02


 魔法薬学の教室はスリザリン寮と同じく地下にあり、湿気を含んだ空気で満たされていた。その壁には何やら怪しげな物体を詰め込んだ瓶が並び、薄気味の悪さを醸し出している。鬱々とした雰囲気を好む傾向があるスリザリン寮生徒でも、これには気分がやられるらしい。何の魔法動物かわからない眼球のホルマリン漬けの傍に座ってしまったスリザリン生は、少しずつ距離をおこうとしていた。
 棚の横に座ったパンジーは、小声で隣のダフネとスバルにささやく。「スネイプ先生ってちょっと悪趣味なんじゃない?」

「インテリアとして飾ってるんじゃないんだからまだそうとは決まってないわ」
「好きじゃあなかったら教授にまでなれないわよ」
「……材料よりも調合する過程が好きとか、色々あるでしょ?」
「どうかしら」

 パンジーは、スネイプ教授は寮監督としては素晴らしい人だが、嗜好の面では残念な人物と思っているようだった。食い下がるようにフォローしたダフネも言いつつその声色には喜色が滲みでている。

「ねえ、どう思う?」 その隠しきれていない笑みのまま、水を向けられたスバルは、うーん、と少し考える素振りを見せる。
 入学初日、大広間で見た教師陣は、スバルたち生徒が食事をするテーブルを眼下に見据えるような少し段上に位置している机を利用しているため、とても遠いところにいた。監督生から教わった寮監を見たのはそれきりで、今日の授業ではじめて同じ地面に足をつけているのを見るのだ。遠目から見た教授は黒鉛のような髪と同色のローブをまとい、上から下まで真っ黒で、非魔法族マグルが想像する魔法使いらしい魔法族だったことを思い出すと、すこし口許を緩めた。

「……前途ある若者に魔法薬の素晴らしさを伝えたいからっていうのは、教授を志すには足りない?」
「えーっ、あの顔でほんとにそう思う? もしそうなら私、ちょっとあなたのこと見直そうかしら」

 こらえきれずクスクスと笑ってしまった彼女たちに、ちょうど置いていったスリザリンの男子が入ってきて、不思議そうに視線をやった。

「ドラコ! 良かったらここに座らない?」

 その中のマルフォイの存在にいち早く気づいたパンジーは、彼らを手招きして前の席に促す。呼び掛けられたマルフォイとその隣にいたクラッブとゴイルは、パンジーの声に頷いて一直線にこちらへとやって来た。

「こんにちは」
 スバルを視界に入れてから惑うような仕草を見せた三人だったが、スバルが笑って挨拶をすると、ぎこちなくだがああ、とか、うん、と銘々に応えた。そのまま彼らは、机上に教科書の入った大鍋をどん、と置く。「なあ、君たちも楽しみだろ?」 前の席に腰を掛けたドラコは、すぐに後ろを振り返ると、ニヤリと口角をあげて目配せする。どういうこと、とダフネが聞き返した。

「惚けるなよ、この授業で初めてグリフィンドールと合同になるんだ。
 えーっと、なんだっけ? あの死に損なった男の子だかなんだか忘れたが……、所詮マグル育ちだ、簡単なおでき薬さえ作れないに違いない。調子に乗ってるあいつらの鼻っ柱がおれるところ、見物だろうよ。ああほら、やつらのお出ましだ」

 後から入ってきたのはグリフィンドール生だ。スリザリン生の大半が座っているのを見てあからさまに顔をしかめたあと、空いた片方へ固まって座った。
 スリザリン寮と他寮──主にグリフィンドール寮との軋轢は、入学して一週間でも学校の随所で見られることだった。スリザリン寮監督であるスネイプ教授の自寮贔屓は、その顕著な例らしかった。スリザリン寮の上級生は、談話室で新入生に他の教師の無能さと寮監の素晴らしさを上機嫌で語り聞かせていた。曰く、彼はスリザリン寮生徒のよき理解者であり、正しき思想と気高い精神の元に生徒を指導しているのだそうだ。

 その人望溢れる教師の顔がスリザリンにのみ向けられるだろうことは、スバルとて薄々感づいていたのだが。
 渦中の彼は開始時刻きっかりに黒板の横の扉から入室し、冬の闇のようなくらい瞳で緊張した面持ちの生徒たちを見たあと出席を取り始めた。そしてある生徒まで行くとその湖底を連想させる冷ややかな声を少し止めて、はじめて表情らしい表情を見せる。

「あぁ、さよう……ハリー・ポッター。我らが新しい──スターだね」

 酷薄に口角をつり上げ、めらりと瞳を揺らがせた彼は、どうやら、ハリー・ポッターの熱烈なファンのようだった。



「フツフツと沸く大釜、ユラユラと立ち昇る湯気、人の血管の中をはいめぐる液体の繊細な力、心を惑わせ、感覚を狂わせる魔力……諸君がこの見事さを真に理解するとは期待しておらん。
 我輩が教えるのは、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえ蓋をする方法である──ただし、我輩がこれまでに教えてきたウスノロたちより諸君がまだましであればの話だが」

 彼は出席をとったあと、滔々と語る。紡がれる言葉はとても幻想的で、愛想とは縁遠そうなその人物が口にするには意外だった。どこか現実離れした地下牢教室の冷気のためか、よく似合っていた。
「ポッター!」
 大きくなくとも不思議と生徒の耳にすらすらと入ってきていた声が、突然鋭く張り上げられ、生徒の肩を揺らす。名前を呼ばれたハリー・ポッターは困惑した様子を見せる。
「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」
 スバルの視界の隅で、ばっと威勢よくなにかが動いた。見覚えのあるふくよかな栗色の髪の持ち主が、手をぴんとあげていた。ハーマイオニーだ。
 しかしスネイプ教授は一瞥もくれず、ハリーの反応をじっと見ている。
「わかりません」
「チッ、チッ、チッ──有名なだけではどうにもならんらしい」

 それから彼は、続けて問いを重ねた。
「ポッター、もう一つ聞こう。ベゾアール石を見つけてこいといわれたら、どこを探すかね?」
 またもスバルの視界の端で、勢いよく動く影があった。ハーマイオニーである。クラスの面々は教授とハリー、そしてハーマイオニーを交互に見ては、忍び笑いをしたり忌々しげに教授を睨んだりとそれぞれだった。言わずもがな、前者がスリザリンで後者がグリフィンドールだ。
「わかりません」
「クラスに来る前に教科書を開いて見ようとは思わなかったわけだな、ポッター、え?」
 さて、スバルの前で普段気だるげに青白くさせている顔を血色鮮やかに染め、笑っている少年たちがいるが、『開いて見た』であろう彼らはこの問いに答えられるのだろうか。
 ハーマイオニーはあてられなかった手をしぶしぶ降ろしている。

「ポッター、モンクスフードとウルフスベーンとの違いはなんだね?」
 ガタンと椅子が倒れる音がした。彼女が立ち上がったからだ、その手は真っ直ぐ高くあげられている。スバルは目を瞬かせた。
「わかりません。ハーマイオニーがわかっていると思いますから、彼女に質問してみたらどうでしょう?」
 ハリーはスネイプからの理不尽と取れる質問に、堂々とした声で言い返してみせた。教室で控えめに笑い声が響く。どちらの寮生徒も笑っていた。
 思わぬ反駁を受けたスネイプは、手を力強くあげて指先から足元まで棒のようにして立っているハーマイオニーにようやく冷たい視線をやり、一言、「座りなさい」という。

「教えてやろう、ポッター。アスフォデルとニガヨモギを合わせると、眠り薬となる。あまりに強力なため、『生ける屍の水薬』と言われている。ベゾアール石は山羊の胃から取り出す石で、たいていの薬に対する解毒剤となる。モンクスフードとウルフスベーンは同じ植物で、とりかぶとアコナイトのことだ。どうだ? 諸君、何故今のを全部羊皮紙に書きとらんのだ?」

 教授の言葉に、慌てて鞄から羊皮紙や羽ペンなどをだして開く音、ペンを紙に走らせる音が教室中でひびく。スバルも机上に置いていた羊皮紙に書き込む。
 その小さなざわめきの中、教授は「ポッター、君の無礼な態度で、グリフィンドール一点減点」と告げた。

 『スリザリン寮生徒にとってのよき理解者』という前評判に、スバルはあきれ返っていた。スリザリン贔屓を聞いてはいたが、他寮差別といった方が正しいように思えた。
 始まりの洗礼の後、おでき薬を作る段になっても、指摘は的確であったが言い方はイギリスらしく陰湿な皮肉にまみれたものであったし、マルフォイの作業を持ち上げたのは純粋に結果が素晴らしかったからだけではなく当て付けだろう。パンジーがマルフォイに羨望の眼差しを送る横で、スバルは視界の端にハーマイオニーが文句の付け所なく教科書通りの模範的行程を踏んでいるところを捉えた。

 その時、異臭が鼻を掠めた。金属の熔解臭と蛋白質の焼ける臭い。同時に、毒々しく色づいた煙が大きな音と共に、教室に立ちこめ始めた。
 発生源はスバルの後ろ、グリフィンドール側で薬を作っていたネビル・ロングボトムがもとは大鍋だったらしき小さな錫の塊の前で、濡れ鼠になってざ瘡・・をぽつぽつと身体中に浮かび上がらせている。どうやら彼が作成途中の薬だったものを撒き散らしたようだった。縮れた鍋から漏れた液体が石畳の狭間を伝って広がり、そこかしこで物が熔ける音がする。

「やだ、信じらんない!」 サリーが悲鳴をあげて椅子の上に昇って避難する傍ら、スバルも椅子に腰かけて己の鍋に浮遊呪文をかけた。完成間近の薬が入った鍋は床から10センチほどあがって停止する。鍋や薬を駄目にされては堪らない。
 しかし液体は這い届く前に教授の「バカ者!」という叱責が飛んで、魔法に掛かって消失した。鼻につく金属臭と、生徒の靴のゴムの焦げた臭いは残ったままだったが。

 真っ赤に張らした患部の痛みか教授の剣幕か、泣き出したネビルはグリフィンドールの生徒に付き添われて教室を出ていった。スネイプはその指示を出したあと顔を苦々しく歪めたまま、ネビルの隣で鍋をかき混ぜていたハリーに向き直り、ネビルのミスを注意しなかったことにあげつらって減点を申し付けた。
 反論か、スネイプの背に口を開いたハリーは少しよろめいて、側にいたロンを見る。ロンが何事かハリーにささやき、ハリーは不満そうな色を残しながら口をつぐむ。

 一連を見てから、スバルは鍋を地に降ろす。消失呪文を掛けるなら臭いも消してほしい、と不快に思いながらおでき薬の仕上げに取りかかった。


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