muguet


Jour de muguet




(再び幸せが訪れる)

初夏。燦々と降り注ぐ日差しは春の柔らかなそれとは少し違う。ギラつく暑さを予感させる、肌を焼く強さが滲んでいる。
メーデーとして呼び名が高い今日、二人にとっては違う意味を宿す日でもあった。
理鶯のキャンプから離れ少し渓谷沿いに歩いたところ。以前見つけた鈴蘭の群生地を訪れ、二人はゆったりとハンモックに揺られていた。俗に言うピクニックだ。バスケットに詰めたオープンサンドは既に半分ほど減っている。
「寒くはないか?」
「はい、暖かいぐらいです」
腕の中、問われた言葉に笑みが溢れてしまう。身体はゆるやかに密着し、おまけに理鶯手製のブランケット付きだ。時折爽やかな風が吹き抜けるものの充分すぎるほどに温もっていた。
「本当に気持ちいいですね。今日が晴れてよかった」
「あぁ、とっておきの場所だからな。てるてる坊主に感謝だ」
「わ、作ったんですか?」
「50体程」
「50!?」
まさかの数に思わず笑い転げてしまう。どこに飾られてるんだろう?テントの中は今日はまだ見ていなかった。もしかしたら裏手の切り株のそば?
首を落とさずに済んだ、なんて物騒なことを至極真面目な顔で言うものだから余計に笑いは止まらない。明日は下手したら筋肉痛だ。
「名前。少し笑いすぎだ」
「ふふ、ふ、ごめんなさい。まさかそんなにあるとは思わなくて……っふ」
ニヤリ、と口端が上がるのが見えた。あ、これは。悪いことを考えてる時の顔だ。
「毎日ひとつずつ作っていた」
「、っひ」
「左馬刻と銃兎の似顔絵もつけたぞ」
「あははっ、もうダメです、降参しました!……というか、もしかしたら切り落とすことになってたかもなのにお二人の似顔絵つけたんですか」
「その方が叶う確率が高そうだろう?」
「っ、ふふ、私の分がないのは?」
「模造品でも貴女を傷つけるなんて有り得ないな」
当然だと言わんばかりに肩を竦められてまた笑ってしまう。二人をダシにしたようで忍びないけれど、それでもこんなところで感じてしまう想いが嬉しい。
「ふふ、何だか愛を感じちゃいますね」
ワザと茶化してみたものの、言ってて少し恥ずかしくなる。愛されてる、なんて感じるのは少しだけまだブレーキが掛かってしまうから。
「小官からすれば、貴女は愛に生きる人だ。花を愛で、隣人を愛し、陽だまりの中で暮らす。おそらくそれらは理想とされるが、実現は中々難しいことだろう」
眼下に広がる柔らかな草原。鈴蘭が嬉しそうに揺れている。思ってもなかった褒め言葉に面映い心地になった。愛に生きる、なんてお伽噺みたいだ。
「ふふ、意識したことはなかったですけど……そう見えてたなら嬉しいです」
微笑みを浮かべた理鶯はハンモックから腕を伸ばす。掬うように鈴蘭の花弁に触れた。
「"再び幸せが訪れる"だったか」
「?あぁ……鈴蘭の花言葉ですね。そうです」
「貴女は今、幸せだろうか」
はいと答えようとして、思いの外真剣な眼差しが注がれていたことに気づいた。その瞳に吸い込まれるように静寂が落とされる。
「幸せ、です」
やっとのことで絞り出した言葉は頼りなく。理鶯は微笑みはそのままに、瞳にだけは少しだけ寂しそうな色を浮かべた。
「以前言っていたな。鈴蘭が一等好きなのだと。生態や見た目もそうだが、貴女はこの花の花言葉に惹かれていたように思う」
初めてここに来た時のことを言っているのだろう。鈴蘭の群生地を見つけた日で​──彼の想いを拒絶してしまった日。何も言えずにいる私の髪を梳く指先は、温かく優しかった。
「名前。貴女は愛情深い人だ。故に過去にとらわれやすくもあるのだろう。……今までどれほどのことを乗り越え、笑えるようになったのか。小官には想像もつかない。厳しい環境でも可憐に咲く鈴蘭は、まるで貴女のようだ」
彼は分かっているのだ。分かった上で、甘えさせてくれている。どこまでも臆病な私を傷つけず、決して離さないように。
風は草原を泳ぐ。
今はもう会うことすら叶わない兄と母が、視界の端に見えた気がした。
「ただ一つ、その花言葉を叶えるには貴女に足りないものがある」光が泳ぐ海。揺らぐ青は真っ直ぐに、こちらに注がれていて。
「愛されることを、恐れないでくれ」
はたり、と涙が落ちた。悲しいんじゃない。辛いわけでもない。痛いほどの優しさが、水に落としたインクのようにじわりと広がっていく。静かに伝う雫は温かな指先に掬われた。ゆっくりと、重なる唇。
「……名前。貴女は幸せになっていい。そしてそうするのは小官でありたいと願っている」
「はい、ッ……」
噛み締めるように頷く。すっぽりと抱き竦められ、背を優しくたたかれた。額に当たる口づけに、どうしようもなく目頭は熱くなる。
何よりも愛しい人がくれた許可。それはきっと、ずっと願われていたこと。ほろほろと涙が落ちた分だけ、自分にかけていた鎖が解けては消えていく。赦していいのだと、彼は言った。
私、幸せになっていいんだ。

そうしてどこまでも優しい私だけの海が囁く。貴女を愛していると。




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