序
──とおりゃんせ、とおりゃんせ
歌が聞こえる。
真っ暗闇のなか、誰かが歌っている。
闇をかき分けただただ進む、どれくらい歩いたことだろう
わからない、進んでいるのか、下がっているのかわからない
足はこわばり、鈍痛が身体を廻り、もう限界を超えていた
それでも、あの人は言ったのだ
振り返ってはいけないよ
返事をしてはいけないよ
ただ前に進みなさい、と
後方になにかが、付かず離れずついてきている気配がする
ただそれだけが、己れの歩く先が前だと伝えている
立ち止まれば、きっと追いつかれて、それで──
嗚呼!
恐ろしい、こんなはずじゃあなかった
もっと描いていた、理想の世界があった筈なのに……
──行きはよいよい、帰りはこわい
かたん、と音がした。
宵闇のなか、星々は輝く月の光に隠れ、木々は陰を濃く。涼やかな鈴虫の声が響いている。
「いま、お帰りですか」
屋敷の縁側を慎重に歩き進めていた影は、その声に肩を震わせた。
「……一期」
「お疲れ様です」
軍服を模した意匠を纏い、月光に柔らかな色の髪を照らされたその人は、ねぎらいをこめて僅かに笑む。
「起きていたのか」
秋の夜半、丑三つ時をとうに過ぎたころ。葉が風にさざめいて、遠くで鶫の声が聞こえる。静かな夜だった。
寝ていても良かったのに、と言外に聞こえる言葉に、彼はいいえと否定した。
「……あなたの近侍ですから」
囁くような声は闇に紛れ、陰に消えゆく。相手はそうだな、と同じく静かに呟いた。
りいん、と鈴虫が鳴いている。
夜明けが近い、秋の月夜のことだった。