001

始業式から約1週間。

まだ肌寒い春の朝。だけど日なたに出ると、柔らかな暖かさが肌を照らす。

「あの…」

そんな学校の中庭を倉持と横切っていた時、背後から綺麗な声がかかり、俺たちは振り向いた。

「…落としましたよ」

そこにいた女子生徒に、俺は息をのんだ。
…あまりにも美人で、可愛くて。真っ白な肌にくっきりと映える青い大きな瞳が印象的で、どこか神秘的な雰囲気さえ感じる透明感に惹きこまれる。
女子生徒が白魚のような手で差しだしているのは、校章入りのボタン。咄嗟に自分のブレザーを見ると、ふたつ目のボタンがあった場所から糸だけが垂れていた。

「え…あっ、ほんとだ。…ありがとうございます」

慌ててボタンを受け取ろうと手を伸ばして、ほんのりと桜色に色づいた小さな手のひらからボタンを摘み上げようとして、その手のひらがまるで壊れ物であるかのように、不用意に触れないように細心の注意を払って、それでもボタン越しに沈む手のひらの柔らかさを感じて、俺は酷く緊張した。
そして視界にふと映った女子生徒の上靴の色を見て、相手が1年だと知った。よくよく見れば女子生徒の制服は真新しく、新入生であることは一目瞭然だった。

…咄嗟に敬語使っちゃったよ。ちょっと気恥ずかしくなりながら、ボタンを摘み上げた時。俺の手の甲に、真紅の点が舞い降りてきて、ぴたりと止まった。

…てんとう虫。

「うわっ!」

虫嫌いの血が騒ぎ、反射的に手を振って、それでも飛ばずに手の甲にしがみつき、もぞもぞとうごく感触に鳥肌が立った。また手を振り払おうとすると、その手を突然女子生徒が掴んだ。
柔らかくてすべすべした手のひらに掴まれてぎょっとした。女子に手を握られることなんて、ないし…。しかもこんな可愛い子。
女子生徒はじっと掴んだ俺の手を見つめると、指先でそっとてんとう虫をすくいあげ、興味を失ったように俺の手を離した。そして指先を這う小さな真紅に、ぷっくりとした赤い唇を寄せて、ふっ、と静かに息を吹きかけた。

真紅が白い春の空に舞い上がるように飛んで行った。その詩的な光景に、俺はつい見惚れた。

「……。」

女子生徒は俺をちょっと振り返り、小さく会釈をして、踵を返して歩いて行った。その背中が校舎内に入って見えなくなって、俺はようやく、思い出したように息を吐いた。
…なんつー美人。とんでもねぇな…

「おい。いつまで見惚れてんだよ」

背中に蹴りを喰らって、俺はそれまで倉持の存在を忘れていたことを思い出した。

「いや〜…めちゃ美人でびびったわ」
「ヒャハハ。お前でもそんなことあんのか。いつも人をおちょくってるくせに…」
「そりゃ俺だって男子高校生ですから。」

あっそ、と倉持は言って、歩き出しながら言葉を続けた。

「でも確かにスゲー美人だったな…1年だよな。」
「そうみたいだなぁ」
「もしかして今のがアレか?」
「なんだよ?」
「噂になってるじゃん。1年にすげー可愛い子がいるって」
「…そうなの?」

校舎に入り、階段をのぼりながら倉持は呆れたように俺を小突いた。

「何だよ知らねーのかよ。」
「知らねーよ…お前は何で知ってるんだよ。」
「昨日純さんたちが言ってた」
「お前も昨日まで知らなかったんじゃん」

教室に戻り、自分の席へ向かう俺にくっついてくる倉持。

「確か東条が同じクラスだとかで…」
「へぇ」

「おい!御幸、御幸!」
「マジかよお前!」

教室に駆け込んできたクラスメイトの男3人が、血相を変えて俺に詰め寄ってきて、俺も倉持も顔を見合わせた。

「な…何?」

「玉城さんと知り合いなの!?」
「さっき何話してたんだよ!?」

「…は?」

話が見えず、興奮気味のクラスメイトを前に顔を引きつらせることしかできない俺。

「誰?玉城って…」
「さっき中庭で話してただろ!1年の玉城光ちゃんと!」

え…。えっと、それってまさか…。

「…さっきの女子?」

倉持を見上げて呟くと、倉持も引きつった顔で頷いた。

「そうだよ!何話してたんだよ。」
「何って…落し物拾ってもらっただけだけど?」
「落し物!?」

男達ははっとして顔を見合わせた。

「…その手があった!!」
「おい待てよ!あんまやりすぎるとさすがにバレるだろ」

やいやい言い合いながら去っていくクラスメイトを唖然としながら見送って、また倉持と顔を見合わせた。

「なんかすげーな…あの子そんな有名なの?」
「…みたいだな」




***



『明日からも晴れの日が多く、暖かくなり、春らしい陽気になりそうです!今日も春の陽気に誘われて、こちらの庭園ではモンシロチョウやてんとう虫の姿も見られました!かわいいですね〜!』

お天気おねえさんの明るい声が流れ、テレビにはちょうちょやてんとう虫がドアップで映し出されている。食事時に虫映すなよ、なんて思いつつ、頭の片隅では今日出会った玉城光という女の子が、そっとてんとう虫に息を吹きかけたあの光景を思い出して、胸の奥がもやもやしていた。
可愛かったな〜…あの子。皆が騒ぐのもわかる…。

『ところでみなさんは、てんとう虫についてのこんなジンクスを知っていますか〜?』

ジンクス?
ご飯を口に運びながらテレビを見上げると、お天気おねえさんが元気いっぱいの笑顔で話し続けている。

『てんとう虫はさまざまな国で縁起のいいものとされていまして、特に恋愛にまつわるラッキージンクスが有名なんです!それがこちら…。』

お天気おねえさんの身振りを合図に、後ろのパネルの映像が切り替わった。

『男性と女性が同時にてんとう虫を見つけた時、その二人の間に愛が芽生える。』

…え?

『素敵ですよね〜!私にもそんな出会いを運んできてくれたらいいな〜と思います!それでは全国のお天気を…』

…いやいやいや。ただのジンクスだって。タイムリーすぎてちょっとドキッとしたけど、そう漫画みたいに都合よくいくわけもないし。
だけど…また会えたらな、という気持ちははっきりとあって。

相手のことは何も知らないのに、あの子の存在は、あの一瞬で、俺の中にはっきりと刻まれてしまったのだった。

ALICE+