緩やかに名字の意識が浮上した。朧気だった意識が完全に覚醒したころには、名字は眼を開いた。右左右、上。眼球を動かしても名字が得た情報は、現状暗闇の中にいることだけだった。
手を動かせば、何か硬い壁のようなものに指先が触れる。名字は掌に力を込めて、壁に向かって押した。キィ、と歪な音を立てて壁が動く。そして、その向こうに光が見えた。
「うわっ」
壁――もとい扉が、完全に視界が開いた時には、名字の見たことのない男がいた。突然現れた名字を見て、目を丸くしている。
「誰っすか」
「私?」
「そうっす」
「……」
――私の、名前。
目の前の男に対して、名字は名乗ることになんだかむず痒い気持ちになった。
「私の名前は、名字、名前」
それでも名字は自分の名前を言うと、すとん、と胃に落ちる感覚がした。激しい衝撃ではなく、むしろ、肩の荷が降りた、といった方が近い。
「……名字さん、っすね。ここに来る前のこと覚えてるっすか?」
男は名字の名前を復唱し、名字へ質問した。
名字は、ここに来る前と言われて自身の記憶を探りながら答えた。
「いつも通りに過ごして……。いつも通りに休んで、いつも通りに起きたら……。こんなことになってた」
そう、いつも通りの代わり映えのない日々だった。勉強、テスト。やることはあらかじめ決まっていた。こういうのを灰色の日々とでも言うんだろうか、と思い出に気を取られたところで、名字は思考を中断した。今は関係ない。思い出に浸る余裕はない。
「そういえば、ここどこ?」
「俺も分からないっす。どっかの学校みたいっすけど……」
男はそこで言葉を止めた。
「何?」
「なんでもないっす」
「ふうん」
男の様子を見るからにして、これ以上聞いても意味がないような気がした。仕方が無いので名字は別の話題はないかと、辺りを見回して、適当に目に付いた扉を指さした。
「ここ、別の部屋に繋がってるみたい」
「部屋っていうか廊下っすね」
「廊下?どうする?」
「人を探しましょう。俺達以外に誰かいると思うんで」
「分かった」
名字はドアを開けた。
「みーつけた」
長い通路の先に巨大な機械がいた。三つ目のような赤い光がギラギラと名字を照らしている。
待ってましたと言わんばかりに構えているそれは、名字の二倍以上の大きさはあるだろう。二足歩行の動物を模しているのか、金属と配線で構成された二つの手足が、機械の割にスムーズかつ柔軟に動いている。ご丁寧に五本指も作られていて、名字へと伸びていく。
「走って!」
声と視界が揺さぶられたのは同時だった。
空気を掴んで軋む金属音を後に、名字は手を引っ張られながら彼の背中を追った。
「ギャハハハハハハ!」
足がもつれ込みそうになりながら、名字達は走った。途中で別の機械が道を塞いでいたり、撒いたと思ったら先回りされたりと、目まぐるしく名字達は走った。走って走って、名字達はある扉の先に逃げ込む。
後ろ手で閉めた扉越しから地響きのような足取りが響いてくる。もしかしたらこの部屋に来るかもしれない。バクバクと心臓を立てていると、次第に名字の心音のほうが大きくなっていた。
完全に足音が消えて、名字は男と顔を合わせた。男が息を一つ零した後、顔に手を当てる。様になるとはこういうことだろうか。名字がぼんやりと考え始めたところで、男は少し目を見開いて、端正な顔を歪ませた。
「なんで!逃げようとしなかったんすか!」
「あんなの見たの初めてだから……。つい」
「つい、じゃないでしょ!」
「ちょ、ちょっと静かにしろ!あいつらにバレるかもしれねーだろ!」
肩で息をする男が私に詰め寄って大声を上げていると、これまた見知らぬ赤いTシャツを着た男が私たちの間に割って入ってきた。
「あいつら?」
「見ただろ……。あのデカブツ」
「なるほど」
「ここにいる奴ら、全員あいつらから逃げて来たんだよ」
ここにいる奴ら、と言われて名字はようやく人が何人もいることに気付いた。男女様々で、共通点としては同じ年頃ぐらいだというのが分かる。後は不安を隠せず、顔色を真っ青にしていた。
「なんで逃げて来た?」
「なんでって……。そりゃ、あいつら俺らを見つけた途端、捕まえに来たからに決まってるだろ。てめーらだってそうじゃねえか」
――聞き方を間違えてしまった。
名字が聞きたかったのは『なんで、ここに逃げて来たのか?』だ。
言葉足らずにも程がある。日本語は難しい。会話も難しい。一人、猛省していると先程一緒に逃げてきた彼が舞台の上に上って腰掛けた。
「何してるの?」
「ちょっと疲れたんで……」
こういう時、なんと声をかければいいか。名字は悩んだ。謝罪は大事だが、他に大事なことがあることはある。ただ、果たしてその選択が正しいものか分からなかった。
「さっきは、ありがとう。ごめんなさい」
しかし名字は感謝の意を彼に示した。少し自信がなくて、小さな声になってしまったが。
名字は恐る恐る彼を見た。彼は私を初めて見たときと同じように目を丸くした後、笑った。
「……無事だったからよかったっす。でも今度は気をつけて下さい」
「分かった、ごめんなさい」
「いいっすよ」
無理やり作った笑顔では無さそうだったので、名字は心の中で一息ついた。
しかしすぐにバタン!と勢いよく扉が閉まった音が、響いて名字は反射的に音のした方へ視線を向ける。
「あー、また誰か来たねー」
予期せぬ来訪者に束の間の安息になってしまった。先程の私達と同じように二人の男女が扉に背を向けて息を乱していた。
「……これで17人っすか」
「え?」
「ここにいる人数っすよ。17人で……。しかも、みんな高校生って……。これ、どういう事っすかね?」
――彼の言っている意味が分からない。
それは名字だけでなく、この場にいる全員が思ったことだろう。注目を浴びていることに気付いた彼は、困ったように笑った。
「俺は天海蘭太郎っす。先に、名前だけは言っておくっす。けど、今はそれで勘弁してくれないっすか?」
彼が名乗ったところで、ザワッと空気がどよめいた。何人かが彼――天海蘭太郎の真意を推し量ったらしく、彼を見つめていた。
「つーか、17人がどうしたんだよ。これからまだ増えるかもしれねーだろ?」
「いや、多分これで揃ったんじゃないっすか?俺の想像通りの事態ならね」
「能力者みてーな口ぶりしてねーで、分かってることがあるならハッキリ言え!」
しかし名字を含めてその真意が分からない者もいた。現にシャツを胸元まで開いた少女が天海蘭太郎に詰め寄った。その時だった。
「きゃははははっ!くまたせー!」
「きゃああああ!」
先程、名字達を追いかけてきた機械が五体も現れた。青色や桃色や黄色などはいくつか道中で見たことがあるが、赤や緑は初めて見た。
「クソッ!すっかりバケモン共に囲まれてんじゃねーか!」
「あ、バケモノじゃないよ。こいつは"エグイサル"って言うんだ」
「高機動人型殺人兵器なんやでー」
「さ、殺人兵器!?」
こいつは?名字はこの機械の言うことに引っかかった。
「じゃあ、エグイサルに乗ってるのは誰?」
意識はまた別の名前があるような言い方だ。おそらく中にパイロットがいる、というこだ。
「あれ?オイラ、エグイサル乗ってる!?」
「何、言うてんねん。さっきから乗ってるやないか」
「あっ、ホントだ!」
「段取りミスっちゃったわね。初登場の時はエグイサルに乗らない予定よ」
「ちゃんと段取りを確認しないのがわりーんだ!」
「……」
名字は目の前にいる機械の脅威度を下げた。あまりにもチームワークが取れていないからだ。
「とりあえず、今から降りましょうか。まだ遅くはないはずよ」
「そ、そうだね!そうしよう!じゃあ、いっくよー」
上手く行けば隙をつけるかもしれない。問題はどうやって巨大な武装機械――エグイサル相手に対抗するか。名字が謀をしていたときに、コックピットから勢いよく、何かが噴射した。
「モノタロウ!」
それは空中でくるくると回りながらポーズを決める。
「モノスケ!」
各々叫ぶのは自分の名前?なのだろうか。
「モノファニー!」
左半分が真っ白で、もう半分がパーソナルカラーだろうか。あの機械の赤、青、黄、緑、ピンクと共通している。
「モノダム」
つぶらな右目と稲妻のような右目。それにつられて右半分も三日月のように口が歪んでいる。
「モノキッド!」
名字の膝に届くかどうかぐらいの小さなヌイグルミたちが今、目の前で地面へと着地した。
「五人揃ってモノクマーズ!」
そして華麗にグループ名?を名乗りあげた。彼らはあれ?と言うかのように名字達の顔色を伺う。きっと拍手の一つや二つ期待していたのだろう。しかし、名字達は呆気に取られていた。
「お、おいあのヌイグルミ共はなんだ?どうして動いてやがんだ?」
「さぁ?どうしてかな?」
「けど、動くヌイグルミって言えばさ……」
「しかも"モノクマーズ"と名乗っていたぜ」
「えっ、待って!あなた達、モノクマーズって名前なの!?」
最後に入ってきた少女が緑のモノダムに質問をするが、反応しない。
「あぁ、モノダムに聞いてもダメだよ。過去のイジメが原因で心を閉ざされているから、仲のいい友達としか喋ってくれないんだ。ねーモノダム?」
「……」
「モノダム、オイラにも心を開いてくれないんだね……!」
――なかなかヘビーな過去だ。仲間であるモノタロウですら無視するとはなかなか深刻な気がする。
「やっぱり想像通りの事態だったみたいっす。けど、誰の仕業なんすか?どうしてこんなふざけた真似事を」
「あー、ゴチャゴチャうるせーな!キサマラのリアクションは普通すぎてツマンネーよ!」
「て言うか、よく見ると格好も普通だね?」
「なぁ、ひょっとして"最初の記憶"がまだなんちゃうか?」
「えっ?あれはあいつらが目を覚ます前に終わらせてるはずだけど……」
「オイ!キサマラは何者だ!」
いきなり大声で投げかけられた質問に名字の心臓が、大きく跳ねた。青いヌイグルミ――モノキッドの何者か?という質問の意味合いが分からない。
誰も答えないでいると、黄色のヌイグルミ――モノスケが「なんや、凄い才能とか持ってへんのかって聞いとるんや」と付け加えた。
そこで漸く理解した名字は自問自答した。
――凄い才能?どうなのだろうか。私は持っているのだろうか。
「分からない」
答えは分からなかった。才能を抜きん出たスペックだとするなら、名字には確かめようもなかった。名字は自分自身の能力を誰かと比べたこともない。何かに熱中出来るほど打ち込んだものもなんてなかった。
しかし、持っていないことの証明にもならない。もしかしたら、まだ自覚していないだけで、才能の原石が名字の中に眠っているのかもしれない。現に「キミには才能がある。」そう言われたのだ。ただ、奴は何の才能かも明言しなかった。もしかしたら冗談かもしれない。皮肉かもしれない。しかし本当かもしれない。
そういう可能性も含めての、分からないだった。名字と同じような思考をして、結論に至ったかは別として、他の皆も「ない」「分からない」と答えていた。
「な、なんやて……。キサマラには才能があるんや!どういうこっちゃ!」
「せっかくの才能を忘れて、モブキャラの高校生になっちゃってるみたいね」
「オーマイガー!」
「もう"超高校級狩り"の設定ってされてたっけ?」
「何いうんてのや!ンなわけあるかい!」
名字達の返答にてんやわんやのモノクマーズを横目で見ながら、名字は天海を盗み見た。彼だけが何も答えていなかったからだ。おそらく、この場にいる人間の中で彼が最も状況を把握出来ていることは間違いない。
「とりあえず、キサマラにはさっさと"本当の自分"を思い出して貰わないとね」
「そうよ!記憶を取り戻して、封印されし才能をその手に掴むのよ!」
「よく分かんないんだけど、その封印されし才能ってなんのこと?」
「質問が多いよ!全然、話が進まないよ!まだこれプロローグなんだよ!?」
「メタはやめーや!いいからとっとと始めるで。モブキャラの喚く姿なんてオモろないわ」
「じゃあ、まずはその地味な見た目から、おキャワたんにしてやるぜー!」
「おきゃわたん……?」
さっさと天海に確認を取ろうと思ったところで、エグイサルからまた何かが噴出される。今度は数が多い。モノクマーズの倍以上はある。体育館の照明による逆光で黒いシルエットになっていたそれらは服だった。
ブレザーに、学ラン。セーラー服。それらがどこかの学校の制服だと分かる頃には、名字の身にまとわりついていた。花びらのようなボリュームのあるスカート。ぶかぶかだったパーカーの代わりにセーラー襟のトップスが違和感なくフィットする。
もはや別人のようだった。シンデレラもびっくりの早業で、名字達17人はお着替えさせられていたのだ。この格好で外に出ようものなら、指を差されそうな個性的な衣装に。
「うん、いいわね。超高校級にぴったりの見た目になったわ」
「さて、次はお待ちかねの記憶やな」
「ヘルイェー!覚悟しろよっ!この封印が解けたらコロシアイの世界だぜ!」
「さぁ、思い出しライトでわんだふるな才能を思い出してもらったら……。今度こそわんだふるな物語の始まりだよー!」
――不味い。
名字の何かが警鐘を鳴らした。何が?どうして?そんなことを考える暇もなく、反射的に名字は頭を抱えて、しゃがみ込む。一瞬、誰かが懐中電灯のようなものを取り出したのを最後に、名字の意識は途切れた。
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