春。
まだ少し肌寒い風。あどけない顔の新入生たち。浮足立った学校内の空気。
俺はなんだか落ち着かない気持ちで、職員室に向かっていた。大した用事ではないけど、なんとなく何かしたくて。
早く放課後になって、練習に行きたい。ネクタイは少し息苦しい。
職員室へ向かう廊下は人気が無くて薄暗く、歩いているのは俺だけだった。
きゅ、きゅ、きゅ、と上靴がリノリウムの床と擦れる音が響く。ふわ、と柔らかな風が横から入ってきて、その心地よさに横を見ると、開いている窓の外が見えた。中庭の桜の木は満開で、その花びらが風に乗って廊下の中にまで入って来ていた。
――ひらり、と目の前にまた一枚。
俺は無意識に手を伸ばし、ぎゅっ、とその花びらを目の前でつかみ取った。
その向こうに、誰かが歩いて来るのが見えて、にわかに恥ずかしくなって握りこぶしをそのままポケットに突っ込み、その人を見た。
……可愛い。
ぱっちりとした、澄んだ青空のような瞳が俺を見ていた。
肌は雪のように白く、頬はバラ色で、唇は色づいた果実みたいに赤くて甘そうで。ふわふわの長い亜麻色の髪は彼女の華奢な体を包み飾る絹糸のように繊細に輝いていて…。どこまでも綺麗なその子は、1年の証であるつま先が赤い上靴を履いていた。
俺はその子に目を奪われたけど、見ず知らずの新入生の女子に声をかけることなんてできず、その子はそのまますれ違い、歩いて行ってしまった。
…恥ずかしいとこ見られたな、俺…。
***
「東条!お前のクラスのあの子さ…」
「え?あぁ…」
「何何?誰?」
「ホラあの…」
「あ〜!可愛いよな」
夜、1年達が自主練の合間に盛り上がっているのを階下に眺めながら、寮の2階の通路でスポーツドリンクを飲む。1年達、もうすっかり打ち解けたみたいだな…毎年ホームシックになるやつもいるけど、今のところ大丈夫そうだし。
それに…あの輪の中心にいる東条は松方シニアの元エース。気になっていた選手だ。自主練にも熱心だし、これからが楽しみだな。
「東条仲良いの?」
「いやいや!話したことないし」
「でも席近いんだろ?」
「一応…前後だけど」
「うわ〜いいなぁ〜!!」
「いやでも話せないって。すごい目立つしさ…」
楽しそうなこって。寮生活にやっと慣れてきた頃にはすぐ夏が近づき、地獄の合宿が始まる。ここでの生活はあっという間なんだぜ…せいぜい今のうちに楽しんでおくんだな。なーんて…
「なにニヤけてんだテメェ」
「はっはっは」
通りがかった倉持が気味悪そうに俺を睨んで、騒いでいる一年に気が付いた。
「いや東条ならいけるっしょ」
「松方シニアの元エースだし!」
「イケメンだしな〜」
「いやいや…はは」
「お〜ま〜え〜ら〜〜〜」
「!!!??」
倉持が気配を消して、ゆらりと1年たちの背後に近づいて脅かすと、そいつらは期待通り飛び上がるほど驚いていて、俺と倉持を笑わせた。
「あっ…倉持先輩…お、お疲れ様です!!」
「おう、で、何の話だ?」
「い、いや…その…」
1年たちは口ごもり、顔を見合わせて黙り込む。
「カワイ〜子の話だよな?笑」
面白がって口を挟むと、倉持は「何ッ!?」と目の色を変えて食いついた。
「1年にカワイイ子がいんのか!?」
「あ…」
「まあ…」
「ハイ…」
「ハッキリしろや!」
倉持は東条の肩を抱き込んでがっちりとホールドした。
「なんて子だ!?」
「えーと…」
東条はしばらくなやんだ様子で濁したが、やがて諦めたようにその名を口にした。
「花城…って子です」
「花城!?下の名前は!」
「ひ…光、です」
「花城光ちゃんかあ〜」
倉持は用済みとばかりに東条を解放し、浮足立った。
「よし!御幸!明日見にいこーぜえ」
「えっ…!!!」
「はっはっは、さんせーい♡」
「ええええ…!?」
慌てる東条と憐れむ1年どもを置き去りに、俺と倉持は珍しく意気投合して親指を立てた。
***
翌日の休み時間、俺と倉持は早速東条のクラスへ赴いた。
「東〜〜条〜〜〜!!」
目つきの悪い倉持がバカでかい声で廊下から呼ぶと、怯えるクラスメイト達に心配されながら東条がおそるおそるやって来た。
「お、お疲れ様です」
「おう!で、例の子はどこだ!?」
「あの…静かに…」
東条は教室を振り返り、視線を動かした。
「あそこの…本を読んでる子ですよ、後ろから3番目の…」
見ると、確かにそこにはきれいな姿勢で文庫本を読む女子生徒がいた。長い髪に隠れた顔はここからでは見えないが、そのきれいな髪、形のいい頭、伸びた背筋、白魚のようにほっそりとした手、長くて華奢な足…。顔が見えずとも美しい佇まいに、俺も倉持も少しの間言葉を失った。
あんな子が教室にいたら、ちょっと緊張するかもしれない。
というか…昨日廊下で見た、あの女子に似ていて、一瞬頭をよぎった。
「…顔見えねーな」
倉持が残念そうにつぶやく。東条も遠慮がちに笑い、彼女に声をかけられるほどの関係性はないらしい。
俺は静かに、息を吸い込んだ。
「…花城光さ〜〜ん!!!」
倉持と東条がぎょっとして俺を見上げた。そして、はじかれたように本から顔を上げ、こっちを向いた女の子。
…やっぱり、昨日の子だ。それに、やっぱり、ちょっと信じられないくらいの美女だ。
「…な、な、何してんだお前ッ!!!アホか!!!」
「いって!」
直後に、倉持からきついタイキックを食らい、俺はよろけた。
「だってこっち見てほしかったからさ〜…突然ゴメンね花城さん♡」
手を顔の前に立てて謝ると、戸惑った顔で俺たちを見つめ、少し顔を赤らめてうつむく花城さん。あんなに美人なのに、結構うぶなのか…かわいい。
「クソメガネ!迷惑だろーが!!す、すみませんね花城さん…!」
「なんだよ、お前もさっき大声出してたのに」
「うるせえ!!そういうことじゃねえ!!」