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ぐっと凝り固まった背を伸ばし解すと、今にも折れてしまうのではないかと錯覚してしまいそうになるほどの骨の軋む音が鼓膜に届いた。ついでに首を左右に傾けるとこちらも嫌な音を立てる。
同僚には顔を顰められるほどではあるが、鳴らしたあとの爽快感が堪らなく好きなのだ。いつか折れるぞ、なんて小言をもらう毎日だが、口うるさい同僚はきっともう眠りについている頃だろう。
なんせ時刻はじき二十三時を回ろうとしている。サービス残業にしたってあまりにもな時間帯である。
まあ、ここまでの残業を記録として残すとなるとさすがにあの子が可哀想だから途中からタイムカードは切っていない。……完全な自己満足である。タダ働き。まったく良い先輩すぎて涙が出そうだ。
「……帰るか」
出来上がった紙の束とデータ資料を見るのは達成感がある。これでもう次上司と顔を合わせたとき、これでもかと飛んでくる嫌味に完璧な言い返しができる。よくやった私。自分で自分を褒め讃えながら飲みかけの冷えきったコーヒーをすべて流し込み、ようやくオフィスから退社した。
私がこの会社に就職してから何年経っただろう。大学の斡旋だったから五年弱ほどか。着られていたスーツを着こなすようになり、怖々していた運転を飛ばすようになり、楽しみだった社会人に辟易し、年齢を重ねるにつれて全てが面倒くさく感じるのに、五年。
このご時世に就職できたのは幸いだと皆が口を揃えて言う。もちろん私もそれは実感しているけれど。
エレベーターに映る自分の顔はずいぶんと疲れきっていた。
贅沢な悩みであることは理解しているが、“こう”なりたかったのだろうかという疑問は尽きない。子供の頃に漠然と、しかし確信のように持っていた自分の将来像は果たしてなにを描いていたのか、なにに希望を抱いていたのか。なにに楽しみを見出していたのか。今となってはその輪郭すら危うい。
なにか趣味のひとつでも見つければ楽しく生きられるのだろうかと、最近推し活やら飼育やらを始めた友人たちが見せたあの生き生きとした笑顔を脳裏に描く。とはいっても、今の無気力のままで趣味など到底見つけられる気もしないけれど。
呆然と鏡を見ていた私の耳に無機質な機械音が届く。B1と表示されてまもなく開いたドアから見える風景は代わり映えのないコンクリートで覆われた従業員専用の地下駐車場。
ビルに勤務する従業員はあまり多くはない。従って中央に止めてある私の車はずいぶん目立っていた。ボタン一つでエンジンまでかかる愛車は寒い冬にはもってこいのその性能に惹かれて数年前に買ったものだ。
乗り込んでからこうしてすぐ発車できるのは私によく合っている。
駐車場から出ると等間隔に設置された心許ない電灯が暗く道路を照らしている。時間帯だけに人影はひとつとしてなく、いつもは寄るコンビニの灯りだけがいやに眩しく感じられた。中ではあの無愛想な店員が眠たげな目で時間が過ぎるのを今か今かと待ちわびているのだろう。レジ台後ろにある棚に背中をもたれさせながら、欠伸をこぼして。
そんなどうでもいいことを考えながら安全運転とはかけ離れたスピードで走るとほどなくして家が見えてくる。中から漏れる明かりに照らされた駐車場に車を止めて、助手席に無造作に置いたスーツの上着と鞄を手に持って降りる。
外まで漏れてしまっている明かりに、近々カーテンを買い換えなきゃいけないと頭の奥で記憶付けながらドアを開けた。鍵はかかっていない。分かっていたから鞄から鍵を取り出すことはしなかった。
開けた途端にシチューか、カレーか、どちらにせよなにか煮込む匂いが鼻腔で留まる。規則的に聞こえる音は聞き飽きた包丁の音。
「──── ねえ。鍵、閉めてって言わなかったっけ?」
「……ずいぶんと遅いお帰りだねィ」
目線だけをこちらに寄越す長身の男はずっとここに住んでいたかのように、慣れているかのように私の姿を横目に認めるとぐるりと鍋の中身をお玉でかき混ぜた。
問いかけを無視したその態度にため息を吐きだす。数段低い声で彼の名前を呼ぶとようやく申し訳なさそうな顔で私を見遣るのだ。
中々身につけてくれない防犯意識は彼のためではないのだからその意識の低さはぜひとも改善してほしいところだが、一人暮らしでは得ることのできない誰かから迎えられる言葉に“しょうがない”と思ってしまうのもまた事実。
「ただいま」と声を掛けてからリビングを通過すると、当然ながら晩ご飯のいい匂いが空腹を刺激した。どうやら今日はカレーらしい。
「風呂なら沸いてるよい」
「そう。ありがとう」
一瞥すらせず料理に集中しながらそう伝えてきた様はさながら長年の彼氏であるが、お生憎とこの男は彼氏でも、ましてや旦那でもない。私からしても全くの他人である。訳あって居候のように扱っているがその経緯は奇特にも程があるものだった。
これ以上ないほどの仕事疲れを身に纏いながらスーツをハンガーに掛けて、そういえばと彼の背中を横目に見る。──── たしか彼に出会ったのもちょうど、これくらいの疲労具合だったっけ。つい先日のことなだけあって、あの日の出来事は鮮明なまでに記憶付けられている。それをぼんやりと思い出しながら、それでも