muguet


The sea of one's own




(私だけの海)


 眼下には綿菓子を塗した空が広がっている。
 先程見たディスプレイには高度10000mを越えていると記されていた。
 湿度も気温も酸素でさえも、たった一枚を隔てただけでまるで別世界だという事実。そんな当たり前のことが、どうにも不思議でたまらなかった。再び視線を下ろすとそこは視界を埋め尽くさんばかりの青。ここ連日の荒天が嘘だったかのように穏やかな海がどこまでも広がっていて。遠くに水平線を探しても、まるで溶け込んだように空との境目は不明瞭だ。じっくりと目を凝らしてみてもついぞボータラインは分からなかった。
 澄み渡った海原に透明な糸が縒り合わさって幾重ものラインを引いている。それが航行する船舶によるものだと気付くのに時間はかからなかった。上質な絹を切り裂いていくように、一艘の船が青の中を進んでいく。
「名前は本当に海が好きなのだな」
 優しいバリトンが不意に響く。目が覚めてからというもの片時も目を離さずに外を眺め続けていたことに今更ながら気づき、名前は照れ笑いを浮かべた。
「ふふ、すみません」
「謝ることはない。前にも言ったが、貴女と好きなものが同じでとても嬉しい」
「でもせっかくファーストクラスにしてくれたのに」
 申し訳なさに眉尻が下がると、理鶯はふむ、と仰々しく顎に手を当てた。上下する視線が何だか少し、悪巧みをしているような。
「小官は見ての通りの巨躯だろう。とてもじゃないがエコノミークラスには収まらない。貴方との初めての遠出なんだ、多少の見栄は張らせてくれ。それに――」悪戯っぽく指先が頬に添えられる。じっくり、味わうような手つきで唇をなぞられた。「――後でたっぷり、お礼≠ヘ回収するつもりだからな」
「っり、」
 理鶯さん! と続けるつもりだった抗議は人差し指を当てられたことで不発に終わる。shh,なんてそんな素振りですら様になってしまう理鶯がほんの少しだけ憎らしい。
 気恥ずかしさは一つ息を吐くことで押し流す。ファーストクラスにしては珍しいカップルタイプの席だから、二人を遮るものはない。窓に視線は向けたまま、ゆったりと上半身を理鶯に預ければ嬉しそうに頭上で喉が鳴った。
「海はもういいのか?」
「まだまだ全然見足りません。でも、いいんです」
 上を見上げ、首だけで振り返る。常より近い陽光が差し込み、二つの海はきらきらと輝いていた。中心にいるのは、私だ。
「私だけの海は、ここにありますから」
 愛しい海は途端に姿を眩ました。破顔した後寄せられる口づけ。ピントの合わなくなった視界に伏せられたまつ毛が見えて、同じように瞼を下げた。微かなリップ音を立ててほんの少しだけ唇が離される。僅かに震えた吐息が伝わるほどに、近い。
「……これから行く場所は、貴女の海が生まれたところだ」
 低い囁きが鼓膜を優しく震わせる。こくりと頷くと、愛おしげに見つめられる眼差しと交わって。ドクドクと脈打つ心音まで聞こえそうだった。
「そしていつか、貴女と訪れたいと願っていた場所だった。……ありがとう、最高のプレゼントだ」
「ふふ、まだ言わずにとっておいたのに」
 一年で一番陽の長いこの日に生まれた恋人は、まだ祝いの言葉すらかけていないのに幸せが飽和している。仕舞われたハンドバッグの中に眠るプレゼントが頭を過ぎるが、今はこれでいいのだろう。ポンと言うチャイムの後、まもなく着陸態勢に入ると機内放送が入った。
 愛の言葉の代わりに、もう一度だけ。こめかみを引き寄せ、7cmの距離をゼロにした。
 
 かの海はどんな色をしているだろうか。きっと理鶯のように優しく深いどこまでも雄大な青。答え合わせは直ぐに叶う。
 愛しい人の生まれ故郷へ。 

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