PROLOGUE:001


天海蘭太郎は暗闇の中にいた。理由は分からない。気付いたら此処にいたのだ。あやふやな意識の中、天海は手を伸ばした。硬い鉄のような感触がした後、ギィ、と歪な音を立てて暗闇が消えていく。明るくなった視界に天海は咄嗟に目を瞑っていたが、それもすぐに慣れて、二三回瞬きをする。

天海の前には、見知らぬ光景が広がっていた。

「なんなんすか、ここ……?」

一歩、踏み出してみると、そこは教室だった。

黒板の代わりに、壁に備え付けれた緑色のモニタ。同じように小型パネルが設置された机。アナログに見せかけたデジタルな教室だった。

目にしたことのない異様な風景の中、特に目に付いたのは窓枠にまとわりつく紅の有刺鉄線。その窓枠自体も鉄格子のようになって、まるで獲物を逃さないようだった。

薄暗く、モニタの緑の光がこの教室を僅かに照らしている。暗闇の中の非常口を思い起こさせるその様子が近未来で、退廃的で、異常。そんな印象を天海は受けた。


天海は後ろを振り返った。自分がどこから出て来たのか。それを確認するために後ろを振り返ったのだが、拍子抜けだった。開かれたロッカーと閉じられたロッカー。この二つしか扉らしきものは無い。信じられない気持ちがあったが、先程自分がこのロッカーから出てきた、と天海はそう思った。

「うわっ」

ガコン!と大きな物音を立てて、閉じられているロッカーが揺れた。天海はとっさにロッカーから距離を置き、身構えた。それは一秒だったか、一分ほどだったか。閉じられていたはずのロッカーが一人でに開き、深淵を覗かせる。

――あぁ、やっぱり。
ロッカーの中から出てきた少女を見て、天海はようやく確信を得た。きょろきょろと、不思議そうにあたりを見回して、少女はぼんやりと天海に目を向けた。

「誰っすか?」
「私?」
「そうっす」
「……」

少女の顔が少し陰った。ちら、と天海のほうを見ては一つ深呼吸をする。

「私の名前は、名字、名前」

――名字名前。聞いたことのない名前だ。いや、初対面だから当然っすね、
天海はどこか引っかかりを覚えたが、すぐに思考の外へと追いやった。

「俺は天海蘭太郎っす」
「ふうん……。ここに来る前のこと覚えてる?」
「ここに来る前っすか」

天海は名字に指摘されて、思い出そうとしたが、出来なかった。何か言葉を放とうとした口からは何も出てこない。テレビのノイズが走るような感覚がした後、記憶はひたすら空白のままだ。何も無い。分からない。

「すみません、何も思い出せないっす……」
「そうなの?」
「名字さんは?」
「私も……」

名字は顔を俯かせて答えた。天海も項垂れたかったが、そういう訳にもいかなかった。目の前の女の子をどうするか、天海はどうしたらいいのか、悩んでいる内に妙な間が生まれてしまった。

「おはっくまー!」
「うわっ」

そんな空気を突き破ったのは、底抜けに明るい挨拶だった。独自の挨拶と共に、ぞろぞろとカラフルなクマのぬいぐるみが突然生えてきたのだ。左右非対称なアシンメトリーなデザインは不気味さと可愛さを備えているが、可愛さ余って憎さ百倍。そんな言葉が何故だかよく分からないが天海の中で湧き上がった。

「オマエラ起きたんだね!おはっくまー!」
「おはようございます?」
「もう昼過ぎやけどな!」
「それじゃあこんにちは?」
「これってどっちになるのかしら?」
「ヘルイェー!おはようございます?こんにちは?ナンセンスなアイサツなんてどーでもいいんだよ!いつでもどこでも、おはっくまー!それでOKだぜ!」
「じゃあ、おはっくまー」
「おはっくまー!」

――馴染みすぎじゃないっすかね?

名字がクマのヌイグルミに混じって挨拶を交わしていた。あまりにも自然に会話に交じるものだから、天海は自分の頭の方がおかしくなってしまったのではないか、と錯覚するほどだった。

いや、それは違うっす。こんな分からない状況に放り込まれて、危機感を覚えるのが普通だ。

天海は自分の感覚を取り戻した後、名字を見た。――名字は一体何者なんだろうか。
このクマのヌイグルミを見ても、不可解なこの事態を、平然と受け止めているように見えた。

――普通は驚きの声を上げたり、パニックになるもんじゃないっすか?

次々に疑問がむくりと天海の中で芽吹いたが、それよりも気になることがあった。

「もしかして、俺らに何かした犯人なんすか?」
「ギクゥ!」
「そんなわけあるわけねーだろ!余計なこと言うと地獄送りにしてやるぜー!」
「アカン!モノキッドが一番余計なこと言うとる!」
「どうするの!?収拾使わないわ!?」
「……」

あぁでもない、こうでもない、とここまで分かりやすいとわざとらしすぎて、天海は逆に疑いそうになっていた。

「じゃあここはどこなんすか?」
「ここは才囚学園だよ!」
「才囚学園?」

天海には聞き覚えがなかった。名字を見ても、同じように不思議そうな顔をして群がるクマのぬいぐるみを見つめていた。

「才囚学園は超高校級を集めた学園なんだぜ!」
「ちなみに生徒数は17人よ!」
「もちろん、超高校級は分かるよな?」

黄色いクマがメガネを光らせて、天海たちを見た。名字と天海は顔を見合わせたが、その顔は才囚学園という言葉を聞いた時と、同じ顔だった。

「ウッソやん!オマエラ超高校級も知らんのか!?」
「スマホの使い方が分からないおじいちゃんでも知ってるよ!?」
「違います。超高校級のことは分かるんすよ」
「えぇ?どういうことなの?」

超高校級とは、ギフテッド制度のことだ。政府から認められた優秀なギフテッド(天才、英才)に対し、将来の発展のため、様々な特権や環境
を与えられる。
ハードルの高さと超高校級になれば、今後絶対安定という至れり尽くせりの待遇から学生の憧れでもある。

ここまでは天海も知っている。だが、腑に落ちなかったのは天海自身が超高校級の才能を持っているということだった。

人から賞賛されるほど何か得意なことや秀でたことがある訳でもない。そもそも超高校級なんて、遠い夢のような別世界の出来事だと思っていたぐらいだった。

「マジかよ、信じられねーな!」
「大事な超高校級の才能忘れるなんて、もったいないよねー」
「じゃあ俺の才能を教えてください」
「……ゴメン、オイラ達にも分からないや」

――なんで、俺の才能を把握してないんすかね?

訳もわからない場所に突然連れてこられ、身に覚えのないことを言われ、犯人と思わしきクマのヌイグルミに説明を求めたら「分からない」である。天海は頭を抱えそうになった。

「でもちゃんと超高校級のハズよ!それだけ間違いないわ!」
「せやな、超高校級やなかったら才囚学園におられやんからな」
「1つアドバイスするとしたら他の生徒と話してみたら思い出せるかもしれねーぜ!つー訳で……」

逃げられた、と天海が思う頃にはばーいくまー!と掛け声と共にぬいぐるみたちが消え去っていた。

「どうする?」

呆然とする天海に名字は声を掛けた。そのおかげで、天海はハッとして冷静な思考を取り戻した。

「人を探しましょうか。俺達以外に誰かいると思うんで」
「手分けして探す?そっちのほうが早いと思うけど」
「そうっすね……。いや、何があるか分からない状況で単独行動は危険っす。一緒に行きましょう」
「分かった」

名字は扉を少しだけ開けて、外の様子を確認してから外へ出た。天海もそれに続いて出る。
扉の先に続いていた廊下の床や壁は、雑草やら苔で覆われていてた。壁伝いに剥き出しになっている配線やパイプも相まって、放置された廃墟を思い起こさせる。

「そういえば名字さんは何の才能あるんすか?」

天海より1歩先を歩いていた名字がくるりとこちらを振り返った。口元に手を当て、考える仕草をしてから名字の口がゆるりと開く。

「私は超高校級?の観察者……らしい」
「らしい?」
「周りが勝手にそう騒いでたから。観察者にするか観測家にするかって。どっちでも一緒な感じがするのに、変なの」

どこか他人事のように語られる様は、超高校級の観察者という肩書きのせいかな、と天海は思った。それと同時に名字自身が浮世離れしている印象もあった。

「でも超高校級というのは初めて聞いたかな」
「そうなんすか?」
「うん。そんな制度があることも知らなかったし、興味もなかった」
「興味なかったんすか」
「うん」

今どき、小学生が将来の夢に超高校級になりたいです!と書くような時代だ。そんな時代の中で名字は興味ない、と一蹴している。天海の説明を聞いた後でも、だ。

――なんだか、変わった人っぽいっすね……。

目の前の少女は、何故かどこか遠いような気がした。

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