哀しみから虹いろの種


 最初の60年程は善王だったと感じる。法はきちんと整備され、民が憂うことも餓えることもなかった。王は善意に満ち、正義感にあふれた優しい人だった。官吏たちも、そんな王に絶対的信頼を置いていた。だが60年を過ぎたころ、何かが変わり始めた。王は、国に強さを求めるようになった。他国の強さを模倣したが、うまくはいかなかった。そこから一転二転し、国は綻びを生じた。―乖燐が失道の病にかかったのだ。失道の病とはその字の通り、王が道を失い、天命が尽きたことを意味する。すなわち、それは国の崩壊をも意味した。王が道を失えば、それは其の者を王に据えた麒麟に病となってふりかかる。ひとたび病にかかれば麒麟が瘉えることはないに等しい。王が改心するか、もしくは王が自ら死ねばその病は瘉えるが、そうなる例は少ない。だが麒麟が死ねば王も死ぬ。なのでせめても己が斃れる前にと国を乱れさせる方が圧倒的に多かった。
 乖王もまた例にそぐわず、悪政を強いる愚王となったが、それ以前に降り積もった穢濁によって乖燐の躰は限界に達していた。床の中で呻くように、ただ嗚咽を漏らす姿は、世話係の女官の心を酷く傷めさせた。心身ともに病んでしまった乖燐の姿ほど哀れなものもなかった。
 どうかお願いいたしますと言ったのは、まだ年端もいかない女官だった。年端も行かぬとはいえ神仙であるのだからその外見年齢だけでは判断できなかった。女官は深く叩頭をし、玉座に座る主に再三、そう告げる。台輔のあのような無惨なお姿を主上はご存知ですか、と責め立てるような声色に、それまで愚王と成り果てていた乖王の世界が揺らいだ。本来なら首を撥ねられても何らおかしくないことを女官は命を落とす覚悟で、悲鳴のような訴えをおこした。すすり泣く声が、女官から聞こえ、乖王はその場に立ちすくんだ。――そういえば、見ていない。いつも傍らに佇んでいた、あの黒い髪を持った、自分の半身とも呼べる少女を。己を王に据えた、尊い獣を。主上、ご覧になってくださいませ。穏やかな声が、遠くから聞こえた気がした。
 黒麒麟は、その国に吉事ありと伝えられるほど、珍しい麒麟だった。その麒麟が天の意思を介して自分を王に選んだ。どれほど名誉なことだったか、そしてどれほど自分が愚かな真似をしたのか。一瞬にして、己の前に降り積もっていった。乖燐は死ぬのか、まるで己の声ではないように淡々と告げる。強さを求めるうちに他国の強さを妬むうちに、感情すらなくしてしまったのかもしれない。女が兵たちに抑えられ、引きずり出されていくのを見て、王はその場を静かに立ち去った。
 枕元に立って、荒い息を吐きながら静かに涙を流す半身に一瞥をくれた。随分と様変わりしてしまった姿を見て、何も言えなかった。ただ、愕然とした。その時、もはや色をなくした唇がふるえ、言葉を発した。一言、主上、と。瞬間、その場にいることができなくなった。彼はその場を立ち去る。
 翌日、白雉が泣いた。白雉は梧桐宮内部の二声宮に棲み、その生涯に二度だけ人語で鳴く。よって別名を二声ともいった。一声が「即位」、二声が「崩御」。二声を泣いた白雉は一刻を待たずに死ぬため、二声を末声ともいう。その白雉が鳴き、死んだ。それは――崩御を意味した。王は自ら退位を申し出て、命を絶ったのだと聞かされた。最後に残った理性だったのかもしれないと誰かが呟いた。
 彼女の病はみるみるうちに治っていった。しかし投げ出された四肢には何の力を入っていなかった。彼女は失ったのだ。自分が王に据えた、大事な主を。この世でたった一人、彼女が思う愛する王を。
 今でも忘れることはできない。どうして諌めることができなかったのか。王に言われれば是と答えるのが麒麟であったとしても、早い段階で気づくべきだった。半身だったのにと悔やまれて仕方がない。しかし彼女は見つけた。もう一度始めるために。この国を、守るために。


「天命をもって主上にお迎えいたします。御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約を申し上げます」
「許す」

 白雉が鳴いた。即位を意味した。櫂州国に、新たな王が立った。
 彼女にとって二度目の王朝がはじまった。


一度目の時のお話。