ハンド・ソープ

「細雪先生」
心地よいテノールが聞こえる。優しい双眸がこちらを覗いて、微笑みをたたえた。
熱の篭った視線と、交わる喉の奥まで満たすような甘ったるい吐息に、夢だとすぐわかってしまう。心地良い夢は長く見せて貰えないものなのだと、経験上私はよく知っていた。
「うっ……」
喉から迫り上がる不快感と、下腹部の熱。まだ室内は薄暗く、カーテンからは薄い闇が漏れた。勢いよくベッドから起き上がった。
何度か壁に当たりながらもトイレへ駆け込み、ギリギリ留めていた胃液を逆流させる。
「おっげぼ、ぐっぁはがつ……ぅ」
何度も肩を上下させて息を整える。生理的な涙を零しながら全て吐ききると、残るのは自分の今の感情と切り離された性器だけだった。
決まった作業のようにそれに触り、緩く上下に扱う。
「はぁ、は……う……く」
声が漏れて狭い空間に反響する。自分はどうしようもなく浅ましい獣になった気分になる。頭に浮かぶのは、さっきの夢の情景だったり、優しい彼の顔だからだ。一番嫌いな瞬間すら、責めるような素振りをしてくれないのだ。
ごめんなさい、ごめんなさい。
謝りながら手のひらに、自分の汚れきった欲を出し切る。あとに残るのは罪悪感と虚無感。
「っ……ぐほ……」
また迫りくる吐気に抗えずに、胃液を便器へとぶちまけて口元を拭う。そして震える手でレバーを持ち上げて、水へと流した。
ぐるぐると渦を巻いて飲み込まれていく胃液を、いつも私はぼうっと眺める。
自分はこの吐瀉物と何ら変わらないのだ。
その汚い手を洗わねばと私は洗面台へと向かった。
プッシュ式のハンドソープ……ではなく、隣にある食器用洗剤を押し込んで、手のひらに伸ばす。そしてスポンジで、何度も、何度も、強く擦った。
洗っても綺麗にならない汚れだが、洗うという行為自体に少し救われているところがあった。
あかぎれから血が滲んで、泡と一緒に流れていく。最後にアルコールを刷り込んで、消毒は終わりになる。
鏡に映る自分の顔はぐちゃぐちゃで、とても他人に見せられたものではなかった。
口角を上げて笑みを作っても、鏡の自分はぎこちなく引きつった表情をするだけだ。
時計は五時、朝のぬるい風にカーテンがゆらりと揺れて膨らむ。
いつも通り、「普通」を始めよう。
まずは顔を洗うところから