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「えっ!カナリアちゃんがサボに告白した!?」


 突然降ってきた言葉が、まるで刃物のように心臓を抉りとった。
 ドラゴンに捺印してもらった書類を持って、医務室に戻ろうとナマエが階段を降りていた時である。ざわざわと雑音が入り交じる廊下で、そんな言葉が耳に飛び込んできたのだ。
 慌ててナマエは階段の柱の影に身を隠す。柱の反対側。ちょうどこちらからも相手の顔が見えない位置のため、声だけでは誰が話しているかは分からない。


「おいっ声でけぇって!」
「わ、悪りぃ。だってよぉ・・・」
「分かるよお前の気持ち・・・。みんなのカナリアちゃんが他の野郎のものになっちまうなんてなぁ」


 残念そうなぼやき声に、ナマエは出てきた名の主・カナリアのことを脳裏に思い浮かべた。
 彼女は一年前に革命軍に入ってきたばかりの少女である。確か歳はナマエの一つ下。補助役としてサボの元で仕事を担っていた。愛らしいルックスと愛嬌のある性格も相まって、入隊してすぐ彼女は瞬く間に革命軍の男たちを虜にしていったのである。
 けれど彼女に言いよる男は物の見事に全て玉砕していたため、皆が高嶺の花としてアイドルのようにカナリアを愛でていた矢先の出来事であった。


「おれ達みたいな下っ端が、今やドラゴンさんの右腕の参謀総長には適わないよなぁ」
「いや、でもさ・・・サボにはナマエがいるじゃん」


 ふいに己の名前が飛び出てきて、ナマエはひゅっと短く息を吸い込んだ。心臓の音が飛び跳ねるように鼓動をたてており、誰かに聞こえてしまうのではないかと不安になる。
 気持ちを落ち着かせるように、ナマエは己の胸元で青色に光る石が一粒ついたネックレスをぎゅっと握りしめた。


「それがさぁ・・・サボのやつ、カナリアちゃんに返事をするまで時間をくれって保留にしたらしいぞ」
「えー!!嘘だろ!?ナマエから乗り換えんのか!?」
「エリザがカナリアちゃん本人から聞いたらしくてさ・・・ってやべ!早く訓練戻らねェと!」


 そう言ってバタバタと足音をたてて過ぎ去っていく男たちの後ろ姿を確認して、ナマエはようやく階段を降りきった。胃のあたりがキリキリとして、まるで何かに縛られているかのようだった。
 きっとこれは罰だ。甘えきって弱みに漬け込んできたツケが、こうして回ってきたに違いない。
 腹部を抑えながらやっとのことで医務室に戻ると、医療班リーダー兼医師であるマコモはナマエの顔を見るなり渋い顔して見せた。


「なんじゃあ、そんな真っ青な顔してっからに」
「・・・そんなに青いですか?」
「おうよ、ドラゴンになんか小言でも言われたか?」


 資料をファイルに綴じながらナマエが尋ねれば、マコモはたくわえた白い髭を弄りながら顔をしかめる。医師の彼が言うのならばよっぽどのことなのだろう。ドラゴンに叱られたという部分だけは訂正しようとナマエが首を横に振れば、マコモはガサガサと薬棚を漁りだした。
 そして何かを取り出したかと思えば、それを勢いよくこちらに投げてくる。慌てて手を伸ばしてキャッチすれば、手のひらには懐紙に包まれた粉薬が収まっていた。


「他に症状がない胃痛なら完全なるストレスじゃ。今日は暇じゃけぇの、もうあがれ」
「でも・・・」
「患者より顔色悪いやつにちょこまか周りをうろつかれたら、目障りじゃ。はよ部屋帰りんさい」


 まくし立てるように声を上げて、しっしっと犬でも追い払うように手を動かすマコモは、傍から見れば暴言を吐く嫌な上司であろう。しかしそれがマコモなりの優しさだと知っているナマエは、申し訳ない反面、早くこの感情を整理したいという気持ちが勝ってしまった。「すみません、お言葉に甘えて今日は失礼します」と頭を下げれば、マコモはこちらを見ずに片手を上げた。
 もらった薬を給湯室で流し込み、そのまま自室へ向かう途中、ナマエはコアラに鉢合わせる。今から一緒におやつ休憩をしないかと声をかけられたが、気分が良くないため今日はもう仕事をあがったのだと断りを入れると、彼女は心配そうな顔をしながらも見送ってくれた。

 自室の鍵をあけて中に入ると、西陽がベッドを赤く染めていた。慌てて身支度をしてそのまま出てきたため、掛け布団が朝と同じくぐしゃぐしゃと乱れたままであったが、ナマエはお構い無しにそのまま布団に身を委ねて目を閉じる。
 考えることが多すぎて頭がパンクしてしまいそうだった。あれからニ年弱。もうそろそろ潮時なのかもしれない。
 どうするべきか、どうしなければいけないのか、そんなことを思案しているうちに、気がつくといつの間にやら眠りこけてしまっていたらしい。
 ふわりと何かが優しく頬に触れた感覚がしてナマエが目を開けると、いつの間にやら暗くなっていた部屋の中で、サイドテーブルの電灯が柔らかいオレンジ色の光を放っていた。


「・・・サボ?」
「悪りぃ、起こしちまったか?」


 ベッドの横に置いてある小さな椅子に腰掛けていた影に声をかければ、新聞を広げていたサボはゆるりとこちらに顔をあげる。
 任務から帰還してすでに食事や風呂は済ませたのであろう。いつもの黒コートに青シャツではなく、部屋着を身にまとった彼が心配そうな表情でナマエの顔を覗き込んでいた。首を横に振りながらナマエが身体を起こすと、サボはさっと立ち上がり背中を支えてくれる。


「コアラから聞いた。体調、良くねェんだって?風邪か?熱は?」
「熱は無いよ。ちょっと気分が優れなかっただけだから・・・。薬飲んで寝たらちょっとマシになった」
「そうか。それならよかった・・・。あっ、飯は?まだ食ってないだろ。もう時間的に食事提供は終わっちまってるだろうけど、フルーツか何か食堂からもらってこようか?」


 次から次へと飛び出すサボの言葉にナマエは思わず小さく笑った。これじゃあまるで世話焼きの母親のようだ。
 ナマエの笑みの真意に気づいたのか、サボは少し恥ずかしそうに肩をすくめた。


「ありがとう、でも大丈夫。今日はちょっと食欲がないの」
「そうか。じゃあ回復するには寝るのが一番だな」


 そう言うとサボはそのまま靴を脱いで、いつものように布団に潜り込んできた。そしておもむろにナマエを自分の方へと抱き寄せる。暖かい陽だまりのようなサボの匂いに安心感を覚えながらも、ナマエは慌てたように少し身をよじった。


「ごめん私まだシャワー浴びてないんだ」
「体調、万全じゃないんだろ?明日の朝でいいじゃねェか」
「・・・臭くない?」


 そんな問いかけに、サボはにやりといたずらっ子のような笑みを浮かべる。そして彼は、ナマエの頭を抱きかかえるようにして大きく息を吸い込んだ。


「大丈夫、いつものナマエの匂い」
「・・・答えになってない」


 少し膨れるナマエを見て、サボは子供のようにケラケラと声を上げて笑った。そしてそのまま流れるようにナマエの額にキスを送る。
 いつもならこのままずるずると事が進むのだが、ナマエの体調を鑑みてか、今日はサボの手はサイドテーブルの電灯へと伸びていた。ボールチェーンを引っ張れば、ベッドを照らしていた小さな光が闇夜に溶けて消える。


「寝れそうか?」


 優しい声色にナマエは小さく肯定の返事をした。そしてこのまま勢いで件のことを尋ねるべきか、と口を開ける。
 しかしまるで鉛玉が喉に詰まっているかのように、彼を問いただす言葉たちは出てこなかった。代わりに縋るようにナマエはサボの首元に頬を寄せる。


「サボ・・・好きだよ」
「・・・うん、ありがとな」
「・・・おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」


 貴方と本当の恋人だったなら、どういうことかと問い詰めたり、素直に泣いたりできたのだろうか。
「好き」という言葉すら返ってこないこの関係を、きっともう、終わらせなくちゃいけないのだ。

 ──サボとナマエが奇妙な関係になったのは、今から約二年前。二人が十九歳の頃の出来事だった。


『ナマエ!!エルマーさんが!!』


 いつものように本部でマコモと共に怪我人の手当をしていた時であった。電伝虫を片手に血相を変えて飛び込んできたコアラの声に、ナマエは一瞬息をすることを忘れた。
 ナマエの父・エルマーは、かのドラゴンと共に革命軍を創った創始者の一人であり、幹部として革命軍に名を連ねていた人物である。産まれた時から父親とは別居しており、北の海にあるとある島で医師をしていた母親と二人暮しをしていたナマエであったが、九歳の時に母が亡くなったため父親に引き取られ、彼女自身もそのまま革命軍に所属することになったのだ。
 唯一の肉親がいなくなってしまったという事実が、ナマエを失意のどん底に陥らせるのは簡単であった。

『ごめん、ナマエ。・・・っごめん、な』

 泣きじゃくるナマエを、ただひたすら抱きしめたのはサボであった。エルマーは、若きサボを庇って銃弾に倒れたのだ。


『サボっ・・・!私、っひとりぼっちに・・・なっちゃった』


 すがりつくように目の前の男の服を掴めば、サボはナマエを抱きしめる腕の力をより一層強めた。


『おれが・・・!・・・っおれが、ずっと傍にいる。ナマエのこと、絶対に一人にしねェから』


 ──その言葉は、サボにもナマエにも呪いをかけた。
 十年近くを共に過ごし何年も恋焦がれていた相手が、たとえ同情心や負い目が理由だとしても、傍に居ると誓ってくれたのだ。悲しみの縁にいたナマエが、サボの優しさに漬け込むように彼に依存し、求めたのも当然である。
 傍から見れば、二人は周りから恋人同士だと思われていただろう。だが、実際はそれとは程遠い関係であった。

 嫌な顔をせずナマエの寂しさを全て受け止めてくれる反面、サボは絶対にナマエに愛の言葉を囁かなかった。そしていくら身体を触れ合っても、彼はナマエと唇を合わせることは絶対にしなかった。
 それがサボの本心だと、全ての答えだと分かっていたのだ。感情のないただの罪滅ぼしの行為。どうにもならない虚しい関係なのに、それでも彼から離れなかったのはナマエ自身である。
 けれど、もう、サボを解放してあげなくては。サボのことを愛しているからこそ、彼が心から愛する人と幸せなを人生を歩めるように。

 はっと目を開けると、ナマエの頬には涙が伝っていた。柔らかい朝の日差しが窓辺から入り込む。身体を起こしながら部屋の時計を見やれば、時刻は朝の七時を指していた。
 昨夜隣いた温もりは、すでにもうない──。
 シャワーを浴びて身支度をすると、ナマエはそのまま職場である医務室ではなく、最上階のドラゴンの部屋へと向かった。
 コンコンとドアをノックをすれば、すぐさま「入れ」と許しの声が部屋の中から投げられる。入室してすぐ、ナマエは呼吸を整えるように息を吸い込むと、ドラゴンの目を真っ直ぐ見据えて口を開いた。

「革命軍を、やめさせてください」