず、荷物はそこに置いて。案内するわ。」

カタリナがそう言ったので、キナは従った。

カタリナは、キナを連れて甲板へ出た。やはりそこは賑やかで、キナはにわかに緊張した。

「この哨戒船は訓練中で、この船に乗っている者は皆見習いなの。といっても、もうすぐ卒業する者ばかりだけれどね。あなたには、彼らと同じ訓練に当たってもらうつもりです。」
「はい。」

キナがうなずくと、カタリナは甲板にいた少年2人を呼び寄せた。一人は派手な鎧を着た色白の少年で、もうひとりは皆と同じ青い鎧を着た、寡黙そうな少年だった。

「紹介するわね、スノウ、ラズロ。彼女は本国からの研修生で、あなたたちと2年間、共に訓練と任務を受けてもらうことになっています。キナさん、彼らは見習いの中でも優秀で、スノウには今度の卒業訓練で艦長を務めてもらうことになっているわ。」

カタリナがお互いを簡単に紹介してくれたので、キナは2人にお辞儀をした。

「紋章第4部隊所属の、キナと申します。2年間、よろしくお願いいたします。」
「よろしく。僕はスノウ・フィンガーフート。わからないことがあったら、何でも聞いてくれよ。」
「はい。ありがとうございます。」

スノウにお辞儀を返したキナは、ちらりと寡黙なラズロを見た。するとやっと、ラズロは口を開いた。

「ぼくはラズロ。よろしく。」
「よろしくお願いします。」

見た目通り寡黙な少年だった。表情もほとんどない。しかし不思議と快活な印象を受けた。飄々としている、といったほうが近いかもしれない。キナその不思議な雰囲気のある少年、ラズロのことが気になった。

「そろそろ出港ね。スノウ、行っていいわよ。ラズロは、キナに哨戒船での仕事を教えてあげてちょうだい。」

カタリナがそう切り出すと、スノウは心得たとばかりに船室へ向かった。今度の卒業訓練で艦長を務めるにあたり、予習があるらしかった。かわって、ラズロも了解し、キナに青い瞳を向けた。海のように深い、海よりも透き通った青の瞳だった。

「ついて来て。」
「はい。」

キナは赤い鉢巻の頭を追いかけた。ラズロは、甲板を回って、見張り、紋章砲の扱い、伝令、などを教えた。それから船室へ行って、海図の読み方、ラズリルまでどれくらいかかるか、を教えてくれた。

「海戦時はその都度紋章砲要員と白兵戦要員を選任する。他に、4人組の小隊が決められていて、これは順番で海の魔物の警戒に当たる。君は、とりあえず僕たちの隊に入ることになる。」
「わかりました。」

ラズロは名簿にキナの名前を書きこんだ。そのとき、ちょうど船が出港したらしく、甲板がさらに賑やかになった。

「出港だ。行こう。」
「はい。」

踵を返して船室のドアを開けたラズロの背中が、キナには不意に頼もしく見えた。まるで艦長であるかの錯覚さえ過った。しかしすぐに思い直し、キナはラズロの後に続いて甲板へ出た。

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