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 毎夜、鬼と戦い怪我を負った鬼殺隊員が収容される蝶屋敷。
 重症軽症問わず運ばれてくる患者たちを、胡蝶姉妹が中心になり生と死の狭間を彷徨う命を繋ぎとめる治療に日々当たっている。そんな戦場といっても過言ではない屋敷に、ある日から1人の女が働き始めた。

 年は十六・七になるだろうか。
 胡蝶姉妹のような息を飲む美人というわけではないけれど、その造形は穏やかな可愛らしい顔立ちをしていた。
 滲み出るのは不思議と人の心を落ち着かせてしまう空気感。聞き取りやすい、たおやかな話口調。ガタイのいい隊士に囲まれてしまえば埋もれてしまう華奢な身体。手は白魚のように細く美しいのに、処置をする手技に迷いは一切ない。
 怪我や後遺症に苦しむ隊士には菩薩のような優しさで、治療拒否や術により自我を失った隊士には修羅のような厳しさで接する女の名は紡。

 物珍しい形をした深緑色の洋装に少し長めの白衣を引っ掛けた変な井出達ではあるけれど、彼女は類まれな技術と腕を持つ医者だった。


「うん、ここまで回復すれば大丈夫でしょう。機能回復訓練へ移行して構いませんよ」
「ありがとうございます」


 鬼との死闘で腹に大きな傷を負った男性隊士。一度は三途の川を渡りかけたが紡の治療によって一命をとりとめ、こうして無事に戻ってこれた1人だ。
 そんな隊士の順調な回復を確認し、紡はその記録をしたためながら安堵の笑みを浮かべた。その優しい微笑みを直視した隊士は頬を赤く染めながら頭を下げると、後ろ髪を引かれつつ診察室をあとにする。彼にはこれから治療よりも厳しい機能回復訓練が待っているのだ。

 パタパタを駆けていく力強い足音に「現場復帰も近そうですねぇ」と言葉を零すと診療録を閉じ、身体を背凭れのある椅子に預け木漏れ日の差し込む窓の外へと目を向けた。

 紡が蝶屋敷に身を置くようになり早二月。
 いまや鬼殺隊を陰から支える医師として頭角を現す紡だが、彼女にはごく一部の人間にしか知らされていない秘密がある。



 ◇ ◆ ◇


 遡ること二月前。
 紡は大正でなはい、令和という時代を生きていた。
 幼い頃から抱いていた医師になるという夢を叶えると都内の大学病院に勤め、毎日激闘の日々を送っていた。けれどいつしか充実していたはずの仕事に苦痛を感じるようになり、時を同じくして職場や友人などの人間関係にも問題が生じるようになる。

 報われない仕事。
 身に覚えのないことで陰口を言われる日々。
 友人とも疎遠になり、両親も不慮の事故でこの世を去った。
 不運に不運が重なったことで心身ともに疲れ果ててしまった紡が都会を離れる決意をしたのは、30の誕生日を迎えた日のこと。


 そして紡が次の場所に選んだのは、本土から船で1日半かかる離島だった。
 島民数百名ほどの島に1件だけあった診療所は、勤めていた大学病院とは雲泥の差があった。

 すべてが最先端だった大学病院。人も器具も薬品も、治療に必要な環境は整っていた。
 しかし小さな診療所にあるのは必要最低限の入院設備に医療器具。医療物資が届くのも週に1度ほど。決して十分とはいえない環境ではあったものの、嘆いている暇もなくあっという間に時間が過ぎた。

 ただ救いだったのは程よい距離感を保ってくれる島民の人柄や、穏やかな島の風土が自分に合っていたこと。
 忙しくも東京よりも充実した島での生活が傷付いた心を癒すいい薬になっていることを感じながら、島民の健康と長寿の手助けをする毎日を送り4年が経とうとしていた。


『先生!お父さんが…!』


 今思えばだが、その日は朝から胸騒ぎがしていた。
 前夜から続く雨は時間を追うごとに激しさを増し、時折落ちる雷が空気を揺する。きっと避難警報も出ているだろう。しかし今避難した方が逆に危険。そんな状況に追い打ちをかけるかのように、1人診療所で待機する紡の元に一報が届いた。


『先生…すぐに、すぐにきて!』


 けたたましく鳴った電話先の声は酷く慌てていた。
 なるべく落ち着かせるように声掛けしながら話を聞けば、この島で民宿を営む家のオヤジの意識がないという。
 朝から頭が痛いと訴えて部屋で休んでいたものの昼ご飯の声掛けを何度行っても反応がなく、一緒に暮らす娘さんはそこで漸く異変に気付いたそうだ。


「分かりました。すぐに向かいます」
『お願いします先生…!』
「安心してください。大丈夫ですから」


 電話を切ってすぐさま準備に取り掛かる。
 意識消失の原因は様々だ。数少ない情報から想定される原因疾患を考えながら、血圧計にパルスオキシメーター、聴診器はもちろんのこと、点滴や注射器具、外科器具など全て鞄の中に物品を詰めていく。
 唯一の看護師はこの雨で自宅待機中。二次災害の危険性を鑑みて看護師に連絡することはせず、自分1人で向かうことに決めた。

 受付端が定位置である車の鍵と、本土にある提携病院の連絡先が入った携帯電話を引っ掴み、飛び出した。

 それまでの時間およそ3分。診療所から民宿まで車で15分ほどの距離がある。
 予断を許さない状況にある今、10分以内の到着という無茶な目標を掲げてアクセルを踏んだ。
 フロントガラスに叩きつけられる雨粒は滝のようで、絶えずワイパーを動かせど一寸先も見えやしない。けれどそこは慣れた道。4年も島に暮らし、日々往診で通っていたのだ。見えなかろうが大体は分かる。その感覚を頼りに道を突き進んだ。

 自分を必要としてくれる人がいる。自分の存在を認めてくれる人がいる。ちょっとした問題も笑い飛ばして、困ったときは助けてくれる人たちがいる。

 それがどんなに幸せなことか、この島の住民が教えてくれた。
 助けられる命を助けたい。「生きてて良かった」とそう感じてもらいたいから自分は医師を目指したことを、この島の住民が思い出させてくれた。

 だからこそ…。


「絶対助ける…」


 しかし、紡は忘れていた。
 行く道を阻む雨が、勢いを増しながら降り続いていたことも。そして、そこが島の中で何か所かある土砂の崩れやすいポイントだったことも。悪条件には、最悪な出来事が重なることも…。

 唸るような地鳴りにハッと息を飲んだ時には、時すでに遅し。
 目の前に土色が広がり、横になぎ倒される衝撃を一身に受けたのを最後に紡の意識はブツリと切れた。