君だけが心臓
黄金に輝く大事な彼女の気配が陰ったような気がして、顔をあげた。その黄金の光の持ち主は、世界の中心に位置する蓬山の捨身木に実った乖果をこの手でもいだ日のことを一度も忘れたことなどないくらい、彼女にとって何よりも愛おしい存在だった。いつもは遠慮がちにも花も恥じらうような笑みを絶えず浮かべているというのに、その気配は大分揺らいでいるのが、影の中からでも分かった。――今、まだ櫂国は内乱の真っ只中であることを、彼女は痛感した。この黄金の持ち主は穢れを厭う、争いを憂う慈悲深い存在であった。ましてやその内乱に、この国を担う――強いていえば彼女の大事な存在の、さらに大事な存在であるものが出陣しているとなればこの憂いは増しても致し方ないことなのだろう。できることならば姿を現し、その悲しみに明け暮れた体を抱きしめてあげたいと思う。いつだって自分はこの娘を守るために存在しているのだから。
見た目の年齢は十代後半くらいだろうがその実、既にそれ以上の年齢を負っていた。―彼女は人ではなく、天より遣わされた神獣、麒麟。この櫂国の麒麟であった。その性別は女なので燐。ゆえに乖燐と言う。本来麒麟は金の髪を持っているが――本来は髪ではなく鬣なのだが――この麒麟は鋼色の鬣を携えていた。世にも珍しい黒麒麟だった。腰にまで届く髪は夕暮れの風によって運ばれた。憂いに満ちた表情に、風が吹き付けるのを感じ、より一層深いため息をつく。
彼女は3年前、二人目の王を選んだ。先の王の在位は110年。それでも長く続いた方だと感じたが、その後何十年も玉座は空位となり、国は荒れた。何を堺に王が愚王になるのかは誰にも解らない。それはたとえ王の側近として、更には誓約という名の絆によって繋がれている麒麟にすら理解しようもないことだ。王にしか解らないのだ。先の王は乖燐が失道に罹り、改心することはなかったが、それでも自分だけを見、思うてくれた麒麟に対する哀れみか最後の理性か、その直後蓬山に昇り、自ら退位を申し出たのだった。その喪失感ゆえか、乖燐は次の王を見つけるまでに時間がかかった。ようやく王気を見出した者は以前夏官に勤めていた妙齢の女だった。優しくも強い女は、まさに王たる資質を兼ね揃えていた。しかし官吏の中には彼女の存在を快く思わない者もいた。――それが内乱を招いた結果とも言え、今、乖燐を悩ませる大きな種だった。
生国に下り、王を選んだ麒麟は、もはや蓬山の時のように甘やかすわけにはいかなかった。もう養い子ではないのだから、簡単に姿を出すわけにはいかないから、影の中から声をかけるしかなかった。
―――わたくしがお側におりますゆえ。どうぞご暗示召されますな。
「…主上と離れること、やはりどれほどの時が経とうとも、断腸の思いでいっぱいですね」
―――主上と台輔は誓約により結ばれております。当たり前のことでございましょう。
「ねえ果佳、主上は今、必死に闘っておられるのでしょう。私はここでこうして主上の無事を祈ることしかできない…なんて惨めで無力なのでしょうか」
―――台輔、ご自分を責めることしてはなりませぬ。
顔を手で覆った乖燐は悲しみに暮れていた。大切な乖燐の涙に、彼女も胸が苦しくなった。麒麟の王に対する思いは何よりも強いのと同じく、女怪の麒麟に対する思いもまた強かった。
「―こうして待つだけの身は辛いものです。下官が駆け込んで報を知らせても、それは朗報とは限らない。いつ主上が討たれたと言われてもおかしくない。それがたまらなく怖い…」
―――主上ならばきっとご無事でございますとも。仰られておりましたでしょう。きっと台輔のもとへお帰りになられましょう。
「あのお方は何よりもそして誰よりもお優しい方だから…私を苦しめることはなさりません…。たとえ苦しい状況であっても、私に笑顔を向けてくださるでしょう…」
―――ならば乖燐、あなたも笑顔を向けるべきです。
「え?」
―――主上はあなたの笑顔が好きと仰っておられました。そしてあなたも主上の笑顔が好きとわたくしにお話になりましたでしょう。だからこそ主上はどんな状況であってもあなたに笑顔を向けてくださるのではないですか?否、苦しい状況だからこそ、主上は笑っておられるのではないですか?
「……果佳、」
―――わたくしも乖燐の笑顔が大好きでございます。かのように悲しみの表情を浮かべられていてはわたくしも苦しゅうございます。だから笑ってくださいまし。そして主上を笑ってお待ち致しましょう。きっと今にお戻りになられます。そうされた時、乖燐が今のような表情をされていたら、主上はどう思われます?恐らく、悲しい思いをなさるでしょう。
「…ええ、そう、ですね」
そうしてやっと乖燐の表情に柔らかさが浮かべられた。影の中にいる彼女にはその表情を見ることはかなわなかったが、ようやく彼女の黄金の気配にかかる靄がゆっくりと払われていくのを感じられた。
「主上のお帰りを待ちましょう…。あのお方なら、きっと良い王になられる。このような場所で天命が尽きるお方ではない」
―――あなたがお選びになった王がかような場所でなくなりましょうか。いいえ、そんなことは有り得ませぬ。台輔、主上を信じてお待ちいたしましょう。
「……ふふ」
―――どうなされましたか?
「…姿が見えずとも傍にいてくれるあなたの存在が心強いの。生まれた時よりいつもこの声に守られてきたのだから」
―――あなたが主上のために在るように、わたくしはあなたの為に在るのですから。いつまでも、いつでもお守りいたします、愛しい乖燐。
寂れた庭園に、清々しくも柔らかな風が吹き抜ける。その時、静かな足音が聞こえ、乖燐は振り返る。そして駆け出した。その足取りは軽く、その目尻に浮かんだのは涙だった。それから彼女はいっぱいの笑顔を浮かべた。
駆け寄った彼女はその勢いのまま現れた人物にしがみついた。最初こそ驚きを見せたが、次第に柔らかな笑みを浮かべた人物を見上げ、ふわりと微笑む。僅かな屍臭がしたが、今は気づかないふりをした。
「おかえりなさいませ、主上――」
「ただいま、ヤツデ」
女怪と麒麟の関係ほんとう好き