花魁時代〜産屋敷邸に仕えるまで1
「心にもあらでうき世にながらえへば恋しかるべき夜半の月かな…」
「艶菊花魁、今、何て言いんした?」
「有名な百人一首さ。あんたにはまだ難しくてわからないだろうねぇ」
つまらなそうに小首を傾げる禿の頬をつつくと、何が面白いのかくふくふと笑い出した。その様子がなんだか可愛く見えて、さらにつついてやるともっと笑い出したので、私もつい笑みが溢れた。
「花魁、やめてくだされぇ〜」
「ん〜?」
きゃっきゃっとはしゃいで逃げようとする幼い体を捕まえて、今度は両頬を掌で包んでやわやわといじくった。
餅のように柔らかくまろい頬をしたこの少女は、齢8つになったばかりだという。その年齢の禿は腐るほどいるし、かく言うかつて私もそうだった。
罪なき無垢な幼子を、大人が汚れた手で誑し込む…止むことのないこの悪しき連鎖を、嘆かずにいられようか。
§
物心ついた時にはもう籠の中の鳥だった。自分が何者で親が誰なのかも知らぬまま、ただただ"女"になる為に教育を受けた。
右も左も女だらけ、夜になれば男どもが群がって、嫌な匂いを放ちながら騒ぎ散らして朝になったら去ってゆく。そしてまた夜が来る。
幼い頃は男女がべったりくっついて裸を舐め合う行為の意味がよくわからなかったが、直感で"ああはなりたくない"と思っていた。
遊郭の入り口には大きな大きな、たいそうご立派な門がある。それは"普通の世界"との境界線だ。
ここを"夢の世界"だと宣う者もいたが、それを聞いた時私はこいつは何を言っているのかと思い慄いた。
ここは"地獄"に決まっているだろうと。
『絶対にいつかあの門を潜り抜け、普通の人間になるんだ』
そう固く誓ったのは何歳の頃だろう、あれから何年経ったのだろう。
§
13歳の冬、私は初潮を迎えた。
「ほぉぉおう……上玉だ、上玉だ……色よし、締まりよし……こりゃ天から賜った儲け物だな!ガハハッ」
──気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、触るな、近寄るな!!
身から込み上げる不快感と恐怖に逃げようとするも、両脚を掴む手に力が込められてしまってはそれは叶わない。
ぬちゃぁっと嫌な音と粘りつくような感触が内腿を伝い、ゾゾゾっと肌が泡立った。
「そう怖がらんでよい……儂は20年もこの妓楼を贔屓にしている手練れだで? 悪いようにはせん……お前さんの珠のような肌を傷つけては、売り物にならんと楼主に煩く言われるのは目に見えておるからな。大人しぃく身を委ねていれば終わる……」
"売り物"
幼少の頃からさも常識のように刷り込まれた概念は、私の心を打ち砕いた。
──嗚呼、この爺も人ではないんだな。
強張る体とは裏腹にどこか冷静な思考の中で悟った。人であるならば、そんな言葉を私に言えるはずないのだ。まるで意志のない人形のように扱うはずないのだ。
日々積り続けた絶望は、この時いよいよ零れ出した。
「お前はいずれ廓中に名を馳せる女郎になるはず……儂にはわかる……花魁も夢じゃないだろう。水揚げを仰せ使って光栄じゃよ、ひひひっ」
爺はニタァと気味の悪い笑みを浮かべながら、愉しむようにゆっくりと私の体を貪り始めた。
カタカタと震え、目尻からは滴がぽたぽたと溢れる。叫びたくてたまらないのに、声が出ない。
あの日私は絶望の海にのまれ、心が空っぽになった。
2020/5/1
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