01


昔から平凡な私の人生。勉強が少し得意だったから、人に教える仕事も向いてるかなって。そんな風に軽く考えて大学に進んで、教師になって。時には人並みにハプニングもあったけど、それでも、昔から変わらずに、このまま、ずっとまっすぐ。なだらかな曲線を描くようになんの上げ下げもなく平穏に生きていけると思ってたのに。

なのに、突然思いもよらない落とし穴に堕ちました。


その穴を掘ったのは、天使みたいな綺麗な顔した17歳の男の子…でした。



「あ、天使先生。今日、3限から轟焦凍くんが登校してきますんで」

3週間?4週間分の補習よろしくお願いしますね〜。当然のようにそう言い放った学年主任の先生。朝礼が終わって1限の準備をしていた手がびくっと止まる。隣の席からは先輩の「あら♡」なんて至極嬉しそうな声が聞こえてきて。ま、は、え、いや、え、そんなサラッと告げる!?

「え、聞いてません!」
「はい、今言いましたからねぇ」
「やだ〜♡久しぶりにイケメンくん見れるんだ〜♡」
「…イケメンって!そう、です…けど、なんで急に、」
「あー、今朝急に連絡あって。スケジュールが空いたから登校させますって言われましてね。まぁいつもみたいにさくっと終わらせてくださいな」
「え、困ります、そんないきなり言われても…!教材の用意とか…、!」


キーンコーンカーンコーン


タイミングは最悪。校内に鳴り響く無慈悲なチャイムに学年主任はそそくさと「じゃ、お願いしますね!」と手を上げて職員室を出て行った。その後を「…頑張って…、ね!」とグッと両手を構えてからいつものようにヒールを鳴らして颯爽と出て行く先輩。

「…どーしよ…、」

私の必死の訴えも無情にもかき消され、職員室に1人残されて。自分の机に項垂れるようにだらんと両手を投げ置く。そんなぁ…。いつもと同じ、平凡で、平穏で、普通な日を無事に送れると、そう思ってたのに…!
ハァ、と大きくため息をついた瞬間に鳴り響いた本鈴のチャイム。どうしよ、なんかもう泣きそうなんだけど。そう思いながらも慌てて立ち上がり、教材を引っ掴んで1限の教室に向かった。






「…はい、じゃあ、問2から5までをこの公式に当て嵌めて解いてみてください。」


そう声を掛けるとノートと向き合って問題を解き始める生徒たち。ふぅ。これを解かせたら後は解説して…。時計をちらっと振り返って確認しながら頭の中で授業の内容を組み立てる。2限…。あの子が来るまで、あと25分…。問題の答え合わせの為に今まで書いた板書を消しながら嫌でも考えてしまうけどなるべく考えないようにする。黒板を綺麗にして、生徒を見回す。大半の子の手がまだ動いているのを見て「出来たかな?あと5分くらいで答え合わせにしましょう」と声をかけてから次のクラスの名簿を開いた。


『2年A組 15番 轟焦凍』

私が受け持つクラスの一つである2年A組、廊下側の1番後ろの席はいつでも開けてある。授業の途中でやってきて、授業の途中で退席する "彼" の為に。2年生になって早3ヶ月が過ぎるけれど、彼が顔を見せたのはこの間でようやく両手で数えるくらい。それでも、私は…いや、私たちは彼の顔を見ない日がない。

それは、彼…轟焦凍くんはアイドル、だから。

テレビに雑誌、街を歩けばあちこちに貼られているポスターや街頭ビジョン。いわゆる芸能人である轟くんが、夢の世界の住人である彼が目の前に現れた時はまるで信じられなくて自分のほっぺたを摘んでしまった事を未だに覚えている。


「天使先生、彼が例の転校生です」
「…轟です。」
「はじめまして…、天使で…わ。え!?」
「?なんすか」
「あ、ごめ、…っ、痛いっ…、え、まさか、ほん、もの…?」
「…ふ、ああ。」


そんな私を見てテレビなどで見る彼の姿からしたら珍しく、ふはっ、と軽く吹き出して年相応にケラケラと笑った笑顔が…眩しくて。受け持ってる女子生徒達じゃないけど、年甲斐もなくクラクラしちゃった事も、覚えているケド。

学校側も、アイドルの対応なんて面倒なんだったと思う。いくら彼の父親であるNo.2ヒーローのエンデヴァーの母校であり、彼のお家から多大な寄付が学校側に入っているといっても特に芸能科がある訳でもないし、ましてや彼だけに特別に人員を増やせる程の予算もない。だから一般の、普通の、ただの数学教師である私が。『先生なら、歳が1番近くて轟くんも話しやすいでしょうから。ね?ほら…この頃の男の子なんて歳が離れてれば離れてる程、反感持つようなモンでしょう?天使先生は、その分生徒からの信頼も厚いし…、ね?…ね?』とそんな理由で、学年主任の先生に職員会議で任命…いや、あれは半ば言いくるめられて彼の補習担当に決まってしまったのが約1年前。
『とりあえず最低限の単位さえ取って卒業さえ出来ればそれで良いみたいだから、こちらとしても卒業…してくれないと、ねぇ?…ほら、彼のお父様も…』なんて轟くんの教育自体を丸投げされた。

それからは、任命されちゃったもんは仕方ないと天使みたいな顔した男の子…いや、轟くんの登校日数に比例するように感情もあまり豊かじゃなさそうな彼の為に残業して授業内容をまとめたテキストを作ったり、貴重な登校日にはつきっきりで補習をしたり、私なりに頑張って、一生徒が学ぶ為の機会を作ってあげた、はず。なのに。


なんで、初めて見た時と変わらない笑顔で笑う彼の綺麗すぎるお顔が、わたしの、真上に、あるのかな?

「…えー、と?…これはどういう、事かな?」
「先生…普通質問すんのは俺の方だろ?」


戸惑った顔も可愛いな、なんてとんでもない事を言いながらサラリと私の頬を撫でて笑った轟くんは、昨日見たテレビのCMと全く同じ顔で。いや、本人なんだから顔は同じはずなんだけど、って違うくて!私の両手首を掴む力が強くて、やけにリアルで。一瞬夢かと思ったこの事態が、現実なんだと叩きつけられているような気持ちになった。信じられないけど、けど、え!?私は今、国民的アイドルの轟くんに、おし…押し倒されて、る…!?


「…っは、分かった!アレでしょ、お芝居でしょ。今度やるドラマか何かの!わー、すごいね轟くんエンギジョウズダネー!」
「……なぁ、先生ってもしかして処女か?」
「しょっ、…は、!?え、…っ、はぁ〜!?」


可愛い顔してなんって事を言い出すんだこの子は!!
普通の、平凡な、何処にでもいるような私が。今、人気絶頂で、若くて。可愛くて、カッコよくて、歌も、ダンスもできて何よりふわふわして夢の世界の住人である彼に!おし、押し倒されてる、なんて、現実ではあり得ないこの状況を頭を回しまくって何とか正当化させようとしている私の上にいるこの人物はなんでもない風に涼しい顔をしてトップスの裾に手を忍び込ませてきた。

「わー!!ちょ、ちょっ!まっ、待って!何するの!?」
「…あ、こーいう場合はハジメテか?って聞くべきだったか?」

一応ボカした方が良いよな?処女だし、そういうの気にするよな…?上鳴が言ってた。悪ぃ。…なんて、バカにされたのか気を使われたのかなんなのか分からない事を言いながら一瞬だけまつげを伏せる轟くん。
…いや、気にするとこソコじゃないと思うし!?そもそも処女かどうかって重要なの!?…彼氏とか居ないし、居たことないし!?お望み通りもちろん処女だけど!?うん!…って、開き直ってる場合じゃなくて!!

「面白ぇな、先生」

それに可愛い。と付け足してから、若干涙目であわあわと焦る私が面白いのか轟くはふ、と笑ってから長い舌先で唇をペロ、と舐めて、長いまつげを伏せつつ自分の制服のネクタイを片手で少し緩めた。…そんな仕草が、たったそれだけだけど、すごく様になっていて。少し、ほんの少しだけ見惚れてしまったのか頭がぽーっとしてくるけれど、けど。ダメダメ、と小さく頭を振りこの状況を整理する。

最初の話では3限の後、という連絡だったけど急な変更があったのか実際には人も疎になった放課後にマネージャーさんの運転する車でやって来た轟くん。彼も仕事で疲れて居るだろうと、後は他の生徒たちの事も考えて、配慮した上でわざわざ選んだ人気の少ない別棟の。今はほぼ使われていない数学教員室、の無駄にフカフカすぎるソファの、上。他の先生は定時で帰って行って、見回りに来た守衛さんに鍵閉めを任されて、二つ返事で任された後に集中してぇから、なんて言う轟くんによってご丁寧に扉に鍵を閉められて。10分もしない内に横に座ってきた彼に突然…き、キスされて、押し、倒されて…!?


…アレ、私、2人きりになった時点で気が付くべきじゃなかった!?
て、いうか何この全てが裏目に出てる感じ…!!

「…今日の射手座はそういや最下位だった…」
「へぇ、先生射手座なのか?…ちなみに山羊座のO型は1位だった。意中の人と上手くいくかも、って」

ぽわぽわ。まるで背後からお花が咲き乱れる音がするかのように無邪気に話す彼は、本当に綺麗な顔をしてて…まるで天使みたいで。

…本当の天使は人の上に馬乗りになって服をたくし上げて腰を撫でたりしないと思うケド!

「っちょ、っと、…っ、ほん、とに!いい加減にしな、さい!」
「…先生、すきだ。」
「…っ、…。だ、から冗談は辞めてって、いつも、」
「俺は何十回も言ったぞ。本気だって」




「先生、好きだ。」
「え?何、突然どうしたの轟く…んぅっ、!?」
「…ん、…ふ、…は、俺、本気なんだ」
「っ、や、…い、まのは、なかった…事にして、おきます、」
「…なんで」
「な、んでも!とにかく、今日はもう終わり!」



頭の中で甘くて苦い記憶がリフレインする。ダメ、違う。だって、ダメ。彼は、教え子で、それで。私は先生だから。生徒と先生の恋愛なんて、そんなドラマむたいな。ロマンチックな出来事、平凡な私には似合わないし、そもそもダメだし!

じいっと私を見つめてくる、まるで吸い込まれそうな綺麗なグレーとエメラルドグリーン。その熱量に、瞳に。負けそうになるけど。ふぅ、と小さく息を吐いて、己を律する。なに揺らいでるのよ。大人だぞ?私は。何より、教師だし。


「…あのね、人をからかうのもいい加減にして欲しいの。」

今なら全部無かったことにしてあげるから、離して。そうはっきりと伝えると私の手首をまとめ上げている左手の力が少しだけ、緩まって。その時彼の長めの前髪が重力に従ってサラっと目元に影を作るから表情は見れなかったけど、伝わったんだと思って、少しだけ気を抜いた、瞬間。


「その割には、先生の顔。真っ赤じゃねぇか?」

顔を上げた、その瞬間に。更に身を屈めて顔を近づけてきた彼にすっ、と親指で唇を撫でられて。少し無骨な彼の長い指の感触が唇を通して伝わってきて、腰の辺りが、ズクン、と重くなって。顔を上げた彼の表情は、予想とは全然、違っていて。

…アレ、さっきまで居た天使みたいな顔の男の子は、どこへ。

天然王子だとかみんなのリア恋だとか世間からもてはやされている彼はここには居なくて。

目の前には、その瞳に、表情に、仕草に、雰囲気に。どこかうっとりと、でも確実に欲望の色を滲ませた、オトコノヒトが。

「…きっと、先生は地味に、真っ直ぐな道を歩いて来たんじゃねぇか?」
「…な、にきゅう、に、」
「もう、良くねぇか?」
「な、にが…?」
「ここら辺で、道を踏み外して見るのも悪くねぇと思う。」

天使の、誘惑。悪魔の囁き。
彼は私の耳元に唇を寄せて、まるで呪文を唱えるかのようにそっと懐柔の言葉を口にする。


「俺なら、違う世界を見せてやれる。」



生まれて、小さい頃からそれなりに器用に。人並みだけど、けどそれでも自分なりに勉強もして、平凡な人らしくコツコツと生きてきた。大きな問題もなく、気が付いたら毎日同じことの繰り返し。でも何か不満があるわけじゃない。けど、満足してる訳でもない。でも、それが私の人生なんだと。これが運命なんだと。


でも。

どこかで、昨日と違う明日が来たらいいな、って。
そんな事を、心のどこかで。




葛藤するように、瞳を震わせる私の唇にそっと、自身の唇を押し当てて。そっと離された後に見上げた先には、熱の篭ったオッドアイが私を捕らえてて。彼の、全てが。まるで天使みたいであまりにも眩しくて、脳みそが考えるのを辞めて、全身がくらくらして。

それで、堕ちたの。


もう一度唇にキスを落としながら胸元に手を這わす彼の首に腕を回して抱き寄せた理由は、そういう事にしておいて?






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