星が瞬く夜でした
野原を駆け回る赤の鬣は、まるで暁のような寂しさもあれば焔のような激しさもあった。無邪気な笑い声に誘われ足を踏み出せば振り向いた女怪は乖燐に会釈をしてから微睡みの中に消えていく。突然消えた温もりに驚いたらしい赤の鬣をもった幼齡の麒麟も勢いよく振り返り、それから大きな瞳を何度も瞬かせた。
心の蔵を射抜かれたような衝撃に、乖燐は思わず立ち尽くす。
「こんにちは」
心燐にしてみたら女仙以外の存在をこの蓬山でははじめて見たので、しかもそれがあちらで良く見ていた黒い髪をしていたものだから酷く驚いた。どうしてかその女性も驚いたように目を見開いていた。声をかけたのはそれが礼儀であると知っていたからだ。
「あの……あなたは……心台輔、でいらっしゃいますか?」
「えと、ここでは、そう、呼ばれています」
「そうですか」
ほ、としたように息を吐いた女性を見て、心燐も同じように息を吐いた。
「あの、あなたはどちら様ですか?」
「! あ、ええと、すみません、私は―」
近づいてみれば、自分よりもずいぶんと年若な麒麟の髪はより一層燃えたぎる焔のように見えた。なんと美しい鬣なのだろうか。まだ幾ばくか短いように感じるが、成長とともに鬣も美しく伸びていくことだろう。転変した姿をぜひとも拝みたいものだ。
小さな背丈に合うようにかがみ込めば、大きなまん丸の瞳がぱちくりと乖燐を見つめた。
「私は、櫂州国の麒麟です」
「ええ!じゃあ私とおんなじなの?」
―台輔。礼を忘れてはなりません。
「あ!ごめんなさい」
恐らく己の女怪が潜伏しているであろう方向に問いかけ、何かを言われたのだろう。ずいぶんと慌てた様子で乖燐へと向きを変え、頭を下げる仕草をして見せた。しかしその頭が下がることはなく、心燐は困惑したように眉をさげた。
「あれ?」
「ああ、よいのです。麒麟は己の主以外には決して膝を折れぬ生き物なのですから」
やんわりと乖燐が告げるが、納得出来ていない様子だった。
その時乖燐は女仙に言われた言葉を思い出した。心燐はまだ麒麟としての自覚をお持ちでない。それは今まで全く異なった環境に身を置いていたのだから仕方の無いことだし、すぐにこちらに慣れろと言われても無理な話だ。何せ生まれてから数年間、彼女はただの人として生きてきたのだから。それも他の胎果の麒麟よりも遥かに長く。麒麟として生きるよりも人として生きてきた麒麟の事例など今までありもしなかったのだから。
「あ、あの、ええと、乖燐、さん?」
―乖台輔、と。
「乖台輔は、どうしてこちらへ?」
いちいち影の方を向いて確かめる様が愛らしく、乖燐の頬には笑みが浮かんだ。久しく笑うことなどしていなかった気がする。
「少し休息をと…言われまして……。蓬山へ戻ってきたのです。それで真国の台輔がお戻りになっていると聞いて……」
「私に会いにきたんですか?」
「ええ、はい。そうです」
「会いたかったんですか?」
「、はい、お会いしてみたかったのです」
大きな眼がぱちりぱちりと瞬いて、それから大きくほう、と息を吐いてみせ、頬を緩ませた。
「何か悪いことしちゃって怒られるのかと思った」
少し照れたように笑う心燐は、やはり幼い。
故郷が懐かしかろう、親兄弟が恋しかろう。屈託なく笑うあどけない表情を見て、乖燐はひとり思う。
「ここには……こちらには慣れましたか?」
「……ええと」
幼い麒麟は一瞬迷ったように目を伏せ、それから気遣うように笑って見せた。瞬時、乖燐は聞いたことを後悔した。自分より遥かに幼い麒麟を気遣わせてしまった事実に胸が痛む。
「あ、あの、」
弁明しようとしても口唇から漏れるのは言葉にならない音だけだった。
「みんな優しいです。だからはやく慣れなきゃって思うんです」
心燐はまるで自分よりも歳上であるかような落ち着いた声色で言ってみせた。真紅の鬣がさらりと風にのった。まだ幾分か短いようだけれど、成長とともに鬣も決まった長さまで伸びる。何れは美しい麒麟となることだろう。その姿が垣間見えるようで、乖燐は思わず目を細めた。直視するには、余りにも眩しかった。
「あの、乖台輔?、はどこの国の麒麟なんですか?」
「私は櫂州国の麒麟です。ここ、蓬山から南西に位置する国ですよ」
「わあ、どんな国ですか!?」
途端に無邪気な子供らしさが溢れ出る心燐に、思わずこちらも笑顔がこぼれる。―いつしか笑うことさえ、忘れていた気がする。気を張って、怯えて、強ばった表情ばかりをしていた気がする。この幼い麒麟の前では、そんな虚勢は意味を持たない。仮面が剥がされていく。心臓が早鐘を打った。
「私にも国があるんですか?」
「ええ、北西に位置する真極国が、心台輔のお国ですよ。いずれ王を選定し、共にお下りなさるのです」
「王様?って偉い人ですよね?私が選んでいいんですか?」
「真国の王……心王は心燐にしか分かりません」
「?」
「その時がくれば天啓が下りますから」
やんわりと告げられても心燐はしっくりきていない様子で首を傾げていた。麒麟としての使命を知らぬまま成長したのだ。無理もない。
「じゃあ乖台輔ももう王様を選んでるんですか?」
「ええ、もう100年余り前の話ですが」
「え!?100年!?」
その長さに心燐は驚き、何度も瞬きを繰り返して乖燐を見つめた。どう頑張っても10代後半から20代前半の女の人にしか見えないのに、実は100歳を超えているらしいのだ。驚かない方がおかしい。
「麒麟は王を選ぶと歳が止まります。王は仙ゆえ歳を取りません。私たちは同じにならなければならないのです」
「うーん、頭いっぱいだ……」
「ご、ごめんなさい」
「あっだいじょうぶです!教えてくれてありがとうございます」
「余計に混乱させてしまいましたか……?」
「ううん、大丈夫です!よ! 乖台輔の王様ってどんな人なんですか?」
にっこりと明るく笑って、心燐は足を伸ばした。単純に気になったから聞いたのだろう。もし自分が王様を選ぶとしたらどんな人なんだろう。そんな純粋な疑問。
―質問に、答えなければ。
喉が乾く。まるで血の穢れにあったかのように、脳が痺れる。敬愛する主上のことを答えるだけなのに、どうして。
「主上は、素晴らしいお方ですよ、」
遠い日、1人の男を王に据えた。
優しく、謙虚で、温かい人柄の一目見ただけで王になり得る気質を持った人だということが知れた。それは黄金のように眩い王気に身を包まれ、気づいたら跪き、頭を垂れ、誓約を交わした。今からもう100年も前の話だ。
王はすぐに国の乱れを直し、新たな規範を作り、統制していった。何もかもすべて順調で、恐ろしいほどに幸せな時間だった。―どんな幸せな時間にも、終わりは必ず訪れる。限界に気づいたとき、隣国の長きに渡る治世、その知識を羨むようになったころから、櫂州国という紙は破れ始めた。国が少しずつ綻び始めたのが60年を過ぎたころ。王は変わられた。官吏や女官たちは口々に言う。―きっと、王は失道される。近いうちに。天は王をお許しにはならないと。
草花がそよそよと揺れ、ぽたり、と涙がひとつぶ、頬を伝った。
「しゅ、主上は、優しくて、あたたかくて、天帝は、良き王を、お恵み下されたと、わたしは、わたし、は。でも、主上は、もう、もう」
強く握り締められた拳に、柔らかな感触のあたたかな何かが添えられた。小さき麒麟は自分よりも大きな麒麟を見上げ、悲しそうに眉を寄せていた。どうしてか彼女には分からないだろう。目の前の麒麟が涙する理由を。
それでも彼女は知っていた。困っている人がいたら、悲しんでいる人がいたら、放っておいてはいけないことを、傍にいてあげることを、人としての時間の中でとうに学習していたのだ。
「大丈夫です、きっと大丈夫!」
理由は知れない。彼女はまだ国を負う重さを知らない。だからこそ、彼女は笑う。麒麟の使命を知らぬ麒麟だからこそ、彼女は笑うのだ。
ぽつり、ぽつりと乖燐の瞳からは涙が零れおつ。草花の上に落ちる。芽吹く。
「だから泣かないで、泣いちゃだめだよ。えーと、そう、おねえさんなんだから!」
「……ふふ、そうですね。みっともないですね。私たちは同じ木に実った、言わば姉妹なのだから、あなたの前で泣いては格好がつきませんね」
懸命に裾で拭ってくれる優しさが、必死に慰めを紡いでくれる謙虚さが、手に添えられる小さな手のあたたかさが、いつかの遠いあの日と重なった。
―心燐、そろそろ夕餉の時間です。
「あっ、そっか。……あの、乖台輔はもう帰ってしまいますか?」
「いいえ、暫くは厄介になるつもりです。里帰りしてこいと言われたもので」
今の王に近づけたくないと、暗に言われていただけだが。自然とまた表情が曇る。
「じゃあ一緒にご飯食べませんか!?1人で食べるよりずっとおいしいとおもうんです!」
「……え、と、」
「だめ、ですか?」
「……いいえ、そのようなことは。私で良ければぜひご相伴に預からせてください」
「ほんと!ですか!わあ、もっとたくさんの話を聞きたいです! 行きましょう!こっちです!」
「ふふ、」
目の前を走る赤の鬣が美しく煌めく。無邪気に駆け回るその姿は子供そのもので、純粋なその姿がするりするりと乖燐の奥底にしまい込まれた扉を開けてきた。彼女の優しさが、謙虚さが、あたたかさが、素直さが、憂い帯びていた乖燐の唇を開かせて、頑なに閉ざされた涙を作らせた。笑顔を作った。ふたたび、乖燐の感じた幸せな時間を、作った。
このあどけない心燐は自ら国へ赴き王を迎え、数年後ふたたび混沌の中へと消えていく。
同時期、乖燐は失道の病にかかるも王自ら退位を申し出たため、彼女は落ちることなく、2度目の王朝を迎えることとなる。
まだ誰も知らない話だ。