08. It is no use crying over spilt milk.


(覆水盆に返らず)


 そういや、アイツそろそろ誕生日だろ。
 喫茶ルームで勝手知ったるとでもいう様に我が物顔でコーヒーを淹れている左馬刻さんの言葉に、はて、と首を傾げる。
 合歓ちゃんはまだ先だったよね、舎弟さんかな? なんて考えていたところで、告げられた想い人の名前にひっくり返った声が出た。
「い、いつですか!?」
「明後日」
「直ぐじゃないですか!!」
 どうしよう、何しよう、何がいいかなと慌てる私にまぁ落ち着けよ、何て言いながら出来立てのコーヒーを差し出す彼。わ、良い香り。
「首にリボン巻いて私がプレゼントです♡ってやりゃあイチコロだろ」
「なっ!?」
 動揺してソーサーにガチャリとコーヒーを置いた私にコラ、溢すんじゃねぇぞなんて眉根を寄せる彼。誰のせいだと思ってるんですか、とジトリと視線を投げれば愉快そうに口角を上げた。
「で、お前はどうなんだよ」
 脈絡のない問いかけに再び首を傾げる。
「どうって……?」
「好きなんだろ。理鶯のこと」
「……っそんなに、分かりやすかったですか、私」
 オゥ。と答えた彼は自分の分のコーヒーを持って向かいのソファに踏ん反りかえった。私はというと両手で顔を抑えながら項垂れる他無く。
 と、ここで重要なことに気づいて思わず顔を上げる。
「もしかして理鶯さんも気づいてましたか……?」
「さぁな?けどまぁ、酔ったアイツから散々お前の話は聞かされたな」
「ちなみにどんな内容を」
「そりゃ俺様の口からは言えねぇな。本人に聞いてみな」
 答えるかどうかは別の話だろうけどな、とその時の事を思い出したのか、愉快そうに笑いを噛み殺す彼。
「もう見てんのもたりぃからさっさとくっついちまえよ、お前ら」
 ツキンと胸に刺さる痛み。手元の深い褐色の水面に視線を落とす。痛みから逃れるように唇から言葉が転がり出た。
「……理鶯さんとお付き合いすることは、ありません」
「……アァ?」
 凄まれたことに肩を縮こまらせれば、眉根を寄せ此方を見た彼の雰囲気が、ふと静かなものに変わる。てっきり怒鳴られるかと身構えたが、投げられたのは感情の読めない凪いだ眼差しだった。
「……兄貴か」
 コクリと頷く。再び視線をコーヒーに落とすと、彼が立ち上がる気配がした。そのまま此方に近づき、ソファの右側が深く沈む。同時にポス、と頭に乗せられた大きな手。伝わってくる体温は温かいのに、彼の身につけているシルバーは冷たくて。ちぐはぐさにふっと笑いが溢れるのと、涙が溢れるのはほぼ同時だった。
 全然、お兄ちゃんと違うのになぁ。
 泣き止むまでの間、ぶっきらぼうに撫ぜられる手はそのままでいてくれた。
 
 あれからも理鶯さんは、変わらず店に訪れてくれていた。初めこそ私がギクシャクしてしまったが、いつもと何一つ変わらない彼の態度に、直ぐに調子を取り戻すことができた。
 ただ一つ変わったのは、どんなに隣で話していても、彼が私に触れてこなくなったということ。当然だ、彼の気持ちを受け取ることを拒否したのは私自身なのだから。だというのに身勝手な痛みは、今もこの小さな胸を苛み続けていて。
(勝手だなぁ、私)
 左馬刻さんが帰った後も、梅雨らしくしとしとと雨は降り続いていた。客足も疎らで発注作業も終えてしまった今、考えるのは彼のことばかりで。
 告白をされたあの日、泣きじゃくる私にそっと寄り添ってくれた。大丈夫だと、何度も背中を摩り、愛しそうに頬を撫でて。不思議なことに、振られたことよりも私が泣いていることの方が辛い様だった。
 好き。一度自覚してしまえば、蓋をすることなんて出来なくて。だから、余計に辛かった。彼も自分を想ってくれているという事実は、死刑宣告にも近かった。
 だって、もう。失いたくないのだ。顔の分からぬ母がいない寂しさより、知ってしまった温もりを、兄を失うことの方が余程堪えることを知っている。ギリギリのところで予防線を引いていられるのは、今度こそ失ったら耐えられないことを、知っているから。
 まだ知らないこの身いっぱいに満たされる愛を、言葉を、温もりを。どうか、どうか気づかず知らないままで。このまま穏やかに友人として彼の傍にいられれば、それで充分なのだと。軋む痛みはいずれ慣れてしまうから。
(きっと、大丈夫)
 これ以上もう、考えなくていいように。頭を振り、喫茶ルームの新しいメニューを考える方に思考をシフトした。
 

 突如入った大口の発注により、慌ただしく時間は過ぎ去りあっという間に当日を迎えてしまった。粗方資材の片付けが終わり、ほっと一息ついたところで携帯が震えた。画面を見れば左馬刻からで慌てて電話に出る。
「おー、お前今どこいんの」
「まだお店です、漸く今片付いたところで」
「なら今から理鶯のベース来れるか? 麓まででいい、そっからなら15分で着くだろ」
「え、でもMTCの皆さんでお祝いされてるのでは……お邪魔になりませんか?」
「分かってんなら話は早えな。邪魔になるなら初めから連絡なんてしねぇよ」
 ふと時計に視線を落とせば思ったより時間が経っていたらしい、短針はまもなく10を差そうとしていた。残り2時間で彼の誕生日が終わってしまう。
「俺様が迎えに行ってっから、とりあえず来るだけこい。……会うかどうかは置いといてでいいからよ」
 低く付け加えられた声に、迷いが見透かされていることに気づいてドキリと鼓動が跳ねる。
「返事は」
「……はい」
「うし。待ってっから」
 電話の向こうで微かに微笑む気配がした。待つ、という言葉を最後に切れた電話にきゅ、と拳を握り締める。お兄ちゃんとは違っても、彼もまた良き兄なのだ。よし、と頬を叩いて気合を入れ、荷物を掴むのもそこそこに店を飛び出した。
 
 麓にたどり着くと、1台の高級車が止まっているのが見えた。気だるそうに寄りかかり紫煙を燻らしていた彼は、こちらに気づくと鷹揚に手をあげる。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「急に声かけたのはこっちだからな、気にすんな」
 寧ろこんな夜更けに1人で歩かせちまって悪りぃな、と続ける彼にぶんぶんと首を振る。
「……理鶯がよ」タバコを揉み消す彼は静かに口元だけを笑みの形に歪ませて言葉を続ける。
「お前に、会いたいんだとよ」
「さっきまで3人でバカ騒ぎしてて、すげぇ嬉しそうにしててな。んでも、ぽつりと溢すんだよ」
 彼女に会いたい。と。
 その時の顔があんまりにも苦しそうだったから。
「だから、つい連絡しちまったんだわ」
 言いつつこちらに向けられる眼差しは、いつか見た時の様に感情を読み取ることは叶わなかったが、真っ直ぐと凪いでいて。
「名前。お前の苦しみが分かるとは言わねぇ」
 けどな、と続けられたその先に、数拍呼吸を忘れる。その言葉を噛み締める様に呟いた後、拳を固く握り真っ直ぐと見返せば、今度こそ満足そうに笑う彼。そのまま片手でぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜられ、文句を言おうと顔を上げれば彼は森の方を顎で差した。
「あの奥に見える大木の向こうに、理鶯がいる」
 目を見開く私に彼は不敵な笑みを返し、ただ一言、行ってやれと呟いた。たまらず駆け出すが、あっと直ぐに後ろを振り返る。
「左馬刻さん!」
「あの、ありがとうございました!」
 笑みを浮かべながら片手を上げて応答する彼を確認する。今度こそ振り返らずに駆け出した。
 
 大木を背に彼は腕を組み目を閉じていた。弾む息もそのままに理鶯さん、と声をかける。
 パチリ、と開いた瞼。ゆらりと彷徨った視線がこちらを捉えると、溢れそうなほど見開かれる蒼。
「……これは、夢か?」
 アルコールがまだ抜けていないのだろう、目元に差す赤は随分と彼を幼く見せていた。クスリと笑い、夢じゃないですと返せば、途端に嬉しそうに頬に手を伸ばしてくる彼。驚きに身を強張らせれば、すまない、と寂しそうに笑い触れる前に戻っていく手。待って、違うんです。思わず彼の手を掴む。
「嫌じゃないです、私」
 そう零して彼を見つめれば、ややあって細められる蒼。
「……頬に触れても?」
 コクリと頷けば、壊れ物に触るかの様に頬にそっと添えられる手。すり、と丁寧な手つきで愛おしむ様に撫でられる。彼に触れられた箇所が火傷しそうに熱くて、でも心地よくて。鼓動は早鐘の様に小さな胸を震わし続ける。
「……左馬刻と銃兎が、急に席を立ってな。ついて来いと言われるままについてきたが、今度はここで待てという。てっきり酔った勢いのゲームかと思っていたんだが」
 とんだサプライズだった、と続ける彼に鼻先を人差し指で突かれる。
「今日だけでいい。このまま貴女を、攫ってしまってもいいか」
 突如真摯な眼差しで告げられた言葉にゆっくりと頷けば、ガバリと音がつきそうな勢いで抱き上げられた。突然の衝撃と宙に浮く感覚に目を白黒させながら思わずしがみつけば、愉快そうに笑う彼の喉仏が眼前に。
「り、理鶯さん!私歩けますから!」
「攫ってしまってもいいと聞いたが」
「別に逃げたりしません、降ろして下さい……!」
「ベースまでは小官の足の方が早い。それに、連日の雨でここら一帯は泥濘んでしまっている。転びたいというのであれば話は別だが、小官としてはこのまま丁重に貴女を運びたい」
「ぐぅ……!」
 きっちりと並び立てられる正論に白旗を上げれば、酔っているとは思えない足取りでズンズンと歩みを進める彼。しかし細心の注意が払われているのか揺れは最小限で、スピードの割に怖いと感じることはなく。
 彼の高い体温と、ドクドクと力強く脈打つ鼓動のリズムが心地よくて。そっと首元に頭を預ければ、こきゅりと喉仏が上下するのと同時に強く抱き留められたことが分かった。
 
 そうしてどれ程経っただろう、幾分もしないうちに少し開けた場所に出る。一帯を森で囲われたそこは、人口の光こそないものの淡く光を落とす上弦の月と、月に負けないくらい輝く満天の星で埋め尽くされていた。
「すごい……!」
 呆気に取られていると、私を抱えたまま芝生の上に腰を下ろす彼。そのまま膝の上に乗せられ、必然的に顔が近づく事実に気がつき思わず顔ごと視線を逸らしてしまう。けれど、名前、と名を呼ばれ再び頬に手を添えられれば、彼の方を見る他なく。彼の瞳にキラキラと満天の星が反射し映し出されている。思わず息を吐いてしまいそうな美しさに見とれていると、此方を見つめている眼差しがふと切なそうなものに変わった。
「……貴女が、この距離で触れるのを許しているのは、小官だけだと」
 そう、自惚れてしまってもいいだろうか。眉根を寄せて何かを堪える様にそう溢す彼に、はい、と返せば頬を通り過ぎた手が耳の淵をなぞり、髪をくしゃりと握り込むのが分かった。ふ、と息つく彼に、そんな顔をしてほしくなくて。タイミングを計っていたはずの言葉が、ついぽろりと転がり出た。
「理鶯さん、お誕生日おめでとうございます」
 あっと口を手で塞げば、ぱちり、と瞬きの後に破顔する彼。片手で顔を抑えクツクツと震える彼にしまったやっちゃった!と頭を抱えたい気持ちになる。
「あの、違うんです、もう少しちゃんとしたタイミングで言うつもりだったんです……!」
「名前、」
 しどろもどろになっていると、腰を抱いていない方の手で片手をすくわれる。そのまま恋人繋ぎの様に指を絡められ。こつり、と音を立てて額を合わせられた。視界いっぱいに広がる彼に思わず呼吸すら忘れそうになる。
「ありがとう。今日という日を貴女と過ごせることは、これ以上ない幸いだ」
 何も言えずに彼だけを見つめていると、真剣な調子で続けられる言葉。
「……何があっても、何も失わせはしない」
 その言葉の意味が、分からないほど子供じゃない。でも、今は。まだ少しだけ、猶予を下さい。瞬きの後、祈る様な気持ちで見返せば、彼がふっと笑う気配がした。
「貴女がこうして隣にいてくれる、それだけで十分だ。……今は、まだ」
 そう言い合わせていた額を外し、空を見上げる彼を静かに見つめる。彼に渡すプレゼントのことも、何もかも頭からは抜け落ちていて。彼の横顔を見つめながら、ただ、ここに来る前に左馬刻さんから言われた言葉だけが、頭の中をループしていた。
 
(理鶯を、見てやれ)
(兄貴越しじゃないアイツを、ちゃんと見てやれ)




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