忘れたいと強く願えど
「またあの夢か」
シーツの海に沈んだ体を起こそうとしたがやめた。指先がひんやりと冷たい。照明の場所なら、分かっているはずなのに、ひどく動揺しているのか、ゴソゴソと手探りで間接照明をつけた。
心臓にナイフが突き刺さっているようにズキズキと痛む。それが、あの日の熱を思い出させた。間接照明をつけたおかげで、部屋が暖色に包まれた。だが、相変わらず未だ闇の中にいる気分だ。
あの日、彼女を包んでいたジャスミンの香りと、無慈悲な雨は今も私を離してはくれない。
「影山君! またこんな所で練習サボってるの?」
その日、私は部室の裏側でぼーっ、と、蟻が巣穴に砂糖菓子を運んでいるを見つめていた。サッカー部のマネージャーである〇は、いつも通り私を探しに来て、母親のようにガミガミと説教を私の頭上めがけて落とす。昨日も、一昨日も、先週もそうだった。
私は、蟻がどこで砂糖菓子を見つけたのかをぼんやり考えながら「何の用だ」と、返事する。
すると彼女は、肩をすくませた後、私に目線を合わせるようにしゃがんだ。
「冷たいなぁ 響木君が探したよ」
「……放っておけ」
近い。
目線を上げれば彼女の長いまつ毛が、私を刺激するだろう。目を合わせないようにして立ち上がる。そうやって、光から逃げようとしたのに、なぜか彼女も同じように立ち上がった。
いくら冷たくあしらおうとも、彼女はしつこく私を追いかけ回す。場所を移動しても、何をしようとも、彼女は私の隣にピッタリと寄り添うように立る。
そして「ほら、練習行こう! 来てくれなきゃ、私が響木君に怒られちゃうんだからね!」と、聖母のような微笑みを向けてくるのだ。苦手だった。
陽だまりのような笑みも、春を思い出させる柔らかな声も、ほんのりと日焼けをした健康的な肌も、生徒にも教師にも好かれる人当たりのいい性格も、それを私に向けてくる無神経さも、全てが苦手だった。
「知ったことか」
「ねぇ、影山君はさ……サッカーが好きだから、サッカー部に入ったんでしょ?」
「違う」
「え〜絶対、違わないよ! だって、影山君サッカー上手いじゃん。上手いって事は好きって事だよ、好きだから上手くなるんだよ」
「好きでも下手な奴だっているだろう。そもそも、サッカーに好きなんて感情はない。……大切な人が好きだったものだから、追いかけている。それだけだ」
言い捨てて逃げようとすると、咄嗟に腕を掴まれた。腕に伝わってくる彼女の熱が怖くて、勢いよく振りほどく。
「あっ……」
思った以上に力が弱かったらしい。彼女は間抜けな声を上げて、バランスを崩すと尻餅をついた。健康的な臀部が地面とぶつかった時の鈍い音が耳に刺さった。謝らなければ。一瞬、考えたのだが声が出なかった。怒っただろうか? 恐る恐る地面に転んでいる彼女に目をやった。〇は、怒った表情一つ見せずに笑った。
地面に張り付く影が、〇の顔にかかり灰色がかっていた。自分のせいで、健康的な肌が曇ってしまった事に罪悪感を覚え、私は彼女から3歩後ずさる。
「えへへ、転んじゃった!」
「…...わざとじゃない」
「分かってるよー! 影山君は、そんな事しないから」
「私のことを何も知らないくせに、よくそんな事が言えるな」
「う〜ん……それはそうなんだけどね? 大切な人が好きだったものを、追いかけるために、サッカーを始めた影山君がどうも……悪い人には見えなくてさ」
ヨイショ!
色気のない声を漏らした後、彼女は立ち上がり「腰ぶつけた〜痛〜い」とケラケラと何が面白いのか笑う。
「……気持ちの悪い事を言うな」
「あはは! 響木君にもよくお節介って言われるし、お母さんにも人の良い所だけを見るのはやめなさいって言われる」
「……お前と喋っていると疲れる。分かった。練習には出る。だから、さっきの事は他言無用だ」
「おっ、二人だけの秘密ってやつだね」
グッと拳を突き出してニヤっと笑った後、彼女はまたもや目眩がする程の笑顔を宿した。馬鹿なのか? いや、お節介を焼くことで自分の存在を、世界に認めさせたいだけの痛々しい人間なのだろう。関わらない方がいい。心で何度も、そうやって唱えても、涼しい風が二人の間を通り抜けていく度、〇に思いを焦がしている自分を嫌というほど意識する。
「じゃあ行こうか」
「先に行け」
「えっ! なんで?」
「お前と一緒にいるところを見られたくないからだ」
「な〜んだ! そういうことね! も〜、影山君も男の子だね」
クスクス。鈴がコロコロと風に乗って転がっていくかのように、愛らしく小さい笑い声を漏らし、彼女は足早にグラウンドの方へと向かった。〇の背が小さくなっていくと、途端に胸が苦しくなった。幼い頃、ホットケーキを胸焼けしてしまう程食べた日曜日を思い出す。母が大きなフライパンでホットケーキを焼いて、父と競うように食べて、パジャマに甘い香りをつけたまま父ともう一度眠りについた。胸焼けをしたせいで、どくどくと心臓が激しく脈打っていたのを覚えている。
そう、今の心臓とまったく同じだ。自分の心臓の速さに怯えて、私は肩と膝を震わせた。
「なんだこれは」
汚れひとつ付いていないユニフォームの胸元に手を置く。ドクドク! と、まるで楽器のように心臓が激しく鳴っている。皮膚を突き破ろうとしているのではないかと思い、怖くなった。
20180618
20230704 加筆修正
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