001


春――。

『次は、新入生代表の挨拶です。』

一人の女子生徒が登壇する。静寂の中に、少しの咳払いと、眠気を誘う春のぬくもりと、ひとりぶんの小さな足音が響く。
女子生徒はマイクの前に立ち、三方に丁寧にお辞儀をして、パリパリと乾いた音を立てて紙を胸の前に開いた。

『あたたかな春の光に、桜が白く輝く今日、…』

彼女の声は春風のように優しく、軽やかで、甘い。

『…そして、これからの3年間、一日一日を大切に、丁寧に、今日の晴れ渡った青空のように正々堂々と、高校生活という一つの道を歩んでいきます。今、同じスタート地点に立っている私たちは、やがて自分だけの道を見つけるでしょう。どうかその時まで、間違った道を選ぶことのないよう、先生方、ご来賓の皆様、そして先輩方を道しるべとして、歩ませてください。』

彼女は紙の最後の折り目を畳んだ。俺は息を飲んで耳を澄ました。彼女の言葉をひとつも聞き逃さないように。

『…新入生代表、花城光。』

花のお城のお姫様。彼女はすぐに、学校中で噂になった。




***



「俺今日の朝姫見たぜ姫!」

姫。高嶺の花である彼女のことを噂するとき、人は彼女をそう呼ぶ。間違っても騒いでいることを本人に知られたくないのだ。俺の前を歩いていく2年たちの噂話に、俺はこっそり耳を傾けた。

「まじ!?どこで?」
「図書室!駐輪場から見えたんだよ」
「何してた?」
「本読んでた。」
「は〜俺1年この学校にいて図書室なんて授業以外で行ったことねーよ…」
「やっぱ姫だな…」

なんだそれ…。俺は思わず噴き出しそうになったのをこらえた。

「姫って何組なの?」
「A組らしいぜ。東条が同じクラスだって。」
「うっわ…あいつ高校生活の運使い果たしたな。」
「今日見に行かね?」
「何言ってんだよ!んなことしたら騒がれてんのわかっちゃうだろ!」
「姫の平穏な高校生活を乱すな!」
「そ、そっか…ごめん…」

だ、だめだ、笑うの堪えきれねぇ。

「何ニヤニヤしてんだ気持ち悪ィな!!」
「いって!」

倉持から強烈な多いキックが飛んできた。

「暴力はんた〜い」
「るせぇ。その緩み切ったツラを締めてやったんだ」

倉持はそう悪態付きながら、バッグからかわいらしいピンクの花柄の便箋を取り出し、忌々しそうに俺に差し出した。

「…ほら!」
「え?…倉持ごめん、俺お前の気持ちには…」
「なんッ…で俺からだと思った!!アァ!?マジでこれ以上ふざけたらぶっ殺すぞ!!」
「物騒だな〜」
「誰のせいだクソ眼鏡!!」

はいはい、と便箋を受け取り、自分のバッグに滑り込ませた。

「ハァ〜〜なんで俺がテメェ宛のラブレターなんて…」
「はっはっはっは…」
「マジムカつく…」

倉持は時々クラスの女子や他クラスの女子から俺宛の手紙を託される。今年のバレンタインにはチョコまで託され、俺を殺しかねない目つきで寮の部屋に持ってきた。なんでテメェがこんなにモテるんだ、と倉持は毎回言うけど、俺からしたらそんなことをよく頼まれる倉持の人望の方が不思議でならない。こんなに柄悪いのに。

「で…どうすんだ?」
「え?」
「付き合うのかよ?」

差出人を知っている倉持はニヤニヤしながら聞いてくる。さっきバッグにしまう前に、便せんに書かれた名前をちらりと見た。隣のクラスの伊藤さん。チア部で、いつも賑やかな女子グループでつるんでて、男の間では結構可愛いと言われてて、明るくて、女子にしては背が高くて、そんで胸がちょっとデカい。

「いや…」
「え?断んの?」
「まぁ…」
「はー?もったいねぇー。いっぺん付き合っちまえばいいのに」
「なんでだよ。」
「まあまあ可愛いし胸デケェし、いいじゃん。」
「めんどくさい。」
「なんっだそれ…贅沢者。死ね。」
「死にません〜。」




***



その日の昼休み、俺は一人で校舎裏に来た。昼休みに一人で校舎裏に来てください、と手紙に書いてあったのだ。
手紙を倉持に託し、さらに一人でと指定して誰も来なそうな場所に呼び出すとは、かなり慎重だ。俺に断られるかもしれない、断られたら誰にも知られたくない、という伊藤さんの気持ちがなんとなく手に取れるようで、いたたまれなくなった。
校舎の角を曲がり、垣根の間を通って裏に出ると――色とりどりのパンジーが咲く赤茶のレンガの花壇のふちに、女の子が腰かけていた。亜麻色のふわふわウェーブした柔らかそうな髪に、小さくてきれいな横顔が縁取られている…妖精みたいな女の子。花城光。飽きるほど見慣れた何の変哲もないパンジーが特別な花に見えてくるほど、その子がそこに座っている光景は童話のように神秘的で、動揺するほど惹かれた。

「…あ…。」

花城が振り向き、薄いブルーの大きな瞳で俺を見つめ、立ち上がった。どくどくどく、と胸が打つのを感じながら、俺はその子が目の前まで歩いてくるのを、石のように固まったまま見つめた。

「…丹波…先輩ですか?」

甘い果実みたいな赤い唇で、花城が尋ねた。彼女の手には小さな紙切れが握られている。それは切り取ったルーズリーフのようで、不愛想な青い罫線が入っていた。

「…丹波…。」

俺はポツリ、と彼女の言葉を繰り返し、それをやっと理解した。

「…え?丹波!?」

丹波ってあの丹波?丹波先輩?…ってことは…この子、丹波さんが呼び出したってことか!?なんで!?…いや、なんでって、手紙で異性を呼び出すなんて、目的は一つしかないだろう。そう、告白…。
…ええぇ!?丹波さん、花城光のことが好きだったのか…!?ま、まだ入学式から1週間だぞ…意外と行動早いなあの人…。

「あっ…。知り合い…ですか?」

花城は慌てた様子で口元に手を当てた。まだ見ず知らずの丹波さんを思いやるだなんて、なんて人のいい…。

「い、いや。」

俺は咄嗟にそう言って後悔した。別に嘘を吐く必要はなかった。言いふらす気はないと言えばよかっただけのことなのに。この子の前だと、やけに緊張してしまう。

「……。…でも…来ないから、イタズラだったのかも。」
「えっ?」
「私、もう行きます。」

失礼します、と踵を返す彼女の腕を、俺は咄嗟に捕まえた。

「来るよ。」

そういった俺を、彼女は宝石みたいな目でまっすぐに見つめ返した。綺麗だな…ずっと見ていたい。

「そんないたずら、するような人じゃねーし…」
「……。」

ぱちくり、彼女の眼が瞬いて、俺はしまったと思った。手を離し、頭をかく。

「…やっぱり知ってるじゃないですか」
「いや〜…まぁ…。でも、別に誰にも言わねーから!」
「……。」

花城がちょっと疑わしげに俺を見たとき、その後ろの校舎の影に、見慣れた坊主頭を見つけた。

「あ…丹波さん!」

呼びかけると、丹波さんはぎくりとしておずおずと登場した。

「み、御幸…なんで…」
「や〜偶然通りかかって。この子丹波さんが呼びだしたんでしょ?」
「……。」

花城が振り向いて丹波さんを見ると、丹波さんはかわいそうなほど顔を真っ赤に染めた。

「呼び出したんだからちゃんと時間通り来てあげないとダメじゃないッスか〜。この子不安がってましたよ!」
「……。」
「何突っ立ってるんですか。早くこっち来てくださいよ。」
「……。」
「あ!俺お邪魔ッスか?」
「お…お前な…。」

「あ…あの…」

不意に花城が口を開いて、うつむいたまま丹波さんに歩み寄った。そして真っ赤な顔の丹波さんの目の前まで来ると、握りしめていた小さな紙を、丹波さんの胸元につき返した。

「…ごめんなさい。」

そう呟いた花城から、丹波さんは茫然とした顔で紙を受け取る。花城はうつむいたままお辞儀をして、丹波さんの横を通り抜けて行ってしまった。

「あちゃ〜…」

丹波さんがフラれた。しかもよりにもよって俺の前で。丹波さんにとっては最悪だろう。

「…ドンマイっす丹波さん!」
「…お前のせいだろーが…!」
「いや〜それよりももっと知り合ってからの方がよかったんじゃないスか?」
「こ…この野郎…」

「御幸君…、…きゃっ!」

垣根の向こうからやって来た伊藤さんが丹波先輩に気づいて悲鳴を上げた。

「あ…。」
「……。」
「……。」

気まずく丹波さんを見る俺、顔を赤くして困ったように丹波さんを見る伊藤さん、俺たちを見て状況を察したらしく唖然とする丹波さん。丹波さんはちょっと涙目になりながら俺を睨みつつ退散した。

「びっくりした…。今の人って…」
「あー…野球部の…先輩。偶然…」
「あ…。そう、だったんだ…。」

伊藤さんは俺の言葉を聞き、ほっとしたようにはにかんだ。

「それで…。…あの…。」
「…うん」
「…手紙、読んできてくれたんだよね?」
「あぁ…うん」
「…あ、ありがとう…。」
「いや…、」

このやり取りがすでにまどろっこしい。俺は頭をかいて花壇のパンジーを見やり、気を紛らわせた。…花城…綺麗だったな。

「それでね、話…なんだけど」
「うん…」
「…もう…わかってると思うんだけど」
「……。」

伊藤さんははぐらかすようにはにかみながら俺を上目遣いで見上げた。

「…私と付き合わない?」

どこか自信を感じるような態度で、伊藤さんは言った。自分が男に人気があることを自覚しているような…。

「あ〜…。」

俺は低く呟き、悩む態度を見せて無意識にワンクッション置いた。

「…ごめん。」

そしてできるだけあっさりと、ぺこりとお辞儀をした。

「……。」

伊藤さんの顔に動揺と困惑と焦りがにじんだ。顔が赤くなり、目が潤んだ。

「じゃ…」
「え、ちょっ…待って!」

伊藤さんに引き留められ、勘弁してくれよ、と胸の中でつぶやく。

「他に好きな人がいるの?」
「いや別に…」
「じゃあなんで?野球に集中したいからとか言わないよね?」
「え?」
「彼女がいてもいなくても別に支障はないでしょ?そんな言い訳しないでね。」
「……。」
「なんで私と付き合えないの?」

えーと…なんで俺怒られてんの?

「はっきり言っていいよ。本当の理由を教えて。」
「本当の理由も何も…そもそも俺らそんなに話したこともないじゃん?」
「付き合ってから話せばいいじゃん!好きになれなかったらそう言っていいから!」
「なんだそれ…」
「なんで!?男なら告られたらとりあえず付き合うでしょ!」
「いや意味わかんねー…好きでもない奴と…」

言いかけて、やべ、と口をつぐんだ。伊藤さんは涙目で震えながら俺を睨んだ。

「…ヤラせてあげるのに?」
「…は?」
「付き合ったらヤラせてあげる。そう言ってんの!」
「……。」

やべ、反射的に胸を見てしまった。まんざらでもないと思われるだろ!
慌てて顔をそむけたが、伊藤さんは勝ち誇ったように口元に笑みを浮かべた。…バレた…。

「胸触りたい?」
「……。」
「いいよ、触っても。でもそれ以上は付き合ってからね。」
「…やめろって!」

つかまれた手を振り払い、伊藤さんから距離を取った。女コエエ…伊藤さんってこんな奴だったのかよ。

「そんな条件で付き合って嬉しいのかよ?俺には理解できない。」
「……。」
「それに…そんな奴に誘われても嬉しくない。」
「な…」
「じゃあ…もう行くから」

有無を言わせず足早に垣根をくぐると、伊藤さんは追ってこなかった。ちょっと後が怖いけど…しばらくは伊藤さんたちには近づかないようにしよう…。

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