優しさは消えはしない

 それからというもの、彼女が頭から離れてくれず、走り込みの最中も目を離せずにいた。追い求めていたものから目を逸らして、初めて見る光に目を細める。そんな陳腐なものを欲している自分に心底驚いた。
 何周目か忘れてしまった走り込みの最中。一瞬のタイミングを逃さずに、選手達に配る為のドリンクや、タオルを嫌な顔一つせず、ベンチに並べていく彼女を見つめる。その、柔らかそうな指先に見惚れてしまった。
 走り込み終了のホイッスルが鳴る。部員達は、彼女の並べたドリンクに一斉に手を伸ばした。私は、一番乗りでそれに手を伸ばせるような人間ではない。だから後ろでその景色を眺めていた。
「影山君、はい」
 彼女はいつの間に自分の横に来ていたのだろうか……。
 スクイズボトルとタオルを私に手渡して、またいつも通りに優しい笑顔を見せた。
「今日はちゃんと練習してくれて嬉しい」
「体がなまるからな」
「本当はサッカーしたいんでしょ?」
「それはない」
 冷たいスポーツドリンクが、火照った体内に染み込むように広がっていく。沈黙の後、彼女は「もう影山君ったら素直じゃないんだから」と、呆れたように眉を垂らして私の二の腕をぽんと優しくグーで叩いた。
「休憩終了だー! 次、パス練習するぞ!」
「ほら、ドリンク預かっとくから……! パス練習頑張ってね影山君」
 そう言って、彼女は私の手の中にすっぽりと収まっていたスクイズボトルを奪い、ベンチの方に走っていく。その後ろ姿に目を奪われるも、円堂大介のビリビリと響く声のせいか、我に帰り。私はグラウンドの中心へ重たい足を向けた。


 パス練習中、備流田のタックルのせいでバランスを崩し、二人して倒れ込み膝に激痛が走った。「ラフプレーにも程があるぞ、いい加減にしろ!」と、円堂大介の怒った声が耳に響く。倒れ込んだ地面は太陽のエネルギーを含んでいるというのに、じんわりと冷たい。まるで今の自分のようだ。早く離れたくて備流田を投げ捨てるように退かし、水道に向かった。
「影山……! 待て保健室まで連れていく!」
「監督の力を借りなくても平気です」
「だが」
 円堂大介を押し退け、私は歩く。思ったよりも血が出ているな。ピリピリと痛む傷口を早く洗い流したいが、馴れ馴れしい部員達が様子を見に来るのも気持ちが悪いので、少しだけ離れた部室付近にある水道まで歩いた。蛇口をひねり、靴下を脱ぐと私は水を膝に当てた。塩でも塗りこまれているような、刺す痛みに顔が歪む。
「影山くーん!!」
 グラウンドから走ってきたのか、彼女はゼーハーとだらしなく息を荒らげていた。
「傷、みせて」
「大した事ない」
「ダメ! ちゃんと見せて」
「この程度の傷だぞ、どうってことない」
 大きく擦りむいた傷口を見せれば、彼女は「もう〜」と頬を膨らませ、愛らしい桜色したハンカチを取りだす。そして、それを濡れた膝に当ててきた。
「……なんの真似だ」
「大丈夫、これ綺麗なやつだから。ほら、抑えててね今救急箱取ってくるから!」
 ハンカチには少女趣味なキャラクターがプリントされている。その位置に、私の血が滲んだ。それがどうしても申し訳なくて、抑える力を弱めてみたが、私は彼女のハンカチをどけることは出来なかった。なんなんだ、一体。
 暫くそのまま待っていると、彼女は大きな救急箱を片手に戻ってきた。
「取ってきたよ ほら、消毒するから傷見せて」
 彼女は手馴れた様子で傷口を消毒すると、大きめの絆創膏を貼ってくれた。どうすればいいか分からず握り締めていたハンカチに気付いた彼女は、手を伸ばしそれを手に取る。
「血が付いてるぞ」
「いいよ」
「いや、洗って返す」
 桜色のハンカチを彼女から奪い取るようにして受け取ると、ふっくらと緩めた頬を見せ彼女は「ありがとう」と、言った。礼を言うのは私の筈なのに、感謝の言葉が上手く喉から出て来ず、彼女の貸してくれたハンカチをただ強く握り締めることしか出来ずにいた。




20180619

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