001


俺は天使を見たことがある。



あれはまだ小学生の頃の春。

「御幸ー!ボール拾ってきてくれ!」
「え〜〜。…へーい」

ボールが転がっていったフェンスの向こう側を指して怒鳴る先輩に気だるい返事を返し、俺はボールを追いかけて練習場を出た。
コロコロ転がっていく白いボールはやがて速度を落として、真っ白な小さな靴にこつんとぶつかって止まった。その靴を履いている細い脚…白いハイソックス、白い肌、白いレースのスカート…そして振り向いた女の子の、宝石みたいな青い瞳が俺を見た。
真っ白な肌にバラ色の頬、大きな丸い瞳に赤い愛らしい唇…こんなに可愛い女の子を見たのは初めてで、泥だらけでぶかぶかのユニフォームを着ている俺はぽかんと口を開けたまま立ち止まった。
女の子は長い亜麻色のふわふわした髪を耳にかけ、足元のボールを拾い上げた。そして歩み寄ってきて、俺にそのボールを差し出した。

「あ…。…ありがと!」

戸惑いながらボールを受け取った。砂だらけのボールを握る小さな白魚のような手に触れてしまわないよう、気を付けた。

「行くわよ。」

少し離れたところに立っていた綺麗な女性…たぶんきっと、その女の子の母親が、女の子をやさしい声で呼び、女の子は踵を返して母親に駆け寄っていった。
その去っていく背中が…真っ白なレースがひらひら揺れて、亜麻色の髪がふわふわ揺れて…まるで天使みたいで、俺は女の子が車に乗り込んで姿が見えなくなるまで、見惚れていた。

「御幸ーー!ボール!!」
「あ…はいはあーーい!!」




***




「…それでよ〜、亮さんの怪談話を信じて沢村のヤローが一晩中怖がりやがって…」

そこまで愚痴ったところで大あくびをした倉持。ふうん、とどうでもよさそうに…実際どうでもよく相槌を打つと、ぽん、と倉持の肩に誰かの手が乗った。

「去年の誰かさんと一緒だね。」
「りっ…!亮さん…」

ふっふっふ、と倉持をからかって、亮さんは俺を見た。

「御幸はそう言うの信じなさそうだからからかいがいないけど。」
「むしろ信じる奴いるんすか?」

亮さんとニヤニヤ顔で示し合わせ、倉持を見ると、倉持は俺を睨み返しながら舌打ちをした。

「御幸は占いとかも信じなさそう。」
「あ〜信じないっすね。ゲン担ぎとかは別ですけど」
「自分に都合のいいものしか信じないってコトだね。」
「はっはっは!嫌な言い方しますね。」
「沢村の純粋さを見習ったらどう?」
「ヒャハハ。アイツガキの頃に手のひらサイズの小さいおじさんを見たって言ってましたよ。」
「そういう都市伝説は本当にあるけどね。それに、アイツバカなのにそんな嘘吐くかな?」
「何か見間違えたんじゃないですか?」
「やっぱりお前は現実的だね。」

つまんないな、とかぶりを振った亮さんに、俺はふと思い出したことを口にした。

「でも俺、天使なら見たことありますよ。」

その直後、亮さんも倉持もぎょっと息をのんで俺を見た。

「何すか?そんなに驚いて…。」
「いや、お前がそんなこと言うなんて意外で。」
「嘘じゃないですよ。」

天使。…じゃないかと思うほど、可愛い、綺麗な女の子だった。今ではもう、おぼろげにしか思い出せないけど…あの時はっきりと俺を見た、あの瞳の青さだけは今も思い出せる。きっと今頃、すげーキレーな子に育ってるんだろうなぁ…。

「天使ってあの天使?」
「ひとつしかないでしょう。」
「羽が生えてて頭の上に輪っかがあったのか?」
「あったよ。」

ふわふわ揺れる亜麻色の髪にはキラキラと光る輪があって、翻ったレースの服は真っ白な羽のようだった。

「……。」
「……。」
「何すかその疑いのまなざしは。」
「冗談に聞こえないところが逆に白々しくてね。」
「ニヤけた顔で言われても説得力ねぇんだよ。」
「なんだよそれ(笑)」

「えっ!!東条、天使と同じクラス!?」

少し前を歩いていた1年軍団の中からそんな声が漏れ聞こえて、俺も倉持も亮さんも口をつぐんだ。

「うん、前後の席…」
「マジかよ!?超ラッキーじゃん!!」
「なんか話した?」
「いや、無理無理!」
「何、何の話?」
「東条が天使と同じクラスで席前後だって」
「えっ!?マジか!?」

俺たち3人は顔を見合わせ、1年の軍団に近づいて行った。

「何何、何の話?」
「だから〜…、…えっ!!せ、先輩」

1年たちはぎくりと青ざめ、慌てて挨拶してきた。

「天使って?」
「え、A組の…」
「女子です…」
「可愛いって噂の…」
「花城さんっていう…」
「女子が天使って呼んでて…」

倉持のひと睨みでどんどん情報を吐いていく1年たち。隣で亮さんは腕組をしてふうんと相槌を打っている。

「そんなに可愛いの?」
「まあ…」
「ハイ…」
「可愛い…よな」
「うん…」

1年たちはちらちらと目配せをし、顔を赤くしてぎこちなく笑った。

「へぇ〜〜〜。御幸!今日見に行こうぜ」
「えっ」

倉持の言葉を聞いて、1年…特に東条がぎょっとして青ざめたけど、俺はにんまりと笑って「いいね」と頷いた。



***



昼休み、俺は早速倉持と1Aの教室を訪れた。ちょうど廊下で金丸としゃべっていた東条を見つけ…捕まえ、噂の女子はどこだと詰問した。金丸は気の毒そうな目で東条を見ていた。東条は教室の中を見て、すまなそうに俺たちを振り返り、「今はいません」と言った。

「いないだぁ〜?ドコ行ったんだよ?」
「さ、さぁ…。食堂か、購買か…」
「え〜〜マジでいないのかよ?いつ戻ってくる?」
「わかりませんけど…あ、でも花城さんと仲いい女子が…」

東条が言いかけながら廊下を見渡して、はっ…と硬直し、じわじわと顔を赤くした。何事かと俺と倉持がその視線の先を振り返って見て……俺も息をのんだ。一瞬、目の前が真っ白になって、何も目に映らなくなった…そこに立っている女の子以外は。

「……。」

そのあまりにも綺麗な女子生徒は…天使、という呼称がこれ以上ないくらいぴったりとあてはまった。いや、天使だった。間違いない。おぼろげだった記憶が、今はっきりと頭の中によみがえってきた。数年前のあの春の日…ボールを拾ってくれた、あの天使…。あの子だ…。絶対、間違いない。
天使は青い瞳で静かなまなざしを、東条、倉持、そして俺に向け、また東条に戻した。

「あ…花城…さん」

東条がそう呟いて、彼女が噂の女子生徒だと分かったと同時に、自分の名前を聞き漏れて立ち止まり、俺たちを不思議そうに見ているのだと分かった。何か用なの、と尋ねるような目が、静かに東条を見つめ続けた。

「え、えっと…こ、この人たち…野球部の先輩で」
「…うん」
「……えーっと…」
「何?」

そういえば東条もまともに話したことはないんだったと思い出し、ろくな紹介は望めないことを察した。倉持を見ると、倉持はまだぽーっと花城に見惚れていて、何も頭に届いていない様子だった。

「噂どーり可愛いね、花ちゃん♡」
「……。」

花城は一瞬唖然と俺を見上げ、東条に尋ねた。

「誰?これ…」
「はっはっはっ!これ、って!俺は2Bの御幸一也っていいまーす」
「…そうですか。さようなら。」
「はっはっはっは!つれないねぇ!花ちゃんサイコー♡」
「その呼び方やめてください。」
「じゃーなんて呼べばいい?下の名前なんていうの?」
「呼ばなくていいです。」
「いーねいーね、花ちゃん!気に入ったぜ♡」

花ちゃんは心底嫌そうに顔を顰めて教室に入っていった。

「…何してんだテメェは!」
「いて」

背中になかなか厳しいキックを食らい、俺は振り向いて倉持に口を尖らせた。

「何すんだよ。あぶねえだろ〜」
「テメーがふざけてるからだろ!花城さん困ってんじゃねーか…!」

倉持は俺を怒鳴りつけながら、教室の中の花ちゃんをしきりに意識してチラチラと見た。しかし花ちゃんはこちらに背を向けて友達と話をしていた。

「何いいカッコしようとしてんの?花ちゃん見てねーぜプクク…」
「う…うるせえ!!おい東条!!」
「はっ、はい!」

金丸に大丈夫かと声をかけられていた東条が倉持の形相にビビって肩をすくめた。

「あの子に俺のコト良く言っといてくれよ」
「え…。…え!?」
「頼んだぞ!じゃーな」
「いや俺も全然話したこと…」

ないんですけど…と青ざめる東条の肩に、慰めるように手を置く金丸。しかし倉持はさっさと踵を返して行ってしまった。

「はっはっは、悪い先輩だな〜。」

俺はそう笑って、教室の中に身を乗り出す。

「またね〜花ちゃん♡」

フン、とそっぽをむく花城にまた頬を緩ませながら、俺も教室に戻ることにした。
まさかこんなところであの子に再会できるなんて…。あっちは俺のこと覚えてないだろうけど…確信めいたものが俺の胸にはあった。あの子と俺の間には何かあるって。きっと、運命というものがあるなら、これは…きっとそうだ。いや、そうしてみせる。…俺が運命にしてみせる。

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