001 海から来たもの
朝を迎えたラズリルは、いつもより少し騒がしい。
カイがグレンの食器を下げて厨房に戻ってくると、フンギは忙しそうに手を動かしながらすまなそうに眉を下げた。
「ああ、カイ、ありがとう。悪いんだが、それも持って行ってくれるか。」
それ、と彼が顎で指したのは、調理台の片隅に置かれた小さなトレーで、人参とジャガイモが少しばかり入った質素なスープと、柑橘物のジャムを練りこんだパンが2きれほど載っていた。これを食す人物に心当たりのなかったカイは、フンギに視線を返した。
「医務室に頼む。」
フンギはそれだけ言って、自分の仕事に戻った。
カイは下げてきた食器とそのトレーとを持ちかえて、厨房を出た。急な怪我人でも出たのだろうかとぼんやり考えながら中庭を通り、隣の棟にある医務室を目指す。
医務室のある西棟は、なんだか騒がしかった。3人ばかりの騎士団員と騎士団付きの医師が、ひとりの民間人である初老の女を取り囲んでいる。皆困惑したような顔で言葉を交わし、しきりに首をひねっていた。
「あの」
カイはそこへ静かに割って入った。
「食事を持って来たのですが」
「ああ。じゃあ、中に頼む」
医師に促され、医務室に入ると、奥に向かって長く伸びる部屋の両側にベッドが並んでおり、その右手前のベッドに、若い女性がぼうっとした面持ちでいた。
齢は自分とそう変わらないくらいではなかろうか。ぴったりとした白い半袖シャツを着ていて、白く細い腕が露わになっている。筋肉などほとんどない、弱弱しげな腕だった。
俯き気味の横顔は、柔らかそうなウェーブがかかった黒髪の間から見えるだけでも、整った、可愛らしい容姿だとわかる。カイが近づくと彼女は気配を察して顔を上げ、カイを見た。顔つきは予想していたよりも少し幼く見えた。が、それは彼女の人種特有のものかもしれない。とにかく、この群島諸国の人間ではなさそうだ。
とにかく挨拶をすべきだろう。と、カイが口を開くより前に、彼女が言葉を発した。
「カイ!」
ごく自然に、よく知っているような様子で、彼女はカイの名を口にした。カイは驚くあまり言葉を失った。目を瞬いていると、後ろから、先ほどまで廊下で喋っていた女と騎士団員と医師とが、どやどやと部屋に入ってきた。
「今、何か言わなかったか?」
詰め寄ってきた騎士団員に圧されながら、カイはぽつりと答えた。
「僕の…名前を……」
「お前の名前?」
全員、顔を見合わせる。
「知り合いなのか?」
「いえ、まさか。」
慌てて否定しながら彼女を見ると、混乱する面々を見上げて不安そうに目を瞬いている。その顔を見て確信する。やはり、初対面だ。心当たりすらもない。だがカイは見るからにか弱そうな彼女が不安を滲ませているのを見て、気の毒に思わずにいられなかった。
「…とにかく、食事を」
そう言って彼女の前にトレーを置き、食べるように勧めた。彼女はおそるおそる、スープに口をつけた。
「この子、今朝がた、街の北の砂浜に倒れてたらしい。」
騎士団員の一人が、気を紛らわせるように説明を始めた。
なんでも、普段船もつけないほど小さな浜辺に、彼女は一人で倒れていたらしい。その浜辺は、街の初老の女、シトラが夫と住む家の目の前にあり、つまりは彼女が第一発見者という事らしい。
発見したとき、女性は気を失っていて、シトラは町を巡回していた3人組の騎士団員に助けを求めた。そうして、素性も事情も分からないまま、女性はここへ運ばれてきたというわけだった。
「ひとことも話さないんだよ、彼女。」
「質問しても、首をかしげてばかりでな。」
「だからさっき、やっと喋ったと思ったんだが…。」
騎士団員たちは口々に言って、カイを疑わしげな目で見た。
「本当に知り合いじゃないのか?」
「知りませんよ。本当に。…名前も、聞き間違えたのかもしれません。突然だったから」
カイは言い訳のようなことを言いながら、本当にそうかもしれないと思い始めた。女性はパンをちぎって食べている。食欲はあるらしい。顔色も悪くなく、元気そうだ。もくもくと口を動かしている。
「体調には問題ない。むしろ、良いくらいだ。ほんの少し、貧血気味だが。」
医師は不思議なことであるかのようにそう言い、唸った。
「砂浜に倒れていたというから、漂流してきたかと思ったが、健康状態を見るとそうは思えない。至って健康なんだ。怪我1つしていない。」
「近海で船の事故…というような報告も、今の所ない。」
騎士団員の青年がそう付け加えた。つまり、彼女がどこから来たのか、皆目見当がつかない、と言いたいのだろう。
「せめて何か話してくれればなぁ。」
「カイ、お前、何か質問してみろよ。お前が来たら、初めて口を開いたんだ。お前になら何か話すかもしれん。」
先輩騎士にそう言われては仕方ない。
「わかりました。」
カイは頷いて、パンの最後の一切れを飲みこんだ彼女に向き直った。
「あの…」
呼びかけると、彼女は茶色い瞳でカイを見上げた。
「体調は、どうですか?」
「……。」
「…君の名前は?」
「……。」
彼女はしばらく困ったように黙り込んでいたが、やがて、躊躇いがちに口を開いた。
『…あの…言葉がわからないんです。ごめんなさい。』
彼女が発した言葉は、カイたちにとって初めて聞くものだった。
「なぁ、なんて言ったんだ?」
「さぁ…俺は初めて聞く言葉だったが…」
「赤月…いや、違うな。ファレナ…とも少し違う。」
「顔立ちは、赤月の人間と似た雰囲気だが…」
「赤月の言葉は少しわかるが、この子の言葉とは全く違うぞ。」
3人の騎士たちが一斉に喋り始めると、彼女は驚いたように怯えた顔をしてカイを見た。自分は何かまずいことをしてしまったかと竦んでいるようにも見えた。
「あの…彼女、これからどうなるんですか?」
カイが尋ねると、先輩騎士たちはぴたりと会話をやめた。
「さあなぁ、一応は、グレン団長の意向で遭難者の保護という形になっているが…」
「言葉も通じないんじゃあ、どうしたもんかな。」
「運が良けりゃ、伯爵様が御慈悲で引き取って下さるかもしれんなぁ。カイ、お前のようにな。」
カイは黙ってうつむいた。気を悪くしたわけではない。ただ、幼い頃孤児であった自分をフィンガーフート伯が引き取り、今日まで面倒を見てくれたことは、島の中でも有名な話であり、「感謝をすべきだ」、「感謝はすべきだが、小間使いのように使われて可哀そうだ」などと、周りから色々な意見をぶつけられる話だったため、カイはつい黙り込む癖がついていた。
ちょうどその時、鐘が鳴った。訓練の始まりの合図だ。
「おお、カイ、訓練の始まる時間だろう。食器は私が下げておくから、おまえは早く行きなさい。」
医師の男がそう言うので、カイは言葉に甘えて礼を言い、踵を返した。
「カイ?」
その背中を、不安をにじませた声が引き止めた。振り返ると、彼女が声のとおり不安を浮かべた顔で自分を見上げていた。まるで置いていかれる子供のようだ。と、カイは思った。しかし先ほど会ったばかりの彼女が、それほどまでに自分を頼りにするとは思えなかった。
「今、カイって言ったよな?」
騎士の一人が言うと、他の2人の騎士と、医師の男と、それまで黙っていたシトラも頷いた。
「やっぱりお前の知り合いなんじゃないか?」
「…いえ…僕は…」
彼女の顔をまじまじと見る。しかしやはり、見覚えが無い。
「…やっぱり、知らないと思いますが…」
「でもお前の名前を呼んだしなぁ。」
全員で首をひねる。しかしすぐに鐘が鳴ったことを思い出して、カイは慌てて医務室を出た。しかし最後に振り返った彼女が、すがるような目で自分を見つめる目に、いつまでも後ろ髪を引かれるのだった。
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