「禁断の果実」


都心に聳え立つマンションの最上階のワンフロア。

「いや、もう家だけど?」

そこの鍵を開けると、黒の大理石と自動証明が帰ってきたばかりの家主である俺を迎えてくれる。

「わかってるって、オヤ…じゃなくて。社長。」

耳に当てた携帯電話から聞こえてくる懇願するような情けない声に、思わずため息。まさかこの声の持ち主がここの所有者だとは誰も思わないだろう。

「その案件は明日俺が処理するから。」

そう最後に伝えると、手早く通話終了ボタンを押した。
本城家長男である俺は熱心に幼少期から経営教育を叩き込まれ、そうする事が至極当然かのように、大学を在学時から親父の会社に勤め始めた。

俺としては親父が当主だし、「まあちょっと手伝ってやるか」くらいの軽い気持ちだったが。

それが不味かった。

その瞬間、今まで寝ても覚めても仕事人間だった大企業の社長が、ただのご隠居になってしまったのだ。今、我が社の社長は、経営より妻のご機嫌取りに忙しい。そのせいで、それまで親父が背負ってきた物の半分以上、俺が背負う羽目になり最近は酷く疲れる。

「使えねえ奴らばっかりだからな。」

その癖、子息が大きい顔して次期当主席に座るのを煙たがる重役達。目の前ではへこへこ笑って俺にご機嫌とりして。情けねえったらありゃしねぇ。

….シャワーはもう明日でいいか。

シュルシュルと首を絞める息苦しいネクタイとボタンを外し、父親から譲り受けたピンとお揃いのカフスを黒のガラステーブルに置く。

「あぁ〜胃が痛え…」

ソファに腰を下すとそのまま横になる。近くにあった雑誌が目に止まって手に取った。経済情報誌。マイナス金利や株価暴落、そんな文字が紙の上で踊る。パラパラとその雑誌を指で捲り目を通した。

つまんねぇ、そう溢してまた手に取るのはガキの頃から週刊で買ってる少年漫画。ああ、そうだった。まだ出張だのなんだの忙しくて続きが読めてなかったな。

しばらく見入っていると聞こえてきた、あの音。

ピ、ガチャ、バタン。あんな慌ただしい音を立てる来客は一人しか、いない。

「ったく。今日はなんだろ、な。」

そんな分かりきってる事を呟いて、俺はまた視線を漫画に戻した。ちくしょう、いいとこだったのに。

そして、すぐにリビングの扉が派手に開く音が聞こえ、俺の腹に激痛。

「痛てえな。ダイブすんな」

ぱっと漫画を目線から反らし、腹に乗っかる彼女を見る。

…ほらね、やっぱり今日はそうだった。

彼女のその表情で何があったかなんてすぐに分かる幼馴染みの関係。

昔っから我儘で、気が強くて、もう22だってのに落ち着きがない。そして憎まれ口が大変お上手で。

しかも、いつの間にかうちの合鍵作ってやがって不法侵入まで仕出かすような奴。今、何時だと思ってんだ。

…けど俺らの場合、“それだけ”じゃなかった。

「…しゅう、」

しゅうや。鷲矢と、何度も美琴は、俺の名前を小さく呟く。

そして一瞬静かになると、それが合図だとばかりに着ていたTシャツを一気に脱いだ。

「…また、浮気されたのか?」

そう聞いても美琴は、無表情で答えない。ただ俺に口付けて言うだけ。

「抱いて…おねが、い」

弟である眞白がどうしてそんな奇妙なことをするのか俺にはよく分からない。

「僕、美琴と付き合ってるんだ」

そう言って、俺に笑った眞白。
兄貴、お祝いしてくれよ、なんて。

端から見て分かるくらい眞白は美琴に惚れ込んでるのに。

それも、付き合い始める、ずっと前から。

だけど、狂ったように浮気を繰り返す眞白。美琴の友達、後輩。


どれだけ傷つけようとも
傷付こうとも、
別れない奇妙な関係の、ふたり。

美琴は泣かない。何があっても泣かない。だけど弱い。弱くて脆い女の子。

俺はたった一度だけ美琴の涙をみたことがある。

それは、母親が亡くなった時。

あの時、俺は堪らずに美琴を抱きしめた。そして高校1年生の幼い美琴とそのままベッドに雪崩れ込んだ。

涙を見たのは、それ一度きり。

それからは辛いことがある度、こうやって眞白ではなく俺に言う。それは彼女が哀しみを消す、唯一の方法なんじゃねぇかと思う。

俺が何もせず、ただじっと見つめていると、焦れたのか彼女は自分で下着のフックに手を掛けた。

「なあ、」

高校卒業して就職した時に、お祝いだと強請られて買ってやった小さなダイヤのピアス。

その耳朶を、優しく指先で撫でる。

「まだお前にダイヤモンドなんか似合わないだろ?」なんて笑ってたけど。

俺は、もう知っていた。

美琴が少女ではなく、女であることを。

夏の第三角形を3人の星だと、嬉しそうに指差していた、あの頃の少女ではない事を。

美琴の匂い、柔らかい女の感触に、疲れているはずの自身の身体から湧き上がる、なにか。

妹同然の彼女に手を出さない、そんな呪なら当の昔に破った。

ただ、一度きりのものが今までずるずると続いただけ。


だって彼女は禁断の果実。

それは何より美味しいからだ。


「誰が脱いでいい、って言った?」


わかってる。痛てェくらい。
彼女にとっても、俺は禁断の果実。
きっと、やめられない。
俺が拒まない限り、きっと永遠に続く関係。

甘えるなと、突き放せばいい。幼馴染なんて錆びた鎖は千切って終えばいい。きっとそれは音もなく崩れるだろう。

だけど、俺は、そうしない。

だから。そして、今日も、


「脱がす楽しみなくなるだろ」



弟 の、彼女を 抱くんだ。


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