泡沫の約束
雨が降っている。
それを見上げながら、辻崎司は自身の感覚が緩やかに遠のいて行くのを待った。
痛いも苦しいも、つい先程まで確かに感じていたはずなのに、今はもう全てが遠い。
生きているうちに感じたことのない強い眠気に、瞼が降りそうになる。
ふと、司の上に影が落ちた。
誰かが司を見下ろし、抱き寄せ、幼子を褒めるように頭を撫でる。
司はその「誰か」へ手を伸ばすことも、声をかけることもできなかった。司に向けて語りかけられる何かも、はっきりとは聞きとれない。
ただとてつもなく安堵した。
眠る前に独りなのは寂しかった。
ありがとう、と言いたかったが、司は遠くなる感覚にこれ以上抗うことができそうになかった。一度眠ろう、と目を閉じる。
起きたらきっとちゃんと伝えるから、今は許してほしいと思った。
辻崎司は、雨の日にそういう「夢」を見る。
「なんで起こさなかったんだ!」
リビングのドアを乱暴に開けて、司は同居人にクレームをつけた。
起床予定時間から一時間は経過していた。
司は最高速で顔を洗って着替えて、身なりを整えながら朝食をかきこむ。
「今日はオフかと思ったんですよ。ちなみにアラームはちゃんと鳴ってました」
「ならその時に起こしてくれてもよかっただろ!」
「司さん、自分で止めてもう一回寝てたので」
「……ほんとか」
「嘘ついてどうするんです?本当ですよ。器用ですね」
司は大仰にため息をついた。
「最悪だ」
「今日も撮影ですか」
「今日でクランクアップの予定だ」
「そんな日に寝坊するなんて、俳優・辻崎司は大物ですね。流石です」
「…………雨の日は夢見が悪くてよく寝れないんだよ」
言い訳だと分かっていたが、司はそう神峰に言った。
その時神峰が珍しく訝しむような素振りを見せたのだが、準備に追われる司が気付くことはなかった。
「それで、どんな夢なんです?」
「どんなって、聞いてどうする」
「悪夢は人に話すと見なくなるらしいですよ」
「悪夢ってほどじゃない。怖いとか苦しいとか、そういう夢じゃないんだよ」
「ではどんな?」
司は手を止めると、神峰の方を振り返る。
やけに真剣な神峰の目に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
「……雨が降ってる夢だ」
「別段不思議じゃありませんね」
「だから言っただろ、悪夢じゃないって」
「でもその夢のせいで寝付けないのはおかしいですね。司さん、いつも見ているのは本当にそれだけですか?」
神峰が冷静なトーンで詰問するものだから、司は取り調べを受けているような気持ちになった。
本当に取り調べを受けたことはないが、サスペンス作品では何度もやったシーンだ。
雨が窓を叩く音がする。
「よく、覚えてない。起きると忘れるんだ。悪いものを見ていたって感覚はあるんだが……」
司は夢を見ていたときの感覚を辿る。
雨が降っている。司はいつもそれを見上げている。
五感は遠く、視界はピントの合わないカメラで撮影したかのようにぼやけている。
「そういえば、誰かが側にいたような気がするな」
神峰が眉根を寄せた。
「それは誰なんですか?」
「知るか。神峰、お前なんでそんなに俺の夢のことなんか気にする?」
「何度も見る夢なら、何かしらの意味があるんじゃないかと」
「なるほど?小説家らしい発想だな。それで、どんな意味があるんだ?」
「そうですね……定番ですが前世の記憶、とか?」
司は神峰の返答にポカン、と口をあけて固まる。
「なんです、その反応」
「お前って本当に小説家だったんだな」
「非現実的だって話ですか?」
「だって、そうだろう。輪廻転生を信仰しているなら特に何も言わないが……」
「あいにく、俺は無宗教ですよ」
「だよな」
司は小さく笑った。
神峰はいつも、司よりは現実的で冷静だ。そういうのを題材にした作品でも書いているのかもしれなかった。
「ところで司さんが起きてくる少し前に、マネージャーさんから下で待ってるって連絡ありましたよ」
「なんでお前はそういうことを早く言わないんだ!?」
司は上着とカバンをひっつかむと、入ってきたのと同じように慌ただしくリビングを出ていった。
司がいなくなると、室内は急に水を打ったように静かになる。
気密性の高いマンションは雨音さえも聞こえない。
神峰は原稿の端に「雨」の一文字を描き、即座に塗りつぶした。
「俺も空想だと思ってたんですよ」
神峰は瞑目して、司の言った光景を思い浮かべる。
雨が降っている。空は曇天だ。誰かがいる。
それを神峰は《見下ろして》いる。
「またあなたに会うまでは」
見下ろした先にあった彼の顔を、神峰律は鮮明に覚えている。
「遅いですよ」
「……悪い」
車に乗り込むなり、鋭い声が司を迎えた。
マネージャーの谷崎倫理は、いつもふんわりとした空気を纏う人懐っこい男だが、仕事はきっちりやりきる。
寝坊して遅れたのは司なのだから、ある程度怒られることは覚悟していたものの、予想以上の低温に司は俯いた。
「この時間なら撮影開始には間に合いますけど、とにかく急ぎます」
「倫理」
「今は谷崎マネージャーです」
谷崎が車を発進させる。
谷崎倫理は司の遠縁の親類だった。
そもそも、司が芸能界に身を置くことになったのは谷崎家が営む芸能事務所が発端であり、彼と親類でなければ司は今は俳優なんて仕事をしていないだろう。
柔らかな人間性に反して、営業や采配の手腕は驚くほど鋭く、社交的でない司に代わって様々なことを請け負う谷崎は俳優・辻崎司に欠かせない人物だった。
司の演技が評価されるのも、ひとえに彼が演技に集中できる環境を作ってくれているからだと司は思っていた。
「……あの、司くんには怒ってないからね」
冷えた声から一転、谷崎が親しい声音で言う。
「いや、悪いのは俺だろ」
「司くん、普段寝坊したりなんてしないでしょ」
幼い頃からつきあいがある谷崎は、司の性質のほとんどを把握していた。
それが司にとっては有難くもあれば、気を遣わせすぎて申し訳なくもある。
「最近、仕事かなり詰まってたでしょ。だから無理して疲れてるんじゃないかと思って」
「そうだとしても、そういう仕事の受け方をしたいって言ったのは俺だ。倫理のせいじゃない」
「違うよ。マネージャーとして、僕がちゃんと把握してコントロールすべきなんだよ。司くんはなんでも頑張りすぎるんだから、僕がちゃんとセーブすべきだった。だから、ちょっと反省してた」
「…………お前がそこまでする必要ないだろ」
「そう思うなら、無理して仕事しようとするのやめてほしいなぁ」
谷崎が呆れたように笑う。
そうは言われても、自分が無理をしていると感じたことがないのだから、司には難しい要望だった。
「そもそも、俺が疲れてるの前提で話を進めるなよ。疲れてるわけじゃない」
「じゃあ寝坊の原因はなに?神峰さん絡みだったら怒るよ?」
「は!?そんなわけないだろ馬鹿!」
全力即答してくる司に、谷崎はクスクスと笑う。
司と神峰が同棲することに一番反対したのは谷崎だった。
それはもちろん司の芸能活動への影響を危惧しての反対だったのだが、蓋を開けてみると双方に好影響を及ぼしていたので、今は特に何も言ってはいなかった。
「なーんだ、面白くないなぁ」
「面白がるな。夢見が悪くてよく眠れなかったんだよ」
「へぇ、夢かぁ。どんな夢なの?悪夢は話すと見なくなるんだよ」
「それはもう神峰に聞いた。雨が降ってる夢だ。あとは起きると忘れるから覚えてない」
「ふーん、司くん雨嫌いだっけ?」
「好きでも嫌いでもないな」
「そっかぁ、僕はやだなー、出かけるの面倒になっちゃうから」
「車があれば関係ないだろ」
「残念だけど、これ事務所の車だから。僕は自分の車持ってないんだよね」
「買わないのか」
「維持とか考えるとね、ちょっと手が出ないよね」
「そうか。倫理、悪いが現場着くまで寝る。近くなったら起こせ」
「うん、了解」
谷崎は軽く言葉を返し、ミラー越しに司が眠るのを確認する。そして彼に聞こえないように小さなため息をついた。
「雨が降ってる夢、か」
ハンドルを握る手に嫌な汗が滲むのを感じて、谷崎は顔をしかめる。
脳裏にチラつく光景を振り払うように、少しだけ走行スピードを上げた。
「僕はやっぱり雨が嫌いだよ、司くん」