ひとつ


 雲の切れ間からさす陽光が木々を照らし、山道に木陰を作っていた。ときおり枝葉が風に吹かれ、踏み慣らされた土に落ちるまだらな影もゆらぐ。地面の固い場所を選んで、遊ぶように跳んで道を行く小柄な姿がひとつと、その後ろをゆっくりと歩いて進む姿がひとつあった。
「転ばないようになー」
「はぁい」
 後方からかかる声に、子どもは次に踏む地面を探しながら、いつもより大きく声を張り上げた。下を向いていて、聞こえづらいかもしれないからだ。本当は相手の顔を見て言わなくてはならないのだけど、ちょっと目をそらしたら河に落ちて濡れてしまう。そうなると負けなのだ。彼の頭のなかでは、陽にあたって乾いたところだけが水面に顔を出す岩であり、生命線である。
 元気な返事を聞いて、後ろを行く青年は空を見上げた。葉の隙間から覗く空は概ね晴れといって良い天気だったが、ちらほらと雲があるし、山の天候は移ろいやすい。昨夜だって雨が降り、道はところどころぬかるんでいる。彼は、雨の兆しがあれば連れ戻す役割でついてきていた。

 ばさりと羽ばたいて、鳥が近くの樹から飛び立った。くわっと鳴いたその音につられ、つい子どもは顔をあげる。今のはなんて鳥だろう、カラスのような鳴き声で、羽は灰色だった。森で隠れてすぐに見えなくなったが結構大きい鳥だったように思う。のんきに歩く青年の鼻が水の匂いを嗅ぎとったとき、弾んだように鳥の飛んだ先を見た少年が、わぁと感嘆の声をあげた。「川だ!」
 小道の先には、本物の川があった。木々のざわめきに混ざって、ざあざあと水の流れる音がする。少年は足下の河を忘れて、薄桃色の髪を揺らしながら川縁に走り寄った。大きなうねりで流れる水量は多く、白い波が川中に突き出た岩を攻め立てている。
「あんまり近づくなよ、水嵩が増してる」
 追い付いた青年は、輝く眼で川をみる少年に注意しながら、下流を指差した。
「雷が落ちたのは、この先だ」

 川から少しだけ離れてなぞるように降っていき、激しかった流れが緩やかになるころ、向こう岸の川縁に見えてきたひときわ大きな木。常ならば邸の庭から臨めた杉の大木だったが、無惨に幹の半ばで朽ち果て、青々とした葉は此岸に投げ出されていた。
「すごい……! 雷、ですよね」
「ああ、こりゃ見事に折れたな」
 久々に雷雨に見舞われた昨日、初めての豪雨に高揚した少年が締め切られた雨戸と硝子障子の狭間から見たのは、とどろく雷鳴と重く垂れ込めた灰色の雲から延びた光。瞬いたのちには、遠山に突き出ていた一本の樹がなくなっていたのだ。一夜明けて雨が止んだ今日、少年はどうなっているのか見たいと目指してやってきた。
 辺りは焦げ付いた火の名残が幽かに漂っていた。焼けた樹の断面は、向こう岸にあるとはいえ、落雷の威力を窺い知れる。道中で摘んだ花を握りしめながら、少年は茂る樹の葉に駆け寄った。
「すごい……」
 触れたのは瑞々しい、若葉だった。片手にある花と変わらず、命が感じられた。葉を辿った先の幹は黒々と絶命している。──昨日まで生きていたのに。
「あれ」
 図らずも頼りない橋となってしまった大杉の途中、川幅の中心ほど、枝葉が生い茂る幹に何か白いものが引っ掛かっているのが見えた。立ち上がってよくよく目を凝らす少年に気づいた青年も、続いてそれを発見した。否、白だけではない、水中で漂うには濃い、人工的な藍色も。
「何だァ? 着物……いや、」
「あれ、まさか、人間ですよ!」
 同時に気づいた彼らは、樹の幹を軽快な身のこなしで渡り、葉やら土やら枝やらにまみれたその身体を引っ張るが、折り重なった枝が邪魔で思うように引き寄せられない。「ちょっと退いてろ!」 青年が腰に佩いた刀を抜いて、枝をまとめて叩き切ると、支えを失った身体が水流で幹にぶつかる前に掬い取る。ぐったりと重く水を吸ったそれを抱えて、岸に戻ると、河原の平らな場所に横たえた。
 冷えきったと思えた身体は、首に触れれば存外温かく脈打っていた。
「い、生きてる……!」
 少年が震える声でささやくように言ったとき、げほっと噎せる音がした。水を吐き出して、細く呼吸をする身体。「オイ、平気か?」 すわ気がついたか、と青年が肩を揺すって声をかけるも反応はなく、僅かに上下する胸が生きていることを主張していた。
「ど、どうしよう」
「そーだな。取り敢えず、主に報告か」





 ごうごうと逆巻く波が身体を運んでいく。ぐるぐると激流に揉まれ、上も下もわからない。冷たい水は身体を蝕んで、温度が奪われる。頭だけが冴えきって、為すすべもないまま、ただ流されていく。

 ──遠く水底で、声が聞こえる。喚ばれている。だから、行かなくては。

 ──何処へ?



「どこだろう……」
 和室の中央、敷布団一式に身を横たえた部屋の主は目を覚ました。木目の天井はそう馴染みのあるものではなく、ゆっくりと身体を起こした。六畳一間の、床の間の一輪挿しに飾られた野草が、開け放たれた障子から入る風に揺れている。障子の外、縁側の先には池と橋があった。
 そこまで視線をやって、その人はふと枕元に目を落とし、眼鏡が置いてあることに気づいた。
 ああ、何か欠けていると思ったのだ。眼鏡をかけると不明瞭な景色は色づく。これでばっちりだと一人頷いてから、だかしかし、その人にとって知らない場所であることは変わりなかった。野あざみだろうか、薄赤の花が花瓶の中で素知らぬ様子でそよいでいる。
 ぶるりと肌が粟立った。敷布団についた手は冷たく、そして枕もほんの僅かに濡れていた。頭に触れてみれば髪が湿気っていて、その水分が枕に移ってしまったのだろう。「なんでだ……」 呟かれた声は暖かな風にのって消えた。
 縁側を覗けば、ずいぶん長く続いていた。広々とした庭の先には四阿あずまやもあった。
 さて、どうしたものか。部屋から出ずに障子の近くに座って、その人が今後について首を捻ったとき、背後でスッとふすまの開く音がした。「あっ! お目覚めですか!」
 高いこどもの声だ。ふわふわとした髪から、青く透き通った瞳がのぞく。「よかったぁ、お身体はどうですか?」 手に持った盆を起きながら、布団から抜け出したその人ににこにこと伺う少年。盆の上には水差しと湯飲みがある。
「お水です! もし喉が乾いてたらどうぞ!」
「ありがとう」
 桃色の髪に帽子を被り、軍服のような意匠を纏った少年は、毒気のない笑顔が向けた。その人は眩しそうに目を細め、一先ず礼を述べてから問う。「ええと、ちょっと聞いても良いですか?」
「はい? 何ですか」
「ここは、どこなのかな」
「本丸ですね、僕たちのお屋敷です」
 惑いなく答えられた言葉にその人は頷いて、「じゃあ、どうしてここにいるかとか、わかります?」と聞いた。
「雷の落ちた樹を見に行ったら、近くで川に流されていた貴方を見つけたんです」
「かみなり、川……。そう……」
 呟き、思案するように溢して黙ったその人に、今度は此方が聞いても良いだろう、と少年は興味津々といった様子で尋ねる。「あの、聞いても良いですか?」
「はい? どうぞ」
「何であそこにいたんですか?」
「えっ、何でだろう。何でだと思います?」
「えっ」 思わぬ返答だった。逆に聞き返されてしまい、少年は戸惑う。「わ、わかりません」
「ですよねぇ」 うん、と頷いてその人はおどけたように笑む。「何故だか、此処に至るまでの記憶が抜け落ちてしまっていて。そりゃもうさっぱりと」
「ええっ」
「困ったなぁ」
 そう言う割には、焦りの滲まぬ穏やかな声音だった。きょろきょろと室内を見渡して、また少年を見る。
「ところで、君は? あとここ、他にも人がいるのかな……」 少年の『“僕たち”のお屋敷』という台詞を思い出してか、その人が聞いた。
「はい、僕のことは秋田と呼んでください!」 高らかに名乗りをあげた少年──秋田は、続けて言った。
「そうだ、主君にお伝えしなくちゃ……」
「しゅくん?」
「はい! 何かわかるかもしれません」

 待っていてくださいね、と告げて、時計がないため正確なものはわからないが、半刻ほど経った頃。ぼんやりと庭や池の鯉を眺めているその人の元へ、同じように襖が開いて、秋田と名乗った少年は声をかけた。
「失礼します」
 最初は盆を抱えていた腕に、今度は別の物を持っている。
「その子が『しゅくん』ですか?」
 腕からぶら下がった尾は白と黄金色に包まれている。ピンとたった耳と少し尖った鼻先。顔には狐の面のような隈取りがなされているが、瞳は大きくつぶらで、ぬいぐるみのようだ。『しゅくん』と呼ぶには不釣り合いにそれに、しかしその人は目の前のこどもに尋ねる。
「いいえ! この子はこんのすけです」
 秋田は布団のそばに正座すると、腕に持っていたこんのすけを畳の上に置く──否、こんのすけが畳の上に飛び降りた。「えっ」 ぴょんと跳ねたこんのすけは、身軽に着地するとくるりと尾を翻して、秋田のとなりに犬のように『おすわり』をする。
「う、動くんだ……?」
「はい!」
 驚愕に染まった言葉に、秋田が元気に答えた。現実をとらえきれていないようで、秋田とこんのすけを交互に見る。まじまじとこんのすけを見つめるその人は、更に驚くこととなる。
「はじめまして、私はこんのすけです」
「し、喋るんだ……!?」
「はい!」
 朗々と名乗った狐に、その人は布団を巻き込むようにして後退りした。わなわなと震えるその人に、先程と同じように返す秋田の声がほがらかに響いて、少し場違いだった。「ゆ、夢か……?」と目をこすり、乱れた布団を戻したその人に、黒く光る目でこんのすけは問う。

「あなたは何者ですか」


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