確かな蒼を纏う人

「私の下で学べ。杏寿郎」


 朗らかに笑って俺の頭を撫でたその人の手が、少しひんやりしていた事を今でも覚えている。



 ◇ ◆ ◇


 その人に初めて会ったのは、送り込まれた隊士が何人も行方知れずになっている山だった。

 季節は冬。
 吐く息までも凍りそうな寒さに加え、降り続く雪が体力を奪っていく戦闘には圧倒的不利な環境下。


「あらあら、もう終いかえ?童よ」
「くっ…、まだだ!」


 そんな山を根城にしていた鬼はまさに雪女の如く。
 積もる雪を、凍る空気を自在に操る血気術の使い手だった。
 炎と雪では圧倒的に自分が有利だというのに、繰り出す斬撃は悉く阻まれ、打ち消されてしまう。


「(冷静になれ…冷静に…!)」


 そう頭では分かっていても焦る気持ちは加速を止めない。
 雪にとられ踏ん張りのきかない足元。雪の白に散る赤い斑点。徐々に奪われていく体温。周囲の音すら吹雪の轟音にかき消され、頼れるものはなにもない。

 ー 絶体絶命 ー

 その四文字が頭に浮かんだのは、眼前に迫る鬼の手に反応することが出来なかった時だ。


「やっと見つけた」


 殺伐とした空間の中に不相応な、穏やかな声が響く。
 一瞬の眩い閃光が目の前に走ったその直後、そこにあったはずの腕が消えた。

 そして響く鬼の断末魔。
 視界いっぱいに広がった蒼が羽織だと気付いたのは、


「無事か?少年」


 首だけをこちらに向けて微笑む、女性の優しい顔が見えたから。


「おのれぇ…妾の腕をよくも…よくもぉぉ!」
「五月蠅い奴だな…。どうせすぐに生やせるんだ、いちいち嘆くもんでもなかろうに」


 『生やしたところで、また切り落とすがな』と笑う様は、明らかに鬼を挑発するものだ。
 その挑発にまんまと乗った鬼は怒りに顔を赤く染めると長い髪を無数の蛇のように唸らせ、両手を振ると竜巻のような吹雪を起こし俺たちを覆った。
 荒れ狂う風の中に混じる無数の氷柱は、意思を持っている生き物かのように羽織を纏う女性を狙って飛んでいく。


「見かけによらず力技でくるとは…。少年よ、耐えられるか?」
「問題ありません!」
「よしっ」


 しかし女性は俺の安全を確認するとその余裕の笑みを崩すことなく、己に向けられた氷柱を日輪刀で叩き壊していった。

 その破片に皮膚が破れ、頬から血が流れようと関係ない。
 むしろ玩具で遊ぶ子供のように、心底楽しそうに笑いながら氷柱を切り捨てていく。
 目視することも難しい斬撃は衰えを知らず、時折見える吹雪の合間を見逃すことなく適格で容赦ない一撃を放っていた。


「(強い…)」


 圧倒的な強さを持って立つ、名も知らぬ女性隊士。
 対して自分と言えば、その背に守られながら強い風に飛ばされぬよう地面に刀を突き刺し、戦いの邪魔にならないよう踏ん張るだけ。

 男としても、隊士としても情けなく思う。
 しかしどんなに情けない姿を晒そうとも、この戦いだけは見逃すまいと意地でも目だけは開け続けた。


「ふむ、そろそろ飽きてきたな」


 どれほどの時間が経過したのか分からない。
 もう寒さすらも感じなくなった自分の耳が拾った声は、呆れたように息を付いた。


「他に特別な血鬼術でも出てくるかと期待したが…外れのようだ」


 長引かせて損した…と心底残念そうに首を竦めたその人は、チラリと俺を見ると「見逃すなよ」とまた笑う。
 そして応戦の手を止めると静かに腰を落とし、通常よりも低い霞の構えを整えた。


ひょうの呼吸 一片 −瓦解氷銷がかいひょうしょう−」


 一瞬だった。

 かまくらのように覆っていた吹雪の壁が音もなく縦に裂けた、その先で。
 まるで蹴られた毬のように、大きく宙を舞っていたのは鬼の首。


 その首は、くるくると回転しながら女性の手中へと落ちていく。

 何が起きたのか理解が追いつかないのだろう。
 驚愕に染まる鬼の首の切り口は氷の膜で塞がれていた。


「貴様…何をしたのだ。妾に何を…!」
「鬼殺隊がすることは鬼狩りのみ。私はお前の首を切り落とした。それだけだ」
「切られた…?妾が?ハッ、お前のような小娘に妾が殺られるわけがなかろうが!」
「もう終いだよ。…ほら、氷が砕ける」


 その言葉を合図に、ピシリッと亀裂の走る音が響く。
 切り口を塞いでいた氷が徐々にその面積を増やし、鬼の顔を覆っていった。最後まで喚き散らしていた口も氷で塞がれ、やがて全てを飲み込むとバキッと鈍い音を立ててボロボロと砕け落ちていく。背後で直立不動の状態のまま立っていた身体部分も氷の彫刻へと変貌を遂げ、脆くも崩れ去っていた。

 呆気ない終わり方に力が抜けた膝は地面に落ちる。
 自分は助かったのだと思うと同時に、拭いようのない悔しさが胸に圧し掛かった。

 鬼に遅れをとった自分。
 思うように戦えず、死すらも覚悟してしまった弱さ。
 抗えないほどの羞恥と悔しさが思考を覆っていく。

 対して、助けに現れた女性隊士はどうだ。
 鬼を相手に遊ぶことの出来る余裕と、相手に切られたと気付かせないほどの一撃を放てる技の精度。どちらも今の自分には到底出来ない。

 己と女性隊士に存在する力量の差に、ただ打ちひしがれた。


「意気消沈という言葉がピッタリな顔だな。大丈夫か?」


 目線を合わせるように膝を付いた女性隊士の顔には苦笑が浮かぶ。
 きっと心情を察してのことだろう。情けない顔を晒したくなくて、目を逸らすように俯いた。


「…私が来るまでよく耐えたな。殉職した隊士も、実に立派だった」


 この任務を任されたのは、自分を含めた5人の隊士。その前にも消息は絶ったが、何人もの隊士が派遣されていた。
 なのに生き残ったのは自分だけ。未熟な自分だけ…。


「不甲斐なし…!」


 地面に叩きつけた拳は、音もたてずに雪に埋もれた。
 何度打ち付けようとも衝撃は雪に飲まれ、拳が傷つくこともない。それがより一層、情けなさを助長させて涙が零れそうになる。

 けれど自分に泣く資格はない。だから滲んで零れそうになる雫を必死に抑え込んだ。


「…少年よ、名はなんという」


 頭上に投げられた問いに、震える声で名を告げた。 いまや廃れた名家と嗤われる「煉獄」の名を。
 すると「やはりな」と小さく呟いた女性隊士にグッと肩を掴まれ、顔を上げさせされる。


「私は八重浪露華。氷柱を襲名し5年が経つ」
「柱…」


 その階級を聞き、彼女の強さに合点がいく。
 鬼殺隊の中でも圧倒的強さを誇り、先陣を切って鬼の殲滅にあたる隊士を導く存在。それが柱だ。

 強いがゆえに危険な任務にもあたることも、討死することも多い柱を5年も務めあげているその経験たるや相当のものだろう。
 まだ己である自分が目指すべき場所に就く彼女は俺の眼を見ると、氷とはかけ離れた温かい笑顔を見せて言った。


「私の下で学べ。杏寿郎」