少年の不安



「あー美味しかったー!」

皆でフルーツを食べ終え、片づけをすると、ラズロ、ケネス、ジュエル、そしてチープーはオベル遺跡に行くと言った。

「遺跡ってどんなところなのかな?」
「さあな。だがまあ、荷物はこれで足りるだろう。」

ジュエルとケネスは自分の荷物を用意してきたようだ。ラズロは二人とチープーを交互に見た。

「皆、準備はできた?」
「ああ、いつでも行けるぞ。」

ケネスが答えると、ジュエルとチープーもうなずいた。

「…じゃあ、行ってくるよ。キナはまだ、ゆっくり休んでて。」

ラズロは気を使ったような優しい声をキナにかけた。

「ありがとう。そっちも、気を付けてね。」

キナが頷くと、ラズロは口元に微笑を浮かべ、サロンを後にした。その後を追いかけていったジュエルは、「新婚さんの会話みたーい」と耳打ちし、ラズロは顔を真っ赤にして言葉をのどに詰まらせるのだった。



4人が出かけていくと、サロンは急に静かになった。するとデスモンドは急に思い立ったように立ち上がり、いそいそと奥の扉へ踵を返した。

「では私は仕事に戻りますので、これで…」

その落ち着きのない様子を見ると忙しいようだ。ルイーズは澄ました顔で冷たいハーブティーを作って、小さな豆菓子を添えてトレイに乗せた。

「悪いんだけど、これ、デスモンドさんのところへ持って行ってくれる?」
「はい。」

キナはにっこりと了承して、ルイーズに渡されたトレイを持って、デスモンドの後を追った。
デスモンドは廊下に出てすぐの扉を開けた、小さな部屋にいた。扉をノックすると、「どうぞ」と返事が返ってきたので、キナは「失礼します」と扉を開けた。
部屋は殺風景ながらも執務室のようになっていて、棚にはわずかばかりの書類がおさまっていた。
デスモンドはキナがお茶を持って来たのだとわかると礼を言い、棚の上に置くように言った。キナは言われた通り、そばの棚に近寄った。そこに書類が散乱していたので、簡単にまとめて避けて、開いた場所にトレイを置いた。そのとき、書類の内容がふと目に入って、キナは手を止めた。棚の前で静かに立ち止まったままでいるキナを不思議に思ったらしいデスモンドが、2、3度キナを振り返って、あのう、と弱弱しい声を出した。

「どうかなさいましたか?」
「あ!…いえ、すみません。」

キナは我に返って振り返ったが、書類を気にするようにぎこちなく視線を泳がせた。それから引き結んだ口を、意を決したように開いた。

「……あの……これ、なんですけど」

キナは棚の上の書類を取って、デスモンドに見せた。

「ここの数字…この行が収入で、その隣が支出、その隣が残高…で、いいんですよね?」
「?ええ、そうですが、よくわかりましたね。」
「えっと……それならここの残高、計算が違うと思うのですが…」
「え!?」

デスモンドは慌てた様子でキナから書類を奪い取り、目を大きく見開いて数字を追った。そして深くため息を吐き、疲れ切った様子で書類を置いた。

「その通りですね……」
「あ、あの、すみません。口を挟んでしまって」
「いいえ、気付いてもらえてよかったです。ちょうど今、数字が合わなくて間違いを探しているところだったのです。」
「そ…そうなんですか…」

デスモンドの意気消沈した様子に、キナはつい罪悪感を感じた。部屋を見渡すと、様々な書類が散乱している。これらを全て、彼一人で処理しているのだろう。キナは少し迷った後で、遠慮がちに申し出た。

「あの…私に何か、手伝えることはありませんか?」
「え?」

デスモンドはようやく身を起こしてキナを見上げた。

「私は戦えないので、何かお役に立てることはないかって思って…事務や経理なら、少し手伝えると思うので…」

ぎこちない言葉でそう言うと、デスモンドはしばらく考えるように沈黙して、おもむろに立ち上がり、棚から書類の束を持って来た。

「この収支の処理はできますか?」
「え?ええと……あ、はい、これなら。」

キナが頷くと、デスモンドは心から安堵したように穏やかな微笑を浮かべた。

「でしたらお願いします。正直もう、私だけでは手が回らなくなってしまっていたんですよ。ああ、助かった…」

差し出がましいか、図々しいかと不安をよぎらせていたキナは、彼のその表情を見て同じように安堵した。

「じゃあ、まずはこの表、作り直しますね。デスモンドさんは少し休んでいてください。」

キナがそう言って冷たいハーブティーを指すと、デスモンドは嬉しそうにグラスへと手を伸ばした。




サロンの扉が開く音でルイーズは顔を上げた。静まり返っていた薄暗いサロンに、にわかに喧騒が流れ込む。

「おかえりなさい。」
「ただいまでーす。」

ジュエルの明るい返事が返ってきて、ルイーズは微笑んだ。

「あら、また新顔さんね?」
「はい。」

ラズロが頷いて道を開けると、女性と少年が進み出てルイーズの前へやってきた。

「リキエと申します。」
「ぼくは、ラグジーです。」
「息子共々、お世話になります。」

リキエが深く頭を下げると、ルイーズはにっこりと優しい笑みを浮かべた。

「あたしはルイーズよ。よろしくね。」

そしてラズロに視線をやって、言葉を続けた。

「どんどん賑やかになるわね。嬉しいわ。」

ラズロはそれに微笑で応え、サロンの中を見渡した。

「あの…キナはどこに?」

部屋で休んでいるのだろうか、と思ったが、ルイーズの答えは全く予想外の物だった。

「デスモンドさんの執務室にいると思うわよ。」
「え?…執務室?」
「ええ。忙しそうだったからそっとしておいたんだけど…もう、結構長いことこもりっきりねぇ。」

顎に指先を添えて考えるルイーズの言葉で、ラズロは踵を返した。

「…僕、ちょっと見てきます。」

そうしてサロンの扉に歩み寄り、ドアノブに手をかけたときだった。ほとんど力を入れていないというのに、扉は思いのほか軽く、そして勢いよく開いたのだった。驚いて目を丸くした先に、同じように虚を突かれた顔をしたキナが、ぽかんとこちらを見上げていた。

「わ…びっくりしたぁ。おかえりなさい。」

ふわっと笑顔を浮かべたキナに、ラズロはまだ動揺を隠せず、ぎこちない笑みで頷いた。

「キナ、何してたの?」

その後ろから、ジュエルが声をかけた。キナはサロンに入ってきて、ジュエルの方へ歩いていきながら答えた。

「ちょっと、デスモンドさんのお手伝いをしてたの。…あ、初めまして。」

キナはリキエとラグジーに気が付いて、挨拶を交わした。それで、この話はうやむやのまま終わってしまった。




王国の哨戒船は自由に使っていいとリノから言われていたラズロは、ジュエルとケネスを連れて夕方から港へ様子を見に行った。ついでに、明日さっそく使わせてもらえるか確認してくるのだそうだ。
キナはルイーズの手伝いやデスモンドの手伝いをしながら過ごした。洗い物を済ませた時、ルイーズがあっと声を上げた。

「そうだわ、お砂糖を切らしてたんだったわ。すっかり忘れてた。困ったわね…。」

キナは布巾で濡れた手を拭き、快活に答えた。

「私、今から買ってきましょうか。」
「え?でも、もう暗くなるわよ。危ないから、あたしが明日行くわ。」
「大丈夫ですよ。ほら、ランタンも持っていきますし、すぐ近くですし。」
「……そう?まあ、夕食にも必要だしねぇ…じゃあ、お願いしようかしら…。」

ルイーズは少し心配そうにしながらも、籠とお金を用意して、キナに持たせた。

「くれぐれも気を付けてね。魔物を見かけたら近づいちゃだめよ。怪しい人にもついてっちゃだめだからね。」
「もう、ルイーズさん、私子供じゃないんですよ?大丈夫です。じゃ、行ってきます。」

キナは苦笑しながらランタンに火を入れた。サロンを出て、薄暗い洞窟の中を、ランタンの淡い光を頼りに抜けると、既に外は薄暗くなっていた。窓ひとつない洞窟内で過ごしていると、時間の感覚がわからなくなる。キナは少し駆け足で崖道を進んだ。

何の問題もなく王宮までやってくると、キナは町の方へ向かって階段を下りた。ルイーズから教えてもらった店は、ここからそう遠くない場所にある。階段を下り、広い道を通って目当ての店を見つけると、キナは安堵した。店がまだ営業していることを確かめて、古い引き戸を開く。そして、薄暗い店内へと足を踏み入れた。


視界の端を横切った少女に、ラズロは一瞬目を引かれた。見覚えがあったのだ。そして小さな道具屋へと入って行く少女の後姿は、まぎれもなくキナだった。
ひとりで来たのだろうか。だとしたら、帰り道は危険だろう。ラズロは夕闇に染まり始めた空を仰いでそう思った。
キナはほどなくして店を出てきた。腕に提げている籠に、紙包みが収まっている。キナは安堵したような顔で引き戸を閉めると、少し辺りを見渡した。まだ道をよく覚えていないのだろう。自分がここにいてちょうどよかったと、ラズロは少女の方へ足を向けた。
そのとき、キナの傍にふいに近寄ってきた若い男が、馴れ馴れしい態度で手をあげたのだった。

「こんばんは!ひとり?」

キナは向こうを向いていて、どんな顔をしているかはわからない。しかし、突然声をかけてきたその男に戸惑っているのは明らかだった。キナが何も答えないうちに、男は言葉を続けた。

「それ、重そうだね。持ってあげるよ。」
「え?いえ、大丈夫です。」
「でももう暗くなるし。家まで送って行くよ。あ、見ない顔だけど、旅行者?じゃ、宿かな?」
「えっと……」

キナの細い脚が一歩後ろに下がったのを見て、ラズロは意を決して彼女の元へと向かった。

「キナ。」

ラズロが声をかけると、キナは振り返った。そのとき、彼女の顔に笑顔が浮かんだのを見て、ラズロはじわりと胸が熱くなった。

「あれ…連れ?ごめん、ごめん。じゃ、またね。」

男はばつが悪そうに、ラズロとは目を合わせずに逃げるように立ち去った。

「ラズロ。すごい、偶然だね。」

キナは曇りのない笑顔でそう言った。ラズロは思わず脱力してしまった。

「……キナ、一人で来たの?」
「そうだよ?ラズロこそ、ジュエルとケネスは?一緒じゃないの?」
「二人は先に帰ったよ。僕だけ王宮に呼ばれて…。って、それより、一人で来たらダメだよ。危ないんだから…」

ラズロがそう言うと、キナはきょとんとして、澄み切った瞳でラズロを見上げた。

「どうして?この国の人たち皆親切で、危なくなんてないよ。さっきもね、お店でたくさんおまけもらっちゃったし、あの人も送ってくれようとしたし……」

キナは先ほどの男が立ち去った方をちらりと振り返り、それからまたラズロを見上げてはにかんだ。

「でも、あの洞窟のことを知られちゃまずいもんね。ちょっと、どうしようかと思っちゃった。」

フフッ、とキナは笑うと、くるりと踵を返した。彼女の無邪気さそのままのように、真っ白なスカートの裾がふわりと揺れた。

「じゃ、帰ろうか。道、こっちで合ってるよね?」
「あ…ちょっと待って。」

そう言って歩き出すキナの後を、ラズロは慌てて追いかけた。立ち止って振り向いたキナの手から、包みの入った籠を抜き取る。少しだけ触れた手の柔らかさに胸が高鳴ったが、ラズロは平静を装った。少し戸惑った顔でこちらを見上げたキナに、ラズロは有無を言わさず短く言った。

「持つよ。」

するとキナは美しい笑顔ではにかむのだった。

「ありがとう。」

キナは何もわかっていない。店の主人がおまけをつけてくれたのだって、先ほどの若い男が声をかけたのだって、純粋な親切心からではない。キナが美人だから、下心があったからだ。ラズロは煮え切らない思いで唇を引き結び、ため息をこらえるのだった。



 



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