ちいさな策略



ふたりきりで夕闇の中、崖道を進んだ。辺りは静かで、波が砕ける音だけが穏やかに響いている。
キナはその静けさを堪能するように深く息を吸い、空を見上げた。そして伸びをして、息を吐き出すとともに腕を下ろした。その拍子に岩に躓いてしまい、よろけたところをラズロが支えた。不意に密着したふたりは互いを見て、ぎこちなく離れた。
その距離感がもどかしく思えたラズロは、ついに口を開くのだった。

「…キナの故郷は、どんな場所なんだ?」

キナは立ち止り、振り返った。もう、洞窟がすぐそこに見えていた。ふたりはどちらも、そこへ辿り着いてしまうにはまだ名残惜しく感じていた。

「私の故郷は……平和、だったよ。」
「平和?」
「そう。魔物なんていなくて、もう何十年も戦争なんてしてなくて、皆が学校に通えて……悪い人も事件もあるけど……それはごく一部。私の周りにはなかった。だから、他人事だった……ここへ来て、危険と隣り合わせで生きてきた人たちに会って、自分が恥ずかしくなるくらい、平和だった」
「平和が悪いこと…みたいな言い方、だね」
「悪いとは思ってないよ…でも、平和であることの意味を考えていなかった自分は、悪いと思う」

「…故郷に残してきた人たちのことは?家族や…大切な人がいた?」
「家族は…もちろん、心配。私が急にいなくなって、今頃どうなってるんだろう…って。それに、友達も。心配をかけてるかもしれない。せめて、無事を伝えられたらいいんだけど」
「……恋人は、いたの?」

キナは不思議そうにラズロを見つめた。その一瞬の沈黙が、ラズロにはとてつもなく長く感じた。

「いないよ。」

キナは少しはにかんで答えた。ラズロは安堵と喜びの混じった熱が胸の奥から込み上げるのを感じた。

「そろそろ、入ろうか?ちょっと寒くなってきちゃった。」

キナは自分の腕を抱くようにさすりながら言って、洞窟へと向かった。ラズロも頷いて、その後に続くのだった。



サロンに戻ると、ラズロとキナは連れ立ってカウンターへと向かった。

「ルイーズさん、お砂糖お待たせしました。」

キナが声をかけると、棚の整理をしていたルイーズが振り返って微笑んだ。

「ありがとう。悪かったわねぇ、こんな時間に頼んじゃって。でも、リーダーさんと会えたなら安心ね、よかったわぁ。」

ルイーズの言葉でラズロは顔が熱くなったが、キナがどこか誇らしげな澄み切った笑顔で目配せをしてきたので、悪い気はしなかった。

「あら?お砂糖、こんなに頼んだかしら?それに、おまんじゅうまで入ってるけど……」
「あ、そうなんです。道具屋のお兄さんが、おまけをつけてくれたんですよ。」
「おまけって……こんなに?」

ルイーズはまじまじと籠の中身とキナの顔を見比べ、不敵な笑みを浮かべた。

「…今度から、おつかいはあなたに頼もうかしら。」
「いいですよ、いつでも言ってください!」

にっこりと請け負うキナを見て、ラズロはやはりその鈍感さにため息を吐きたくなるのだった。

「たくさんあるから、おまんじゅうは夕ご飯の時に出すわね。」
「ありがとうございます。楽しみだねー、ラズロ。」

うん、とラズロが頷いた時、サロンの扉が開き、ジュエルとケネスがやってきた。ジュエルはキナをみつけると、ぱあっと笑顔になって駆け寄ってきた。

「キナ、おかえりー!ちょうどよかった、今から温泉に行くの!ね、一緒に行こう!」

そう言うジュエルの腕には桶が抱えられている。キナの目のみるみるうちに輝いて、満面の笑みを浮かべた。

「温泉!行く!でも、どこにあるの?」
「デスモンドさんがね、王宮の使用人用のお風呂、自由に使っていいって!しかもなんと、露天風呂まであるらしいの!」
「ええっ!行く!ちょっと待ってて、すぐ準備してくる!」

どたばたとサロンの奥の扉を抜けていったキナを、ラズロはぼんやりと眺めながら、じわじわと胸の奥にもどかしさを感じた。その背中を、ジュエルが軽く小突いてにやりとラズロを見上げた。

「ラズロ、ぼーっと突っ立ってるけどいいの?お風呂、一緒に行くでしょ?」

その言葉で、ラズロはぎこちなくジュエルとケネスを振り返った。そして何も言えないまま、自室に荷物を取理に行くために急ぎ足でサロンを出ていくのだった。




4人が王宮までやってきたとき、すでに空には月がぽっかりと浮かんでいて、辺りはすっかり夜だった。デスモンドに場所を聞いていたジュエルの案内で王宮に入り、浴場を目指す。廊下を進んでいくと、やがてその突き当りに、竹の引き戸が現れた。ジュエルはその扉を指さし、あそこが浴場だと言った。

引き戸を一つ開けると、細長い部屋が横に伸びており、向かい側の壁に引き戸が二つ並んでいた。ひとつは赤いのれん、もうひとつは青いのれんだ。女湯と、男湯だろう。さっそく、ジュエルとキナは赤いのれん、ケネスとラズロは青いのれんへと向かった。

「じゃ、出たらここに集合ね。」

ジュエルが言うと、ケネスもラズロも了承してのれんをくぐって行った。キナは少し微笑んでそれを見送った。どうしたの?とジュエルに聞かれ、キナはどこか嬉しそうにはにかんだ。

「こういうの、ちょっと、修学旅行みたいだなって思って……」

そう言うと、ジュエルは首をひねった。

「修学旅行?」

その言葉で、キナははっとして焦り、手を振った。

「あ、えーっと、そう、合宿!合宿のこと。」

そう言うと、ジュエルは的を射たような顔でうなずいた。

「なるほど、確かにね。見習い時代に、こういうことあったなあ。そう考えると、ちょっと楽しくなってきたかも。」

少女たちは咲き誇る花のような微笑みを交わして、脱衣所へ入った。中には誰もおらず、貸切状態だ。まだ夕食前で、早い時間帯だったのかもしれない。ふたりは服を脱いで桶に手ぬぐいや石鹸を入れて浴室へと入った。
洗い場が一列並んでおり、その奥に広い浴槽があった。部屋の奥にはまた扉があり、そこから露天風呂へと行けるようだった。体を洗うと、ジュエルは早速露天風呂へと行きたがった。

引き戸を開けると、涼しい夜風に体がさらされた。ジュエルは軽い駆け足で湯へと向かっていく。

「ジュエル、危ないよー」

そう言いながらも、キナも嬉しそうに湯に体を沈めた。すこし熱めの湯が、夜風で一瞬冷えた体をまたじわりとあたためる。さいこう、とジュエルが呟いた。キナも息を吐くように相槌を打った。

「……そういえば、ラズロと風呂に入るのは、初めてだな」

不意に、夜風に乗って静かに声が聞こえてきた。キナがジュエルを見ると、ジュエルもこちらを見ていた。隣の男湯で、ケネスとラズロも露天風呂に入っているらしい。ジュエルとキナは暗黙のうちに口を閉ざして、何気なく耳を澄ませた。

「とりあえず…食うにも寝るにも困ることはなくなったし……よかったよな。」
「そうだね……。」

「………。」
「………。」

「……それで、どうなんだ?」
「……なにが?」
「なにって、決まってるだろう。あの子のことだ。」

キナは、どきんと、胸が痛いほど心臓が跳ねたのがわかった。ケネスの伺い方はどう考えても、ある程度の内密性を孕んでいた。人にはあまり聞かれたくない話に違いなかった。キナは嫌な予感がして、息をのんだ。あの子、という言い方に、自分の知り得ない、彼らだけの世界があることを物語っているような気がしてならなかった。

「……ああ…」

ラズロの相槌が、直接名を聞かずとも心得たことを証明していて、キナは急に彼らに抱いていた親近感が揺らいだ。突然彼らがまた、遠い世界の人間であることを自覚して悲しくなった。

「ああ……じゃなくてな、どうなんだ?何か、進展はあったのか?」
「進展……ってほどじゃないけど……」

ラズロは、何かがあったにせよ、それを軽々しく口にはしたくない、という態度だった。声だけが聞こえるこの状況でも、その声に慎重さと緊張が含まれているのがわかった。
自分の知らないところで、ラズロに意中の相手が現れた。その程度の推察は、キナの頭にも浮かんだ。それが自分ではないかと想像するにはまだラズロを知らな過ぎたし、おこがましく都合がよすぎると自己嫌悪してしまうのだった。

「でも……どうにかしようとは思ってないんだ。このままでいいと思ってる。」
「どうしてだ?」
「状況が……悪すぎるよ。それに、僕なんかが……迷惑だろうし。」

キナは手ぬぐいを握りしめた。それじゃあ、ラズロはずっとその相手を思い続けるだけなのか。そんなことになったら、もう、誰もその隙に入り込むことなんてできない。ずっと、思い続けている相手がいる人に振り向いてもらおうなんて――無理だ。
キナは自分の頭に廻ったその考えに驚いた。そうして初めて、自分の気持ちに気が付いた。気が付いたらもう、話を盗み聞くことが辛くなって、居てもたってもいられず立ち上がった。

「あ……ちょっと、キナ?」

ジュエルが小声で引き留めたが、キナは精一杯の微笑みを作って振り返った。

「ごめん、のぼせちゃいそうだから、先に上がってるね。」

そして逃げるように脱衣所へ戻った。ちくちくと痛む胸を押さえながら。

「……そんなことを言って、誰かにキナをとられても平気でいられるのか?」

ケネスの声がはっきりと響いた。ラズロはその名をはっきりと口にされたことに驚いて、彼を真ん丸な目で見つめた。

「それは……でも……キナが決めた事なら……」

内心本人に聞かれていたらとひやひやしながらそう答えると、ケネスは呆れかえってため息を吐くのだった。

「俺はそんなへたれた奴についてきたわけじゃないぞ。お前はもっと……堂々とすればいいんだ。やってない罪をやってないと証明する。ラズリルに帰りたいから帰る。好きな女を振り向かせる……。こんな状況だからこそ、遠慮なんてしている場合じゃない。キナのこと、好きなんだろ。失いたくないだろ?ならそう言えばいいんだ。」

ざばっ、と水の跳ねる音がした。ラズロが真っ赤な顔で立ち上がったのだった。

「僕……先に出るよ。」

引き戸の閉まる音が響き、しばらくすると、ケネスは夜空に明滅する星を仰いだ。

「ジュエル、いるんだろ?」

空に向かって呼びかけると、露天風呂を仕切る壁の向こうから声が返ってきた。

「いるよ。」
「で、どうだった?」
「……だめ。肝心なところを聞く前に出ていっちゃって。」
「む……」

ケネスの渋く唸る声を聞くと、今度はジュエルが立ちあがった。

「じゃ、今度はあたしがなんとかしてみるね。」
「何か手があるのか?」
「まあね。こういうのは女の方が上手いもんでしょ?」

ふっふっふ、と不敵な笑みが夜風に乗って響き、ケネスもにやりと口角を上げた。

「なんとかしてやりたいもんだな。うまくいくといいが。」
「そうだよね。あたし、ラズロにはキナ以上にいい子、いないと思うもん。あのふたり、ぴったりだよ。」
「そうだな……。キナが来てから、あいつ、すっかり変わったからな……。」

それからケネスはしばらくの沈黙の後、首をかしげた。

「……でも、キナはどう思ってるんだろうな?」
「だから、それよ。あたしにまかせといて。じゃ、あたしももう出るね。」

扉の開閉の音を聞いて、ケネスもようやく、しかし名残惜しげに、風呂を後にするのだった。




キナが廊下に出てきたとき、既にラズロが廊下の長椅子に深く腰掛けていた。濡れた髪を無造作に拭きながら、ぼうっと前の方を見ていたが、引き戸の開く音を聞いてキナを振り返った。
キナは挨拶代わりに微笑んで、ちょうど一人分ほどのスペースをあけて、ラズロの隣に座った。何とも言い難い甘い香りがラズロの鼻先をくすぐり、胸がざわざわして、ラズロは俯いた。

「あ……ラズロ、明日はどこかへ行くの?」

突然声をかけられて、ラズロはいそいで平静を装った。

「…うん、ちょうど明日近海の哨戒に出るみたいだから、のせてもらおうと思ってる。」
「そうなんだ…」
「……一緒に行く?」

キナは目を丸くしてラズロを見て、みるみる顔を赤らめた。

「い…いいよ、行かない。私が行っても足を引っ張るだけだから。」

手と顔を一緒に振りながら断ると、ラズロの表情が少し翳ったように見えて、キナははっとした。

「あ……!必要なら言ってね、行くから。いや……役に立てるかわからないけど……」
「…どうしたの?急に…」

キナがあまりに自分を卑下にするのでラズロは戸惑った。するとキナはぎこちなく微笑んだ。

「だって…ラズロは私たちのリーダーでしょ?」

遠慮がちに告げられたその言葉に、ラズロは現実を突き付けられたような気分になった。やはり今のこの大変な状況で、一人の人間として彼女と親しくなろうなど、できるわけがないのだと。現に彼女は自分を既に従うべき存在として認識しようと努力していて、そこに個人的な感情など入り込む余地もなかった。
彼女は真面目で、素直で、正直だ。個人的に親密になりたいなどと考えている自分が恥ずかしく思えてしまうほどに。

「だから……何でも言ってね!私にできることなら、なんでもするから。」

にっこりと、そう言ってほほ笑んだキナの美しさは、ラズロの目を奪った。

「……うん」

見とれてしまって頭が真っ白になって、ラズロはかろうじて、ぽかんと目を奪われたまま、小さく頷くのだった。



 



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