「弟の彼女」


「なあ、そこの掃除のオバサン。」




本当に失礼だと思う。

確かに今現在私の格好は、このなんとも薄汚く感じるグレーの作業着と三角巾。もちろん我が社(有)クリーンサービス倉吉の刺繍入り。そして、片手にはこれまた汚ったない雑巾、もう一つにはバケツに入った泥水を持って。

そう、私の仕事はこの無駄にバカでかいオフィスビルをピカピカに磨き上げる掃除屋さん。

だーけーど。



「オバサンじゃありません。」


そう唸るように言って、眉間に皺を寄ると失礼ぶっこいた相手に振り返る。

「よお。ご苦労さん。」

そこにいたのは、缶コーヒー2本片手で揺らし私に悪戯な笑みを見せる、素敵なお兄さん。

本城鷲矢(ほんじょうしゅうや)。

このお兄さん、意地悪を言う時いつも愛らしく片眉を上げる。その時、切れ長で形のいい二重が少しつり上がるその瞬間が、私は昔から好きで。

長めの黒髪を無造作に緩く流し、デザイン性の高いダブルスーツを海外モデルも真っ青な抜群のスタイルで綺麗に着こなす。

そんな彼の持つオーラはこんな薄暗いクリーンスタッフルームで、ぽっかり浮いてみえた。

「知ってるよ。まだ美琴(みこと)はピチピチの22歳だろ。」
「なんか2個上の癖にその言い方、すっごく親父くさい」
「さーて、休憩。休憩。」

2本持っていた缶コーヒーの甘い方を私に渡すと、お前も休憩だ、座れ。と言わんばかりに私の頭を撫でる。

「でも、いいの?こんなスタッフルームなんかにいて。」

だって、彼はこんな場所に居てはいけない人。

「こーんな大企業の若社長様が。」

都心の真ん中に存在し、綺麗な硝子張りに覆われた超高層オフィスビル。そこにぶら下げられた看板の文字を日本国民見たことがない人なんていないくらい。

そんな有名会社の御曹司。次期社長。若社長。そんな輝かしいニックネームと容姿を併せ持つ彼が、こんな薄汚れたところで。

「しかも、」

どうやら若社長の単語にイラついたらしい。彼は不機嫌になると今度は片眉が下がる。上がったり、下がったり。それが少し楽しくなって。

「まさか、“缶”コーヒー啜ってるなんて。」
「っは、」
「カフェテリアのハ二―ラテがよかったな〜」
「ほんとお前って、現金な奴だよ。」

今度は嬉しそうに両眉が下がる。そうすると、目元が優しくなる。たぶん私はこの瞬間が一番好きなんだろう、なんて思う。

「そりゃそうでしょ。給料なんてあるようでないもんだもん」
「あのなぁ、そこは雇ってやってる俺に感謝しろよ」
「もう少し上乗せしてくれたらね」
「まあ、お前んとこは自営業だし、亡くなったお袋さんの代わりによくやってるよ」

私の母親は高校1年の春に死んだ。余命を宣告されてすぐ。癌だった。

父親と母親と少しのパートさん。そんな小さな会社だけど、それまで亡くすのは心許せなくて。

酷い手荒れと、埃まみれ。ずっとそんな母親の姿を見てきて知っていたけれど、高校卒業すると同時に母の役割を受け継いだ。

それがもう三年。掃除のオバサンって呼ばれる日が来るのなんてあっという間なんだろう。

「だから、頑張ってる美琴を見に来てんだよ」

安い缶コーヒー持ってな。そう言って笑ってくれるのは、私が近所の女の子だからなのか。

私と、兄の鷲矢と弟の眞白(ましろ)。

2人と同じ学校で通っていたわけじゃない。だって御曹司である2人はお金持ちのエリート学園に通っていたから。

出会いはまだ私が保育園児だった頃。近所に聳え立つ大きなお屋敷に迷い込んだのがきっかけで、それからというものお互いの家を行き来したり、勉強教えてもらったり。

夕方になると3人で公園に行って夏の第三角形を見るのが、大好きだった。

こと座と、わし座と、はくちょう座。

3人の星が、そこにあったから。


「しっかし、この手荒れ。酷ェな」


思い出に耽って宙ぶらりんだった片手を、何の気もなく掴まれる。大きな掌が私の甲を包んだ。

その瞬間、私の脳は思いだす。それは、きっと、イケナイ事。

「ハンドクリームとかねえのか?」
「ないよ。塗ったところで、ま」

また雑巾絞らないと。と言う前に、私の手を引っ張ってスタッフルームを出る鷲矢。薄暗い所から急に明るい廊下に出ると少し眼が霞む。

「あ、ちょうどいいとこに。松原さん、」

呼ばれた彼女が綺麗な髪を揺らして振り返る。そして、“若社長”の姿を見つけると、首をしならせ「どうされました?」なんて色気を含んだ声で聞く。

「悪ィんだけど、ハンドクリーム持ってねえ?」

それだけで、わかる。

この人、鷲矢の彼女だ。
…ちがうな。
この人 も 鷲矢の彼女だ。

鷲矢は昔から特定の人と付き合わない。都合のいい女ばかりその時限りで相手して、後腐れなく別れる。たぶんそれが鷲矢の恋愛スタンスで。過去に、そんな女の人を何人も見て来た。

だから、分かる。

私の手と繋がれた鷲矢の手を見ると「鷲矢、どうして?」と。わざわざ他人行儀の尊敬語から馴れ馴れしい言葉使いに変えてくれるから。

「いらないってば。」
「なに言ってんだ。ちゃんと治せよ」
「そんなんじゃ治んないって!」

鷲矢と言い合っていても感じる、彼女の上から下まで品定めするような視線。

「掃除屋さんと仲良しなのね」

そして、勝ったと言わんばかり余裕の笑み。「妬けちゃうわ」なんて事を本気の冗談で言った彼女は、私の本当の姿に気づかないだろう。

きっと彼女だけじゃなく誰ひとり気付かないだろうけど。

「ああ、こいつは、」

私が、



「弟の恋人だ」



そして貴女と同じ彼と身体の関係を持つ女、だなんて。


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