09. Stardust on a cheek


(頬の上の星屑)


 初夏の日差しに目を細める。今年の梅雨明けはまだの筈だが、7月最初の1日目は、抜ける様な晴天と共に幕を開けた。銃兎に見立ててもらったシャツに袖を通しつつ、脳内で今一度漏れが無いかプランを攫う。
 今日は、愛しいかの人がこの世に生を受けた特別な日だ。万に一つも失態は許されない。どうか祝わせてほしいと伺いを立てた際の、喜んでとはにかむ照れた笑顔を思い出しつい頬が緩む。
「……む」
 最終確認を、と鏡を覗き込んだところでぴょん、と一箇所寝癖が跳ねているのに気がついた。これはいけない。使い道が無いからと一度は断ったが、いいから持っとけと銃兎に無理矢理押し付けられたスタイリング剤が確かあった筈だ。ブルーのパッケージのそれを取り出し両手に馴染ませた後、元気よく跳ねている側頭部を撫で付ける。
 ……髪を上げるか?ふと思い立ち以前左馬刻にしてもらった様に髪をかき上げる。うん、存外悪く無いんじゃないだろうか。身なりのチェックが終わったところで最小限の荷物を持ち、足早にベースを出る。頭上に広がるどこまでも青く晴れ渡る空に、感謝したくなる思いだった。
 
 以前、写真を撮ったみなとみらい。そこから程ない場所に位置する赤レンガが今日の待ち合わせ場所だった。腕時計で時間を確認すれば、30分早く着いてしまったらしい。存外浮き足立っていた事実が突きつけられ内心で苦笑していると、聞き覚えのあるパタパタと軽い足音が近づいてきた。振り返れば、小走りで来たのか胸を抑えつつ息を整え、理鶯さん、やっぱり早い……!と嬉しそうに笑う彼女がいた。
 なめらかな栗色の髪は緩く巻かれ、後ろで一つに纏められている。サイドはふわりと顔の周りにゆるやかな曲線を描いていた。愛らしい唇にはいつもの桜色ではなく薄く滲むような紅がのせられ、真っ直ぐに引かれたアイラインはその大きな瞳をより印象付けている。バルーンのように膨らんだ袖が特徴的な白いワンピースは、彼女の可憐さをこれでもかと際立たせていた。
 女性は、こうも雰囲気が変わるものなのか。
「……変、でしょうか」
 無言で見惚れていれば、サイドの髪を指でつまみながら不安げに見上げてくる彼女。そんな姿すら愛おしい。
「そんなわけがない。……すまない、余りに可憐で。つい見惚れてしまっていた」
 首を振りつつ正直に胸の内を吐露すれば、途端に嬉しげに頬を染める彼女。ふふ、頑張ってよかった、なんて笑う様に鼓動が早鐘を打つ。
「理鶯さんも……とても、かっこいいです……」
 ほぅと息を吐き、おでこ上げてるの初めて見ました……と呟く彼女に礼を述べつつ手を差し出す。
「それは僥倖だ。……エスコートさせて頂いても?」
 答えの代わりに差し出された手を恭しく取る。そのまま甲にキスを落とせば、小さな悲鳴が頭上から降ってくるのが堪らない。
「心臓に悪いです……!」
 すまない、と噛み殺せなかった笑いが口の端から漏れれば、ポス、と腕に軽く拳を当てられる可愛らしい抵抗にあう。もう、と頬を膨らせたかと思えばすぐに楽しそうに笑う彼女に、釣られて頬が緩むのを感じる。
 行こうか、と今度こそ目的の地に足を向けた。
 
 赤レンガの中は商業施設になっていて、折角なら食事の前にゆっくりショッピングをしようと持ち掛ける。事前に彼女が好みそうな雑貨屋をピックアップしていたが、予想通り瞳を輝かせているところを見ると、連れてきて良かったと嬉しくなった。
「わ!見て下さい理鶯さん、ヨコハマ限定のお酒が沢山売ってます!」
「ふむ、ワインから日本酒まで幅広く置いてあるのだな。帰りに左馬刻達に土産を買っていこう」
「ふふ、きっと喜びますね。あ、これも可愛い……こっちも可愛い……!」
 彼女からしたらここは宝の山なのだろう。あちらこちらに視線を向けては楽しそうに話す姿はとても愛らしい。邪魔をしないよう彼女が気を取られた商品を片っ端から手に取りカゴに入れていると、振り返った彼女に急に腕を掴まれる。
「まってまって、待ってください理鶯さん」
「む?どうかしたか」
「む?じゃないです。何されてるんですか」
「貴女が気に入ったものをカゴに入れている。む、もしや何か見落としていただろうか?」
 小官としたことが、と顎に手を当てるとブンブンと頭を振る彼女。
「私こんなに買えないです……!」
「貴女に財布を出させるわけが無いだろう」
「手荷物で塞がっちゃいます!」
「心配せずとも小官はこのぐらい片手で持てる。それに、荷物預かり所もここにはあった筈だ」
 でも、と食い下がる彼女に、いつもは遠慮されてしまうからな、今日ぐらいはいいだろう? とダメ押しで懇願をする。お願いだ、と見つめれば、う……!と声を漏らしながらぎゅっと目を瞑る彼女。
「それでも、こんなには、困っちゃいます」
 こちらと視線を合わせない様目を瞑ったまま答えられてしまい、むぅ、と眉間に皺が寄る。
「だが、小官は貴女に贈り物がしたい。何なら貰ってくれるだろうか?」
 どうやら審議の末譲歩案を受け入れる気になったのだろう、固く閉じてた瞼は開けられ視線を彷徨わせている。何か欲しいものは?と逃さぬ様追撃を仕掛ける。
「……さっき見てたマグカップ」
「あぁ、これか。シンプルだが良い品だな」
 カゴの中から目当てのものを取り出すが、彼女は元あった棚の方に視線を向けていて。
「お揃いで、欲しいです。理鶯さんと」
 所在なさげに手元をきゅ、と握りながら告げられた、予想していなかった可愛らしいお願いに思わず固まる。勿論、お嫌じゃなければですが!と慌てて付け加えられる言葉に、諸々を堪えた深いため息が漏れ出てしまったのは仕方のないことだろう。
「……是非。小官の分は、貴女が選んでくれるだろうか?」
 そう告げれば、はい!と鈴を転がした様な声音でいらえ、途端に花が咲く様な笑顔で笑うから。抱きしめたくなる衝動は、見えない様に拳に爪を立てることでどうにかやり過ごした。
 
 その後も数件店内を見て回り、その度に買う買わないの押し問答をして。買うのはこちらなのだから良いだろうと告げれば、理鶯さんのわからずや!と見たことのない顔をして拗ねる彼女が可愛くて、思わず吹き出せばまた膨れてしまって。でも、普段の穏やかな笑顔だけじゃない、生き生きとした姿の彼女が見れたことが嬉しくて。
 拗ねた貴女も愛らしい、と溢せば、ふふ、なんですかそれ、と可笑しそうにまた笑顔の花が咲いて。別棟の展示品を見て回ったり、道行く人々に勝手に名前をつけるゲームをしたり。
 散々歩き回った頃には昼を大きく過ぎ、夕暮れに差し掛かっていた。
「そろそろ疲れただろう、少し休憩を取ろう」
「ふふ、もうこんな時間なんですね。なんだかあっという間に感じちゃいます」
「あぁ。こんなに充実した時間は久方振りだ。少し惜しく感じてしまうな」
 最初に来た雑貨屋の前を通り、エスカレーターを上がっていく。最上階に到着し、そのまま外に繋がるドアに手を掛けどうぞと開ければ途端に上がる歓声。
 船の甲板を模したかの様な外部通路からは、ヨコハマの見事な景色が一望できる。景色に見惚れている彼女に目を配りつつ、こちらに気づいたボーイに予約した者だと告げれば、お待ちしておりましたと恭しく頭を下げられた。
「理鶯さん? ……わぁ!」
 自分が盾になり見えない様にしていたのだが、どうやら気づかれてしまったらしい。彼女の視線の先にあるのはテラスに優雅に並ぶソファー席達。ボーイの先導に従い彼女をエスコートすれば、通されたのはヨコハマの海も街も空も望める一等席。大きな瞳が丸みを帯びる様に思わず笑みを溢せば、照れた様に笑う彼女にまた一つ、愛しさが湧き上がる。
「素敵な場所……予約して下さってたんですね。ありがとうございます」
「ふふ、気に入って頂けた様で何よりだ」
 ビル群に反射された夕日が、彼女の瞳に無数の煌めきをもたらす。
「まだ、ちゃんと告げていなかったな。……Happy Birthday. 貴女が生まれた何よりも喜ばしい日を、祝わせてくれてありがとう。感謝する」
 告げた途端、ひた、と潤い満ちる双眸。決壊こそしなかったものの、視線に混じる慕情は、紛れもなくあの日見つけたものと同じで。吸い寄せられる様に頬に手をあてれば、すり、と彼女の方から手の平に頭を預けてくれたことに体温が上がるのを感じた。
「ありがとうございます……とっても嬉しい」
 手の平から伝わる頬の熱も、触れ合う腕も。交わす視線も、夕日に照らされ赤く染まる顔も、全てがたまらなく愛しくて。日が傾き頬に差してた一筋の光が落ちるまで、暫くそうやって、身じろぎ一つせず見つめあっていた。
 
 遠くで聞こえた子供の声でハッと我に帰る。彼女も同様だった様で、恥ずかしそうに視線を逸らす姿にまた一つ鼓動が高鳴るが、グッと抑えてメニューを取った。
「ドリンクを頼もうか。名前は柑橘類が好きだったな」
「ふふ、覚えてて下さったんですね。あ、私これがいいです、この季節限定のやつ」
「じゃあそれと、いくつか料理もアラカルトで頼んでみよう」
 注文が決まった頃合いでベルを鳴らせば、先程のボーイがやってくる。本日のお勧めを尋ねれば熟成牛のローストと鮮魚のペスカトーレで随分悩んでいたので、どちらも頼むと告げて切り上げた。
 私食べきれないですよ……?と不安げに見上げてくる彼女にまた笑いが溢れる。
「小官は随分と見くびられている様だ、この程度で満腹になったりはしないぞ?」
 悪戯っぽくウィンクと共に返せば、ふふ、じゃあよろしくお願いしますね、ソルジャーさん。なんて微笑む彼女。
 マジックアワーが空を彩る頃合いで運ばれてきたドリンクは、綺麗な蒼色をしていた。貴女に良く似合うと告げれば、理鶯さんの目と同じ色をしていたんで、つい頼んじゃいました。なんて可愛いことを言うものだから。……貴女といると、正しい脈の打ち方を忘れてしまいそうになる。漏れた微かな呟きは、潮風に攫われていった。
 
 辺りはすっかり日が沈み、華やかな夜景が顔を出していた。談笑をしつつ、運ばれてきた料理に舌鼓を打つ。とても足りないだろうと思う量でも、もうお腹いっぱいです、と告げる彼女は満足げで。華奢だとは思っていたが、もう少し食べて体力をつけた方が健康には良いだろう。次にベースキャンプに招待した時は、滋養強壮にいいメニューを振る舞おうと内心で決意した。
 さて、そろそろ頃合いだろう。ボーイに、彼女にはわからぬ様に目配せをする。直ぐに下がった様から察するに、準備は整っているのだろう。流石はプロだと感心しつつそれとなく彼女に話題を振る。
「最近、新しいメニューを思いついたと言っていたな。その後どうだろうか」
「そうなんです!スパイスを数種類使ったマフィンを試作してて、風味はいいんですが上手く味がまとまらなくて……」
「ふむ、そうか。料理についてなら力になれるかもしれないな、今度小官も一緒に作ろう」
「良いんですか?是非お願いします」
 あぁ、と頷いた所でデザートラックがやって来た。あれ、もう注文の品は全部来てますよね?とボーイに確認する彼女は存外鈍いらしい。答えの代わりににこりと笑みを浮かべ、恭しくプレートを差し出す彼の手元に彼女の視線が釘付けになるのがわかった。
 ゆっくりと見開かれる双眸。溢れてしまうかと思う寸前で柔らかく細められたそれは、揺らめくキャンドルの光を反射しいつもと違う暖かな星屑を宿していて。
 チョコレートで描かれたHappy Birthdayという文字に続く彼女のファーストネームは、苺のドライフルーツで彩られていた。繊細な細工が施された可愛らしいホールケーキは、少食の彼女でも食べられるサイズにしてもらってある。
「良ければ、お写真をお撮り致します」
 柔らかな声音でボーイが告げる。あぁ、頼むと告げれば既に手元に用意されていたカメラを構えるのが見えた。
 シャッターが落ちる寸前、彼女の肩を抱き寄せもう一度おめでとうと低く囁く。照れて破顔した彼女は、もう!変な顔してたらどうするんですか、と顔を赤くしてこちらを見上げてくる。
「ふふ、どんな貴女も愛らしい」
「そういう問題じゃないです!」
「お二人とも、素敵に撮れております。こちらはお帰りまでにご用意させて頂きますね」
 にこやかに告げるボーイは、それでは失礼致します。と優雅に去っていった。
 抱き寄せたままの腕から、トク、トク、と雛鳥のような鼓動を感じる。
「理鶯さん、あの……」
「ん?何だろうか」
「近い、です」
 肩から膝までピタリと密着した状態は初めてで。恥ずかしそうに視線を伏せる彼女から溢される微かな抵抗に、だめだろうか?と返せば、ややあって……だめではないです、とこれまた小さく返された了承に笑みが浮かぶ。
「さぁ、火を」
 促せば、尖らせた唇からほぅ、と柔らかく吹き出される吐息。最後の一つまで吹き消したことを確認し、good girlと頬を撫でれば、嬉しそうに染まる頬を緩ませる。……愛らしい、可憐、sweet、どんなに言葉を尽くしても、彼女の可愛さを表現できる気がしない。
 余程お気に召したのか、一口食べて瞳を輝かせた後黙々とケーキを食べ進める彼女はまるでリスの様で。じっと見つめていると、こちらの視線に気づいた彼女が小首を傾げる。あ、と声を漏らしたかと思うと、プレートをこちらに寄せて来た。
「すみません、私独り占めしちゃってて……!理鶯さんも食べますよね」
「ふふ、そうだな。折角なので一口貰おうか」
 差し出されたフォークを受け取らずに口を開ければ、意図を察したのか途端に耳まで赤くなる。う、と惑う指先を視線で急かせば、おずおずと小さく切り分けられたケーキが差し出される。肩を抱いていない方の手でケーキを差し出す手ごと掴み、口内へ迎え入れればふわりとしたスポンジと甘さが控えめな滑らかなクリームが溶け合う。時折感じる爽やかな甘味と酸味は苺だろう、時期は外れているはずだが上質な果汁を滲ませるそれは程良くアクセントを加えていて。なるほど、彼女が夢中になるはずだ。御馳走様、と手を解放すれば、少しの逡巡の後に恥ずかしそうにまた黙々と食べ進める彼女。
 余り揶揄ってまた拗ねられてはいけないな。彼女から視線を外し、残り僅かになったグラスを煽る。互いの体温を分け合いながら、暫くそうやって、眼下に広がる見事な夜景を眺めていた。
 
 彼女がメイク直しに席を立っている間に会計を済ませ、戻ってきた彼女に再び手を差し出し店を後にした。ひやりとした潮風は火照った体を冷ますには丁度良く、それは彼女も同じ様で。腕に置かれた手だけが、熱源の様に温かさを伴っていた。
 海岸沿いに、船着場を通り過ぎ、山下公園に向けて歩く。以前見た豪華客船は今日も入港している様で、電飾によって煌びやかに飾り付けられ、水面にも眩しいくらいの光を落としている。
 夜の海を静かに眺める彼女の横顔は、穏やかさに満ちていた。
「名前、後ろを向いてくれないか」
「?、はい」
 素直に背を向けてくれる彼女の首に、そっとチェーンをかける。
 途中で立ち寄ったジュエリー店で、僅かだったが視線を奪われたのを見逃さなかった。隙を見て密かに購入していた小さなダイヤがあしらわれたフラワーモチーフのネックレスは、彼女の白い肌に良く映えるだろうと思っていたし、実際良く似合う。まるで彼女のために作られたかのように初めから馴染んでいた。
「これ……!」
「貴女に、似合うと思ったんだ。受け取ってもらえるだろうか」
 こちらに向き直り首元を触る彼女は、昼間見ていたものだと気づいたのだろう。再び潤む双眸。
 胸元を抑え、喜んで、と涙を堪え健気にいらえる姿に湧き上がる情動。思わず抱き寄せそうになる腕を叱咤し、喜んでもらえて何よりだ、と応えた。
 胸元を抑えたまま、嬉しそうに海に向かって歩き出す彼女の後ろを追う。潮風が、彼女の頬をするりと撫で、甘やかな香りを運んできた。
「なんだか、夢みたいです。こうして、好きな人と過ごせるなんて」
 ぽつりと噛み締めるように零された言葉に、息が止まるのを感じた。彼女は今、何と。驚きに見開いた目をそのままに彼女の肩に手を掛ける。首だけを振り向かせた彼女は、きょとんとこちらの顔を見つめた後、何かに気付いたかのようにハッと両手で口を抑えた。
「私、今、なんて」
「名前」
「まって、ごめんなさい私、そんなつもりじゃ」
 怯えるように身体を震わせ、駆け出そうとする腕を掴む。
 もうこれ以上は辛抱ならなかった。後ろから抱き寄せ、彼女の肩口に顔を埋める。
「すまない。貴女を困らせたい訳ではないんだ。しかし約束しよう、小官は必ず貴女の元に帰ってくると」
「小官の、ただ一人の人になってはくれないだろうか」
 縋るように握りしめた腕からは微かな震えが伝わって、たまらない気持ちになった。
 息遣いと震えから察するに、きっと泣かせてしまったのだろう。けれども、何度も焦がれた身体を一度でも抱きすくめてしまえば、到底手放すことなど出来る訳がない。祈るような気持ちで声を絞り出す。
「どうかyesと言ってくれ」
 暫く無言で鼻を啜っていた彼女の身じろぐ気配を感じ拘束を緩めると、名前はゆっくりと身体をこちらに反転させた。ややあって、俯いたままポツリポツリと話し出した声を聞き逃さぬ様顔を寄せる。
「ほんとうに、もどって、きて、くださいますか」
「あぁ」
「生きて、ですよ」
「あぁ、勿論だ。何があっても必ず生きて帰ろう」
「わたしの、こと、置いていったりしません、か、?」
「小官はいずれ軍に戻る。けれど帰る場所は貴女の元だ。それだけは何があっても揺るがない。……どうか唯一の場所になって欲しい」
 それまで俯き静かに涙を零していた彼女は、まるでプロポーズみたいですねと言いながらふっと泣き笑う様に微笑んだ。次いで、おずおずとこちらの胸元に添えられる手。
「まだ、こわいです。けれど信じたい」
「理鶯さん、好きです。私で良ければ、恋人に、して下さい」
 
 ――その瞬間の彼女の姿を、永遠に忘れないだろう。
 いつか見た鈴蘭の如く凛と胸を張り、薄らと滴を湛えながらも、向けられた真っ直ぐな眼差し。初めて曝け出された胸の奥の柔い箇所。
 万感胸に迫るが、涙に変わる寸でのところで堪える。彼女に額を合わせ、囁いた。
「小官の全ては、貴女のものだ。これから先、隣にあり続けることをここに誓おう」
 彼女の瞳からぽろりと溢れた涙。微かに戦慄く唇に己のそれを押し当てる。
 この愛しさが一つ残らず伝わるよう。彼女の頬を滑り落ちた一筋の涙の跡が、柔らかな月明かりに煌めいていた。




- 10 -

*前次#

ページ:


戻る

topへ