ゴー・ウィズ・ザ・フロー
金曜の夜。見覚えのある映画をスマホ片手にぼうっと流し見しながら、スプリングのくたびれたソファーにずっしりと沈んでいる彼氏の肩にもたれかかっている。実際のところ、肩というより腕といった方が正しいかもしれない。これだけソファーを弛ませておいてなお、現役のスポーツ選手との体格差というものは大きいものだ。
呪文を同時に唱えよう!と今から盛り上がるSNSを横目に、明日の朝食にはトーストの上に目玉焼きを乗せようと決意を固める。休みだからって寝過ごすのも悪くないけど、今週は2人揃って予定のない珍しい週末だしね。
コマーシャルが流れ始めて、手持ち無沙汰になった私は隣でわりあい真剣に映画を見ている男の膝に頭を乗せる。最初は逆だろとかなんとか言っていた男も、私が有無を言わさず事あるごとに勝手に膝に転がるものだから今では当然のように受け入れている。諦めたのかもしれない。それにしたってさらさらとしたスウェットで肌触りはいいはずなのに、寝心地がいいとはお世辞にも言えないくらい硬いのはどうにかならないだろうか。まあだからといって、これから始まることを思えば何がなんでもやめるつもりはないのだけれど。
「和真は40秒で支度できる?」
「ぜってー無理」
「あは、そうだろね」
毎朝洗面所を占拠してる姿を思い浮かべて吹き出すように笑う。無理だろうなあ。出かける時、なんなら私の方が準備早い時あるもんね。
「この映画見たことないの?毎年のようにやってんのに」
「通して見たことあんまねえんだよな」
「ああ、そういうのあるよね」
戯れにとりとめもない会話を続けながら、片手でスマートフォンをいじって、空いた右手が視線も寄越さないくせして正確に私に届く。当然のようにゆるゆる頭を撫ではじめる男をちらりと見て、内心でやっと始まったとにんまり笑う。映画に意識持っていかれすぎですよお兄さん、と一緒に浮かんだ文句も、大きな手を重力に任せて軽く押し付けるように撫でられるたびにしゅわしゅわ泡みたいに消えた。
手遊びのように繰り返し頭を撫でた無骨な手が今度は髪の毛に滑り込んで、てっぺんから毛先までをゆっくりと梳かしていく。顔の横の毛束をしゅるりと巻いて、ほどいて。リボンのように巻きつけたそれが離れたかと思えば、手探りで耳を探り当て、型でも取るかのように注意深く骨の窪みをなぞっていく。そうして指の温もりにまどろむ頬の丸みをごつごつとした手の甲が撫ぜていく。
人から大事に扱われるというのは酷く心地がいい。それは触れる当人が無自覚であっても同じこと。はじめにペットでも撫でるみたいに私を撫ではじめた時はどうしたのかと思ったけれど本人は気付いてないみたいで、本当に手遊びの一種なんだろうなと思う。私としてはなんだっていいし、心地がいいぶん好都合とさえ言える。
ちょっとだけ意識が遠くなる感覚に、テレビの音もつられて遠ざかっていく感じがする。起きたまま夢を見ているような、魂がほんのちょっと頭のてっぺんから抜けているような、そんな気分。ほとんど無意識のように手を動かす男にしばらくの間自由にさせて、もう一度コマーシャルに入ったところで微睡みにほんの少し重くなった口を開いた。
「和真って触んのすきだよね」
「……そーか?」
普段より低い声が指と一緒に耳を揺らす。ベッドに入るまでのわずかな戯れ。微睡みに屈して眠ってしまったっていいんだけど、それだとほんのちょっと勿体無い。だって、荒っぽくてぎらついた真夏日みたいな男が、こうして静かにわたしを愛でているなんてずいぶんとちぐはぐで、それだからこそ気分がいい。言わば彼女の特権ってやつ。
言葉にして、自覚させたら照れたのか、すうっと逃げていく手を引っかけるように捕まえる。ほとんど力の入っていない手指で掴んでも、この一回り大きな男の手が大人しく捕まってくれることに胸がきゅうっとした。そのままの気持ちで、すこしかさついた手のひらを頬に寄せる。いやだ。逃げないで、ここにいて。
「もっと、さわって?」
「っ、おま」
ゆっくりとけだるい身体を起こして、ひと伸びしたあとお姫様抱っこしてもらうみたいに男の両足の間に身体を滑り込ませる。わざわざ首に手を回して掴まらなくても、自然と抱き留めるように私の背中に手を回す男の分厚くて筋肉質な胸に寄りかかるようにして目を細めた。
「かずまの手、すき」
ふやふやに蕩けた表情をしている自覚はある。時間をかけて丁寧にほぐされた表情筋は今さら緊張を取り戻したりはしない。眠気と心地良さで全身から力が抜けて、体重が全て彼にかかりきってしまっても頑丈な身体は難なく私を受け止め続けていた。
「……手ェだけかよ」
不満そうにぐる、と喉を鳴らして呟く男に、重たいまばたきを繰り返しながらかわいいな、ってとろりと笑った。照れ隠しがへたくそなおとこ!
眠気に冒された頭で、返事のかわりにすりすりと胸元に擦り寄ってみせる。言葉にするにはもう眠気が限界で、伝わってくれるといいのだけど。ゆったりと顔を上げて、とろとろと瞬きしながら存外かわいらしい男を見つめる。不機嫌そうな声に相応しい顔をしていても、ほんの少し口角が上がってるの隠しきれてないよ。かわいいひと。
ふふ、と鼻から抜ける笑い声に、テレビに目を向けていた和真はふと視線をこっちに下げて、「見んなや」と私の目元を手で覆った。あ、まだ見てたかったのに。
ちょっとの間、わざとぱたぱたまばたきして、手のひらをまつ毛でくすぐって遊んでいたりしたけど、暗闇とじんわりとした温もりに眠気がいよいよ増してきた。和真は動かなくなった私に気付いたのか、目元から手を動かしたらしい。目蓋に透ける照明が眩しくて、光から逃げるように男の胸に顔を埋める。テレビでは丁度光に目を灼かれた男が悲鳴をあげていた。
「オイ、まだ寝んな」と声が聞こえても、もちろんここからベッドに歩いていくなんて到底不可能で。胸に顔を埋めたまま動かないでいると、溜息が聞こえて小さな身動きと共に足先にやわらかいものが掛けられる感触がする。同時にぐ、と私をなるべく揺らさないように体勢を整える気配がして、少し経つとまたゆるゆると髪が梳かれはじめた。きっと目が覚めたらベッドの中で、隣にはこの男が眠っているのだ。そのことに自分でもどうしようもないほどの幸福を感じながら、沈みゆく意識を手放した。