目覚めると、薄暗い部屋。
今は何時だろう、と枕もとのスマホを探そうと手探りすると、やけに硬いシーツとやけに薄い枕のほかに手ごたえがない。
おかしいなと思い目をこすって起き上がると、ここは見慣れないベッドだった。
自分がいつも寝ているベッドの布団と違う。驚いて顔を上げると、部屋の中のどこもかしこも、見たことのない古い石造りの簡素な部屋だった。
まるでヨーロッパのどこかの、昔の建物のような。
これは夢?
確かに私はこういう重厚で自然で素朴な世界観は好きだ。ファンタジーにも通じる雰囲気の、古い石と木でできた部屋。
だけどこの身に触れて感じるシーツは冷たく、かたく、体は現実味をじわじわと味わうようにきしんで痛んだ。
混乱して呆然と放心していると、ギィと音を立てて扉が無遠慮に開き、私は肩をすくめた。
部屋に入ってきたのは中年の女性で、腕に布と白いおけをかかえている。
「あら」
聞きなれない音の声を発し、女性は私のそばに歩み寄ってきた。
「目が覚めたのね。顔色もいいし、よかった」
女性の言葉は私には聞き取れなかった。今までに聞いたこともない異国の言葉だ。
戸惑って言葉に詰まる私を、女性はニコニコと見つめて、おけをベッドの横のスツールに置いた。
「おなかはすいてる?」
言葉の意味は分からなかったが、女性が首をかしげたこと、そしておなかのあたりをなでるジェスチャーをしたことで、空腹かどうかを聞かれているのかもしれないと思い、「大丈夫」という意味で首を横に振った。
「そう、もうすぐ昼食の時間だけど…何か少しでも食べられたらいいのだけど」
女性は納得したように微笑んで、部屋の窓を開けに行き、固く重そうな窓を開け放った。部屋の中の空気が流れ始め、ほんの少し明るくもなった。
目を細める私を、女性は振り返る。
「昼食が済んだら、身の回りの物を揃えましょう。明日からは言葉を少しずつ教えるから、今日はゆっくりしていてね。」
ぽかん、と目を瞬く私にもう一度微笑み、女性はまたドアへ歩いて行った。
「じゃあ、食事ができたら呼びに来るわね。」
そういって女性が部屋を出ていくと、部屋はまた静かになった。
…これは現実?
混乱する頭を、窓から流れ込む涼しい風がなだめるように冷やしていく。
私はそっとベッドから降りた。木の枠組みの、ざらついた白い布が敷かれた簡素なベッド。足を床におろすと、冷たい石のごつごつが素肌に食い込んだ。
私は何の飾りもない簡素な、丈がひざ下ほどまである白い長袖のシャツを着ていた。あの女性が着せたのだろうか。私が着ていた寝間着はどこへ?そもそも、私はどうして、どうやってここへ?
硬い床を慎重に歩いて、窓辺へ歩み寄った。
外を見るとここは高い塔のような建物の中間、3階ほどの高さにある部屋で、眼下にはこの塔とつながっている背の低い建物の屋根と、少し開けた草原と小さな畑、そしてここを囲むように生い茂る、どこまでも続く森が見えた。
きれいな景色。だけど、ここはいったいどこ?
しばらく外を眺めていると、背の低い建物から人が一人出てきた。あれは少年、いや、青年?黒髪の、浅く焼けた肌の青年が、慣れた足取りで籠を抱えて畑へ向かって歩いていく。
彼は畑でいくつかの作物をとると土を払って籠に入れ、立ち上がって振り返った。
その時青年が視線に気づいたようにこちらを見上げて、目が合った気がした。
しかし青年はすぐにまた前を見て、建物に入っていった。
…ここに住んでる人だろうか。ここはいったいどういう場所なんだろう。
先ほどの女性は親切そうだったが。彼はあの女性の息子だろうか?
あの女性の家族が暮らしている家なのだろうか?それにしては、まるで大きな教会のように立派な建物だし、この建物の外が森しかなく、まるで人気がないことも不思議だ。
わからないことが多すぎる。
言葉も通じないようだし、困った…。
――コンコン、と扉が鳴った。しばらく沈黙が流れる。私の返事を待っているようだった。
「…はい」
返事をすると、扉が遠慮がちに開かれた。
先ほどの女性が入ってきて、私を見るなり、あらっと驚いた顔をした。
「裸足じゃ危ないわよ、靴を持ってきたからこれを履きなさい。」
女性は何かを言って、小脇に抱えていたものを私の足元に置いた。それは簡素な革靴だった。それと私の足を交互に指差し、熱心に何かを勧めるような手つきをする。履けということらしい。私は小さく頭を下げて、革靴に足を入れた。靴は少し大きかった。
「それからね、昼食の前に少し中を案内しようと思って。」
女性に手招きされて、私は彼女のあとをついて部屋を出た。
廊下は光が差し込まない分一層暗さが増し、ところどころ壁の燭台に火がともされている。この塔のような建物は、内部はらせん状に階段があり、その途中途中に部屋がある構造らしい。
女性は上には用がないといった様子で、迷わず階段を降り始め、階段がなくなったところで扉を開けた。そこに建物の中だったが、開放的な大きな窓がたくさんある分、とても明るい。多分、さきほど窓から見えた、背の低い建物だろうと思った。
「ここが食事をする場所。隣はキッチンで、私は大体ここにいますからね。そこから外へ出られるわ。」
女性は一つ一つドアを開けて部屋の中を見せてくれた。そして外へ出ると、草原の中を歩いて行って、畑や近くの川へ案内してくれた。
「こんな感じかしら。じゃあ、昼食にしましょうか。そろそろパンが焼けたと思うから。」
先導する女性についていくと、8畳ほどの広さの、中央に大きなダイニングテーブルが置かれた部屋に通された。テーブルには小さな花が飾られているだけだが、部屋には食欲をそそるいいにおいが漂っている。
椅子をすすめられて座った時、隣のキッチンから、青年が何かの果物をかじりながら部屋に入ってきた。たぶん、さっきの青年だ。
真っ黒な瞳が射貫くように私を見た。
「こら、ソーマ!また歩きながら…お行儀悪いわよ!」
そのとげのような視線が、女性が怒ったように何かを言ったとたん、気が抜けたように逸らされた。
「うるせーなぁ」
「あんたも手伝いなさい、食事を運んで!まったく、新人さんの前で恥ずかしい」
「ちっ…」
会話の内容はわからないが、はたから様子を見ていると母親と反抗期の息子、そのものだ。
二人はキッチンへ入っていき、少しすると、木の器に盛りつけたサラダやスープ、そして湯気をまとうつやつやのパンを運んできて、部屋に充満するいいにおいが強くなった。
「ほらよ。」
青年が私の前に食事のセットを一つ用意してくれた。言葉が通じないと思い、ぺこりと頭を下げると、青年は乱雑な態度で私の斜め向かいの席に腰を下ろした。
『喋れねぇのかい。』
攻撃的な態度で放たれた言葉に、私は驚愕して叫びそうになった。それは紛れもない、流暢な日本語だったのだ。
「…なんだよ、真っ白な顔して」
「あんた何言ったんだい!」
動揺したように私を見つめ返す青年は、また聞きなれない言葉に戻っていた。後から飲み物を持ってきてくれた女性が、青年をしかりつけるように大声を上げた。
「…どうしたんだい?」
そして女性は固まった私と青年を見比べて、私の顔をうかがうように見た。
『…日本語わかるんですか?』
恐る恐る尋ねると、それはか細い声だった。
ぽかんとした顔の女性に反し、青年は驚きつつも納得の色を顔ににじませ、口のはしをあげた。
『…なんだ、日本人かよ。久々だなぁ』
「ちょっと、何話してるんだい?あんたとおなじ場所から来た子なのかい!?」
青年が日本語でつぶやくと、こんどは女性が慌てた。女性は日本語はわからないらしい。
「どうやら俺と同郷の人間らしい。」
「あらあらあら…!そりゃよかった!じゃああんたがこの子に言葉を教えてあげられるねぇ」
「は?」
何やら嬉しそうに頬を染めて興奮気味に話す女性を、不満げに眉を寄せて睨む青年。
「まずはこの子の名前を聞いてみておくれよ。」
「めんどくせえ、なんで俺が…」
「言葉が通じるんだからあんたしかいないだろ!」
「……ハァ」
青年はため息をつき、パンを頬張って咀嚼しながら私をちらりと見た。
『あんた、名前は?』
聞きなれた日本語。私は安堵して答える。
『一条レイです』
私の返答を受け、青年は女性に視線を移した。
「レイだってよ」
「かわいい名前ね、私はサラ!この子はソーマ!他にも何人かいるから追々紹介するわね。…って、伝えて!」
「……。」
青年のうんざりした視線が私に戻ってくる。
『このオバさんはサラ。俺はソーマ。他にもいるからあとで紹介する。それから、ここではレーナとだけ名乗れ。』
『どうしてですか?』
『ここではファミリーネームがある奴のほうが珍しい。』
『…わかりました。』
「あんた失礼なこと言ってないだろうね?」
「言ってねーよ」
青年はやれやれと立ち上がり、いつの間にか食事を平らげカラになった食器を持ってキッチンに入っていった。
「まったく愛想のない子だね〜。あ、レイちゃん!遠慮せずたくさん食べてね!」
『あ、い、いただきます。』
サラが食事を勧めるように手を差し出してきたので、私は少し頭を下げて、食事をいただくことにした。