「けんちゃんはうそつきだ。」
今よりずっとずっと小さい頃、そう…確か保育園に通っていた頃、私の隣にはいつだって一人の男の子がいた。
正確にいうと、隣ではなく前。弱虫だった私を守れるように、彼の立ち位置はそこだった。
今となっては、ちいさいちいさい小柄の男の子だった事くらいしか記憶に残っていない。
「ずっと守ってくれるってゆった」
「うん、」
「ずっと助けてくれるってゆった」
「うん。」
「だから、けんちゃんはうそつきだ」
「うそじゃないよ」
「うそつきだよ。だって遠くに行っちゃうもん」
意地悪な年長さんが私を苛めた時も、近所の凶暴な犬が襲って来た時も、ふたり自転車で転んだ時も、いつだって守ってくれた。
「おれだって行きたくないんだよ。なまえと一緒にいたいんだ」
初恋、だったんだと思う。
「なまえ、約束しよう」
「…約束?」
「俺、絶対戻ってくるって約束するよ」
だからこんな約束をいつまでも覚えていて、ピンチに陥った時、つまり今みたいな時、期待をしてしまうんだ。
「ねえ!聞いてるの!?」
脳内を覚醒させるような甲高い先輩の声に一気に現実に引き戻される。目の前には眉間に皺を寄せて鬼のような形相で私を強く睨む3年の先輩達。誰かに助けを乞いたくても、ここは屋上。春の柔らかい風が吹く中、しかも今日は始業式だっていうのになんでこんな目に合わなきゃならないんだろう、なんて心の中で小さく呟いた。
「拓巳くんと一体どんな関係?って聞いてるの。」
拓巳くん、佐藤拓巳。通称たっくん。たっくんはひとつ上の先輩で、小学校からの幼馴染。いつも優しくて頼れる彼は私にとってお兄ちゃんみたいな存在だ。だけどそれは私にとっての話で、他の子にとってたっくんは憧れの的。
現役生徒会長で、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、性格も満点。おまけに彼女ナシのパーフェクト。もちろんこれは私が思った事じゃなく、親友の咲子が言っていた事だ。
「たまに一緒に帰ったりしてるらしいじゃない」
「そ、それは、家が近いから」
「そういうのを抜け駆けっていうのよ」
咲子からたっくんのファンクラブまであると聞いたことがある。いくつもある規則の中に『抜け駆け厳禁』があった事を思い出し、もしかして目の前に立っているのはそのファンクラブの会長様なんじゃないかと思った。
「それに、この2年カラ―のネクタイ。拓巳くんから貰ったそうじゃない」
「あっ…!」
グイっと首元にあったネクタイを強く引っ張られ、ネクタイは彼女の手に。そして彼女はネクタイの裏の刺繍を見てまた私に向き直った。
「ほうら、やっぱり。」
私の予想どおりね、なんて満足気な笑みを浮かべて。
「あら、あなたネックレスなんてしてたの?」
その言葉にはっとして自分の首元を見る。そこに輝いていたのは星型をモチーフとした金色のネックレス。
「これなまえにあげる」
「おほしさまのねっくれす?」
「うん、ばあちゃんに貰ったんだ」
けんちゃんにお別れの時貰った、
「これが、約束の証。」
大切な宝物。
「…まさか、」
先輩の顔がみるみる蒼に変わってゆく。それ以上に私は危機を感じていた。
「ち、違います!これはたっくんに貰ったんじゃ…!」
「たっくん、ですって?」
じりじりと私に詰め寄る先輩達。汗ばんだ手のひらでネックレスをぎゅ、っと握り締め少しづつ後ろに下がってゆく。
嫌だ、これだけはどうか、
「あっ…!」
カシャン、と屋上のフェンスにぶつかる。もう後ろがない。
「よっぽど大切なのね、それ。」
にやり、と先輩が笑う。千切るつもりだ、絶対。
(どうしよう、どうしたらいい…)
もう小さな背中しか覚えていないのに、これしか思い出のものはないのに。
何よりも大切なものなのに───
「なにやってんスか?」
突然開いた屋上の扉。そして聞こえた声。
ここからじゃ先輩が壁となって誰なのか、わからない。慌てて振り向いた先輩達が一斉に声を上げた。
「み、水嶋くん!?」
水嶋くん…?だれだ?
知り合いにはいないことは確かだ。
「なにやってんのか聞いてんスけど。」
急に声が近くに聞こえたと思って顔を上げると、視界いっぱいに広がった群青色。それは制服の色。
なぜか瞬間に頭を過ったのは、小さい頃よく見たけんちゃんの背中だった。
────────だけど、違う。
今、目の前に立った背中はすごく大きい。
「え、あ、ええっと、さっき彼女のネクタイを廊下で拾って届けてあげたのよ!」
「そ、そう!」
なんて頭の回転が速いんだ、と思わず関心してしまいそうになる。先輩はさっきの表情と打って変わってにっこりと笑うと、私の手にネクタイを握らせた。
「あ、もうチャイムが鳴るわね!行きましょ!」
そしてそさくさと屋上から逃げてゆく。
(た、助かった…)
最後のひとりが出ていくのをぼうっとして見つめていると、視線を感じた。
「…あ、」
はっとして振り向いた先にいた男の子を見て、驚いた。
(水嶋くん…って、E組だった水嶋くんだったんだ。)
180p近くある長身に、ハニーブラウンの髪色。そして綺麗に整った顔立ち。A組だった私でも知ってるくらい、彼は同じ学年でも有名だった。詳しい事はよく知らない。けど彼がたっくん並みに人気者だって事は知ってる。
「あの、さっきは…ありがと、え?」
お礼を言おうとした瞬間に両手に違和感。
え、なに、え、これ…握られてる?
びっくりして慌てて彼を見上げると、満面の笑みで笑う彼と目が合う。
「───やっと会えた。」
にっこり、そう笑う彼が零した言葉に耳を疑った。
(やっと会えた…って言わなかった?)
聞き間違いか聞き返そうとした瞬間。
「水嶋ああああああ!どこ行ったああああ!?」
という大きな怒鳴り声。この声の持ち主を知ってる。野球部顧問の月本先生だ。
「あ!やっべ!」
水嶋くんは声の聞こえてきた扉に慌てて駆け出す。そして扉の手前で一度止まると、私に振り向いて笑った。
「なまえ、またね!」
誰もいなくなった屋上で、ぽつんと残された私。
(どうして…私の名前知ってるんだろう?)
そして1限目の予鈴が鳴るまで、右手にネクタイ、左手にネックレスを握りしめて。ただ茫然と其処に立っていた。
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