「――ベポ!建物が見える!」
マングローブの幹の間を走り抜けて数分、徐々に幹の間隔が遠くなり辺りに広さを感じるようになって刹那、二人の目の前に開けた視界。薄っすらとしか入ってこなかった太陽の光をダイレクトに浴びて、眩しくて少し目が眩んだ。
「ようやく抜けたなぁ」
緑ばかりの景色だった場所から打って変わって目の前に広がった、白の建物たち。振り向いても追ってくるものは何もなく、とりあえず一安心と、一つ息を吐き仕切り直す。
楽しそうに人々が通り過ぎ少し賑わいを見せるその場所に、もしやここが30番地区かとベポと顔を綻ばせ辺りを見回した。
通りがかりの話し易そうな女性に尋ねれば「32番グローブよ」と教えてくれた。ドンピシャで行きたかった場所に辿り着けるなんてラッキー、今日はついているのかもしれない。
「ベポ何か見たいものある?」
「うーんおれは特にないな。行きたいところ行っていいぞ、ライと散歩できるだけで嬉しいからな、おれ」
そう言ってくれたベポに微笑んで、彼の腕をとった。はたからみればデート…には見えないだろうけど。
とりあえず辺りを散策しようかと、歩き始める。人がいっぱいだ、と久しぶりに歩く人混みの中、ふと思い出された日本の都会の風景。変わらないな、と思う。前にも同じような事を思い、平和だと感じた。すれ違うカップルや親子の笑顔。島々にそれぞれの人間模様が溢れていて、そう、この世界は海賊だけが生きている世界ではなくて、一般人もこうして普通に生活をしているんだって改めて考えさせられる。
「お、あれ美味そうだな」
「ふふ、じゃあ最後に食べよっか」
そう明確に思うようになったのは、己が"海賊"に染まってきた証なのだろうか。ビクビクしながら歩いていた頃の自分が懐かしいと、…しかしそれを思えば、こうして歩いている途端に事件が起こってもおかしくはないという事実が頭の片隅に思い起こされた。
忘れたワケではない、ここは"あの有名な"シャボンティ諸島。表の華やかさの裏で、残虐な世界がこの島には蔓延っていることを。
「――やめてくださいっ!!」
「「!?」」
その時。甲高い女性の、悲鳴にも似た声が響いた。ガヤガヤと賑わっていた音が一瞬にして消え、数メートル先を歩いていた者達が足を止めたものだから自ずと足を止めざるを得なくなって、そうしてその先に人の塊が出来ているのを見つける。
「海賊か?」とベポが言うので、野次馬のようにその方へと足を向けるも、前で立ち止まっていた人々が途端散り散りに去って行った。見てはいけないものを見てしまったかの如く焦ったように去る者、関わろまいと見て見ぬふりをして行く者、そして、未だその場から動く事が出来ない者。そうして疎らになった人だかりから見えた数メートル先の光景は、いつか見た場景よりも性質の悪いものだった。
「このおなごはワシがいただくえ〜!」
「お願いです、マリアは私の婚約者ですっ、どうか――」
お世辞にもダンディとはいえない顔、体系をし、白かシルクだか何だか分からないがとりあえず高級そうな服を身に纏い、シャボン玉を被っている小太りな男。その小太りな男に腕を取られ逃げるように腰を屈める華奢で可愛らしい女性。その小太りの男の前で跪き懇願する誠実そうな男性。
「助けた方がいいかな」そう言ってベポが一歩踏み出したのを、ライは止めた。本当なら自分もそうしたいところではあるが、この場合そうする事は許されない。現に周りにいる誰一人として、助けようとはしていない。そうしてはいけない理由がここに―いや、世界にはある。
「…天竜人や」
「あれが…天竜人?」
その小太りな男は、その見た目に相応しいと言っていいのか悪いのかはこの際どっちでもいいが、天竜人と呼ばれる世界貴族―最も誇り高く気高き血族として世界の頂点に君臨する者のうちの一人。その存在は絶対で、権力は絶大。彼等のバックには世界政府がいて、一般人でも逆らえばその命は無いと思うのがもはや世間の常識となっている。
だから、女性を救えば己の命は無い。例え生き長らえたとしても、その後の人生にあるのは地獄よりも残忍なものだ。
「…でも、可哀想だぞ」
恐らくここにいてそれを見ている全員が、そう思っている。…いや、どうだろう。自分のパートナーが捕まらなくて良かったと思っているだろうか。矛先が自分に向かなくて良かったと思っているだろうか。
所詮、そんなもんだと思う。いくら口で正義を振り翳そうが、行動に移さなければ意味が無い。だから他人事のように思うのが正しいのかもしれない。この島の人間たちはきっと、そうやって生きている。足掻いても無駄ならば、服従するしかないから。そうして命を繋いでいかなければ、成り立たないから。
「彼女だけは――」
「ええいっ、うるさいえ!」
パァン_!!
「「!!!」」
銃声の後、悲鳴が散った。取り囲んでいた幾人かはそれを機に、この場から去っていった。
殴ってでも、脅してでも、本当は彼女を守りたかったに違いない。そう出来ない自分を情けなく思っていたに違いない。それでも、その感情をグッと堪えて、土下座をして彼は懇願した。そうすることでしか、守れないから。そうすることでしか、反抗できないから。
「ジャンさんっ…!そんな…っ…!!」
けれどもそんな男性の誠意を呆気なく撃ち放した、小太りの男。足元に流れてくる赤い液体から「汚い」と言って一、二歩遠ざかる姿が余計に勘に触る。腕を取られたままの女性は泣き崩れ、既に抵抗する気力を失っていた。
「……ライ、」
腕に絡み付いていた己の手に力が篭ったのに気付いたベポが「どうする」と言うように見下ろしてくる。
…分かっている、ここで手を出せば己の命が危うくなる事も。それだけじゃない、もしかしたらハートの海賊団に危害が及ぶかもしれないことも。それ以前に、確実に船長に怒られることも。
「ウチがなんとかする。…ベポ、他の天竜人とか、近くに海賊は見える?」
「……いや、見える限りではいないぞ?」
だからと言って、見過ごせそうには無い。…ずっと、思っていた。こんな横暴な"我侭"が罷り通っていいわけがない。世界最高峰だからといって人の命をぞんざいに扱っていい訳がない。
それはきっと、自分が元々この世界で生きて来ず、紙面上で見てきたからこそ湧き出る感情。言ってしまえば怖いもの知らず。だって知らないんだもの――麦わらの彼と、同じように。
命をこんな奴の為に終わらせたくはない。かといってハートの海賊団も巻き添えにしたくない。第一に、船長に怒られたくない。
「――"schaum"」
そう思うならば、――バレなければいい。
「――っ、な、なんだえ!?」
突如小太りの男の足元から湧き出た、"泡"。それは一瞬にして辺りを白く染め、ただ一人―その小太りな男に纏わり着いてく。周りに群がっていた野次馬も突然の"天災"に驚いてワーキャーと喚き出し、その場をパニックが支配していく。
「っなんだえー!た、たすけるえー!」
「ベポ、行くで」
「う、うん」
小太りな男は"泡"から逃れようとジタバタとし、そうして開放された女性は泡の中へ倒れこんだ。
ライはベポに二人を担ぐよう言い、慌てふためく群集の中をどさくさに紛れて抜け出した。