03
1年生はみんな同じ話題で持ちきりだった。掲示板の張り紙に、飛行訓練の日程が出ていたからだ。
いつもの二人と幾人かの取り巻きに己の武勇伝を語って聞かせているマルフォイの声は、知らせがあった日から談話室から始まり、大広間での食事時や合同授業の前時間などにも延々と聞こえるようになった。
しかし彼だけではない。魔法の箒は魔法族の家庭にはどこでも一本はあったし、得手不得手は別として、スリザリンにいる子どものうちで乗ったことのない生徒はいないようだった。もしかしたらいたのかもしれないが、みな何かしらエピソードを持っていた。
体格のよいミリセントや好戦的なパンジーのみならず、普段はつんとすましたダフネでさえも箒の話をしていた。危うくお母様が大切になさっているばら園を吹き散らかしたり、おじさまからいただいたお気に入りのクチュールワンピースが破れてしまうところだったり、試しに乗ってみたら上手かったものだから、舞い上がったパパが職人に一点物の箒を作らせたり、などといった具合だった。
そういう話題のときに、彼女たちは含みを持った視線をスバルに向ける。以前魔法薬学の授業前に話したように、スバルは飛行術がからきしだと思っているようだった。
「そうね、私は皆みたいにあまり箒に乗させていただけなかったの。少し不安には思う」
スバルの吐露に、サリーがあっと顔を輝かせる。
「奇遇ね、私もよ。
ママったら、一回乗ったきり、箒は男の子の乗るものだからって傍に寄ろうものならマナーレッスンよ。ひどいと思わない?」
「間違いなくひどいわね、サリーの乗り方が」
「もう!」 膨れるサリーに、皆が玉を転がすように笑った。「でもそれならスバルはわたしの仲間、一心同体! 一緒に頑張りましょ、先に上手になったら駄目よ」
「うーん、どうかしら」
「大穴でサリーが案外上手だったら見ものだわ」
「そういうこと言って!」
「まぁどれだけ慣れてなくったって、グリフィンドールの奴らがいるからビリにはならないでしょう」
からかいを諌めるような、慰めるかのような発言は、しかし冷ややかに判ずるような目だったが。スバルは気にもせずたおやかに微笑した。
スリザリン生の多くはグリフィンドールとの合同飛行訓練を楽しみにしていた。彼らは己の飛行術はさておいて、グリフィンドール生の無様な姿を確信していた。木曜日になり、朝から浮き足立っていたパンジーに「早く行きましょうよ!」と急き立てられ、スバルたちは午後三時には校庭に勢揃いしていた。既に並べられていた箒は毎年使い古されているのだろう、枝が流れから跳ねていたり折れていたりしていて、持ち手なども汚れていた。
「こんなに年季入ったアンティークじゃ寝惚けてて言うこと聞かないんじゃないの」
「あら良かったじゃない、ちょうどいい免罪符になるわね」
「そっくりお返しするわよ。それにしたって薄汚い、どうせならわたしの箒持ってくればよかった!」
「あなたの頭じゃ覚えてないのも無理ないけど、1年生は持ち込めないのよ」
パンジーたちがかしましく応酬を繰り広げていると、しばらくしてグリフィンドール生も揃った。彼らの表情、特にネビルやハーマイオニーといった面々を見て忍び笑いが広がる。顔を強張らせ、なにやらぶつぶつと箒の乗り方に関するコツを呪文(!)のように唱えている様は憐れを誘うくらいであったが、スバルにとっては意味ありげに小突いたり、共感を勝手に抱いて情けない笑顔を向ける同級の彼女たちの方が煩わしかった。もちろん、いつもの微笑みを張り付けていたけれど。
時間ぴったりに颯爽と現れたマダム・フーチが、金眼を予断なく光らせて、開口一番、箒の傍につくように急かした。生徒たちはそれぞれ近場にあった箒の横に立つ。スバルが選んだ箒は枝の折れも跳ねも見られず、比較的小綺麗な物だった。
「右手を突き出して。そして『上がれ!』と言う」
フーチの指示にしたがって、皆『上がれ!』と勇んだ声で言った。スバルも右手を箒の上に構えて、小さく上がれ、と呟くと、ぱしっと小気味の良い音をたてて、手に確りと箒の柄が収まる。
「スバル……!」
サリーが名を呼んだ。彼女の箒は右手の下から転がって、スバルの足元近くまで来ていた。スバルはそれを返そうとして、手にしていた箒の柄をサリーに向けた。「この箒、他と比べると新しそうだから。サリーが使って」
「え、あなたはどうするの」
「私はこっちを使うわ」
スバルは二歩離れた場所に転がった、サリーが最初に選んだ箒を指差した。所々枝が抜けて軽そうな、みすぼらしい箒だ。少し離れていたが、試しに手を突き出して、来い、と静かに言う。すると、しゅっと空を切って、先程と同じように箒は手のひらに飛んできた。
手の中で少し震えて、行儀良く収まる箒を柔く握りしめながら、こんなに簡単なものなのかと思った。箒を手にしたまま辺りを見回して、何故周りの生徒たちが箒を地面に転がしたままなのか謎だった。首をかしげたスバルは、ちょうどグリフィンドール側、箒を握って同じように辺りを見回していたハリー・ポッターと目があった。
彼は少し驚いたように眼を見開いた。入学式で別れて以来視界に納めることはあったが、それだけだった。
彼はどうすればいいのか迷うような仕草を見せたが、スバルは笑顔をつくった。知り合いと目があってお互いに認識しているのなら適当に挨拶をしておこう、くらいの心持ちだった。
特に思うことのない動作だったけれど、ハリーはエメラルドの瞳を大きく開いて、ぎこちなく笑みを浮かべて、それからすぐに顔をそらしたのはちょっと面白かった。
何度か試して箒を持てる生徒が多くなると、次に箒の乗り方を見せて生徒の間を縫って指導したあと、いよいよ箒にまたがって飛行というときになり。
フーチの説明の途中、スリザリンと向かい合ったグリフィンドール生のうちから、飛び出す影があった。ネビル・ロングボトムだ。
「戻りなさい!」 フーチの大声に従えるくらいなら、ああも勢いづいて飛ばないだろう。一人先に地面を蹴ってしまった彼は、穴の空いた風船のようにくるくる上昇する箒のままに空にあがっていく。そして遂に、ネビルの手はしがみついていた箒から離れてしまった。真っ青な顔をして、まっ逆さまに墜ちていく。
皆がネビルの墜落に釘付けになって、悲鳴が響くなか、スバルは懐から杖を取り出した。浮遊呪文か──否、動く標的に試したことはない。もし外せば何の意味もない、ただの無駄骨だ。落下地点は3フィートほど先の草っ原だ、一帯を緩衝材にしてしまえばいい。杖を振るうと突如、薄紫色の何かが大地を抉って現れた。
変身術の授業でマッチ棒を銀の針に変えた魔法の応用だ、地面を巨大なベッドに変えたのだ。
「うわぁっ」 叫び声をあげて、ネビルはそのラベンダー色のカバーに包まれた羽毛布団に落下した。歓声が上がる。
上手くいったように見えたが、問題があるとしたら、そのベッドを上手く作りすぎてしまったことだろう。ネビルは、強力なスプリングを内包していたベッドマットに跳ね返って地面に投げ出された。「アイタッ」
そしてネビルの後を追うようになにか、玉のようなものが同じようにベッドで大きく跳ねて、スバルのもとに降ってきた。
ガチョウの羽毛を舞い散らせながら草原に転がったネビルはなんとも間抜けな図だった。マダムと生徒たちがネビルのもとに走り寄って、ネビルの様子を確認する。地面に転がったときに擦った足が打ち身に、何より墜落のショックが大きかったのか、青ざめたままぶるぶると震えている。
「怪我は大きくはないけれど……医務室にいった方がいいわね。ネビル、大丈夫よ。立って」
半ベソをかいたネビルを促して、フーチは生徒たちを振り返り、医務室にいく間その場から動かず、箒にも触れないように忠告した。その背に、スバルの横にいたサリーが声をあげた。「先生、医務室ならスバルも──Ms.シノノメもお願いします」
「サリー、何を」 ぎょっとしてサリーを見た。
「あなたさっき腕を何か、降ってきたロングボトムの持ち物だかにぶつけたでしょ」
「これくらい医務室にいくほどじゃあないわ」 まさか見られていたとは、スバルは腕を背の後ろに持っていく。
「なに、スバル。怪我したの? 見せてみなさいよ」
近寄って腕をつかもうとしたパンジーの手をかわし、フーチに「私、大丈夫です。それよりMr.ロングボトムを早く医務室につれていってあげてください」と言ったが。
「大丈夫かそうでないかは、あなたではなく教師が判断するのです」 フーチは、ネビルと共にスバルも医務室に連行することに決めたようだった。
フーチはネビルとスバルを医務室、その主マダム・ポンフリーまで送り届けるとすぐに戻っていった。
医務室は晴れやかな九月の陽光が射し込み、カーテンや空いたベッドの白が明るく照らされていた。マグルの学校の保健室のような消毒液の臭いはなく、牛乳とはちみつの甘い香りが漂う。ポンフリーはネビルを診ると、かわいそうに震えたままのネビルと付き添うかたちになったスバルに温めたミルクを差し出した。
ポンフリーが訪ねたネビルを見て少し呆れたように、またあなたですかと言ったから、スバルは彼が魔法薬学でも医務室に送り出されていたことを思い出した。その時と比べれば怪我は大したことはないし、精神的なショックが大きいくらいだろう。あたり処が悪ければ死んでいた可能性もあるが、たかだかビル四階程の高さからのダイブ、しかも彼は魔法使いだ。たとえ彼自身がどう思っていようと。
温かなカップを握りしめてうつむいているネビルを横目に、スバルは苛々と波打つ心を鎮めるよう、牛乳で口を湿らせた。
彼女の感じている不愉快はネビルの態度のせいではない。ただただ、自分への腹立たしさだった。
ネビルを先に医務室に入れてから、フーチはスバルを呼び止めて、授業中に許可していない魔法を使うのは誉められた行為ではない、と注意した。
「はい、反省しています。不用意に怪我を増やしてしまったことも含め、先生の許可なく魔法を使用し、申し訳ありませんでした」 深々と頭を下げたスバルに、フーチはわかっているならばいいのですと頷いた。
「しかしあなたが地をベッドに変えていなければ、彼はもっと大きな怪我をしていたでしょう。大変素晴らしい魔法でした、スリザリンに五点差し上げます」
この申し出を跳ね除けられたらどれ程よかっただろう。点を貰うのは何度目かだが、もっとも苦々しく忌々しい加点だった。
地面をベッドに変えたのは、ネビルのためを思ったのではなかった。授業が彼の大怪我というくだらないアクシデントで邪魔されるのを避けたかったからに他ならない。だというのに、結局助けたネビルは怪我をして、スバル自身もただの打ち身だったが自分の魔法が原因で負傷し、こうして医務室に送り届けられる始末で。ただ魔法を見せびらかしただけになったのに、誉められ、点さえ入れられてしまった。こんなに馬鹿馬鹿しく惨めなことがあるだろうか。授業は中断したし抜けてしまったけれど、戻る気も起きない。
「──シノノメ」
「ん、なに?」
己の失態は腹に据えかねるものだったけれど。蜂蜜が甘ったるいホットミルクも舌に合わないことも、ネビルのよくわからない怯えも、憤懣を抱いて向けるには相応しくないとわかっていた。だからスバルは、ネビルが漸く喋って彼女の名を呼んだとき、いつもの微笑みで返事をした。
「あ、あの、……ありがとう」
「いいえ、とんでもない」
その言葉は紛うことなくスバルの本心だった。礼を言われるようなことはしていないのだ、なにも。
「落ち着いたようでよかった、私はもう行くね」
そろそろ授業も終わる、とスバルは飲み終わったカップを持って、席をたつ。終わればきっと、パンジーたちはスバルの様子を見に来るだろう。その時ネビルが傍にいれば、グリフィンドールを強く敵視する彼女が彼に何も言わないとは思えない。面倒なことになるのは嫌だった。
「あ、ま、まって!」 去ろうとしたスバルの背をネビルを呼び止めた。同じようなことがあったなと振り返って思い出す。「どうしたの?」
「き、君は、……スリザリンだ」 口ごもりつつ、ネビルはスバルから目線をそらした。顔はまだ少し血の気が失せている。「……僕は、汽車で会ってから、てっきり……」
彼のネクタイはルビーと金色。スバルとは異なる色だ。
「そうよ」 スバルは前、ハーマイオニーの感情を読めなかったように、ネビルはどう返して欲しいのかもよくわからず、肯定する。
「うん……」
俯いたネビルは何故か悄然としていた。
彼を置いて去ることもできたけれど、そうはしなかった。医務室にはスバルとネビルだけ、汽車の中での会話とどう違うだろう。
「私にとって寮はどこで生まれたかと同じくらい些細なことだけど、ネビルは違うの」
え、と顔をあげたネビルに、スバルは眉を下げてみせた。そうすれば、少し悲しそうな笑顔を作れる。
「スリザリンの私が話しかけるのなんて、あなたは嫌なのね。ごめんなさい、気づかなくって」
「ち、ちがう……! そんなつもりはない、僕だって、生まれなんか気にしやしない……!」
スバルの表情に、沈んだ声に、ネビルは慌てて首を横に振る。彼の否定は大きかったが、医務室の奥に引っ込んでいたポンフリーから飛んできた「お静かに!」という注意に、すぐ萎縮して肩を縮こまらせた。「……その、スバル、君と話せるなら嬉しいよ」
打って変わって消え入るような呟きに、スバルは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。
もういかなきゃ。怪我も薬害も綺麗になったみたいだけど、くれぐれもお大事にね。じゃあ、また」
赤面したネビルに、今度こそ別れを告げた。
寮なんて、スバルにとっては生まれと同じくらいのものだ。取るに足らない些末で、自分にはどうしようもできない、選べないことだ。
鏡面に灯火を揺らがせるホグワーツの大広間。新入生はたくさんの視線と静かな熱気、渦巻く期待にさらされながら、スツール上の襤褸帽子によって寮の名を告げられる。遥か昔に誇った魔法使いと魔女の頭脳を分け与えられた組分け帽子は、スバルの頭を覗いたとき、すぐにその答えを与えなかった。
『君ほどの才覚があればどの寮であってもうまくやっていけるはずだ。そしてその寮生活はどれも実りあるものとなるだろう』
スバルの耳の内側で、帽子が小さい声がした。そしてまたスバルの考えを見て、『君がそう望むなら』と低い声で言ったのち、彼女のネクタイはエメラルドと銀で彩られた。
どの寮でもうまくやれるのなら、どの寮だって違いはない。スバルにはやはりスリザリン以外に選択の余地はなく、選ぶことはあり得ない。
スバルにとってホグワーツは学ぶ場所であり、同時に何にも干渉されることのない生活を獲得するための踏み台であればよかった。